某保守派の大先生が、トランスジェンダーの問題について、トイレやお風呂の問題を議論する保守を便所保守と呼んでいます。
しかしトランスジェンダーについての問題は、トイレやお風呂など女性施設の問題でしかありません。
少し長文ですが以下の記事を読めばわかります。
2020年11月13日 松岡宗嗣
記事の著者はLGBT活動家で、何としてもLGBT差別がある事にして、LGBT理解増進法を成立させようと頑張っている人です。
しかしそのような人が書いた記事でも、トランス女性を名乗る人が、働くうえで問題になるのはトイレぐらいなのです。
しかもこのトランス女性は女子トイレに物凄く執着しています。
この人は中学の教諭なのですが、学校側も同僚の教諭達も、生徒や生徒の父兄もこの人が、トランスジェンダーとして女装して勤務する事を全く問題にしていません。
但し校長は男子トイレか障碍者用トイレを使用するように申し渡しました。
同僚の女性教諭達の圧倒的多数も、この方が女子トイレを使う事には強い抵抗があるようです。
これについてこのトランス女性は大変不満なようです。
「一人だけ階段を上り下りして、多目的トイレを利用する際、『君は”男”ではないことはわかったけど、”女”ではない』と言われているようで、強い孤独感を感じていました」
なるほど・・・・、しかし他人からすれば、この人を女とは思えません。
だってこの方は、結婚して妻子がいます。
だから戸籍上も男性で、名前も正式に変えておらず学校では本名ではなく、女性名の通名を使用しています。
妻子がいると言う事は、女性に性欲を持つと言う事でしょうか?
記事には性適合手術については書かれていません。
しかし奥様とは離婚もせず結婚生活を続けているのなら、男性としての性交渉も可能なのではと想像してしまいます。
しかしこれで一体どこが女性なのでしょうか?
これだと性犯罪等の危険性は、他の男性と全く変わりません。
他人から見たらこの方はただの女装男です。
女性教諭達にすれば、女装男でも男とトイレを共有するのは苦痛です。
まして女生徒ならもっと抵抗があるでしょう。
中学生なら思春期真っ盛りで、少女が性に関して最も敏感になる時期です。 この年齢だと自分の父親にさへ男性としての嫌悪感をもってしまい、それで父親との関係が滅茶苦茶になる子もいるぐらいです。 また自分の体が女になっていくのが不安で、拒食症になったりする子もいます。
教諭ならそういう女生徒の気持ちだって配慮するべきじゃないのですか?
当人が自分を女性と思うのは、自由です。
学校も他の教員も、生徒やその父兄も一切それは問題にしていません。
だから女装での勤務も問題にしていません。
現実問題として教員の仕事には、男女の区別はないので、本人が自分を女と思っても男と思っても関係ないのです。
しかし女子トイレの使用は、「本人の気持ち」だけの問題ではありません。 他の教諭や女生徒の気持ちも同様に重要な問題なのです。
ところがこの記事でもこの教諭の言動からも、他の女性教諭や女生徒達への気持ちの配慮は一切見られません。
他の女性達が自分を女と思わない事への不満ばかりです。
??
だったらこの方の奥様はこの方をどう思っているのでしょうね?
自分の夫が「女性」だと思って結婚なさったのでしょうか?
家庭では夫=男性として生活しながら、勤務先では同僚や生徒達に、トイレのような生理的な問題までも女性として扱う事を要求しているのですか?
因みにワタシは階の違うトイレを使うのがそれほどの苦痛だとは思えません。 実はワタシは工科大学卒なので、全学800人中女学生は10人と言う学生生活を送りました。
ワタシの入学以前はもっと女子学生が少なかったので、学校の設計も女子学生の入学を想定していなかったようです。 それで女子トイレは女子事務員が勤務する学生課などの場所の近辺にしかありませんでした。
だからトイレに行くために、長々学内を歩きまわった記憶があります。
これは大学だけではなく、女性の少ない所では普通の事です。
でもそれで女性達が文句を言う事もありませんでした。 だって不便だと言っても、健康な人間にとってトイレが多少遠いぐらいは大した問題ではありませんから。
ところがトランス女性なる人々は、なぜか女子トイレに入ろうとするのです。 しかも妻子がいたり、性適合手術を拒否したりと、女性に性欲があり、性交可能な人達が、女子トイレなど女性施設の使用を執拗に要求しています。
その理由が「一人だけ階段を上り下りして、多目的トイレを利用する際、『君は”男”ではないことはわかったけど、”女”ではない』と言われているようで、強い孤独感を感じていました」など、本人の気持ちの問題です。
それだけなのです。
自分の気持ちの為に、同僚女性教諭や女生徒は、自分を女子トイレに受け入れろ!!と言うのです。
それじゃ女性教諭や女生徒の気持ちは、どうなるのでしょうか?
唯ひたすら不快感を我慢しろと言うのでしょうか?
因みに女性が男性に女子トイレに入って欲しくないと言う気持ちは、単純に防犯だけが理由ではありません。
女性は男性が女子トイレに入る事には、羞恥心や恐怖心などが絡んだ強い不快感を感じます。 これはワタシも合理的に説明できません。
痛みとか不快感と言うのは、感覚の問題だから上手く言葉にならないのです。
しかし強烈に感じる事は確かなのです。
それなのになぜ女性はトランス女性の為に、この不快感を我慢しなければならないのでしょうか?
トランス女性が女子トイレに入りたいと言うのも、トランス女性が入っては嫌と言うのも同じく気持ちだけの問題なのに、なぜ女性の側だけがその気持ちの我慢を強いられるのでしょうか?
逆に聞くけど、トランス女性が女性だと言うなら、なぜこういう女性の気持ちや感覚を理解できないのでしょうか?
都合の良いところだけ「女性」になってもらっても困ります。
そもそもトランス女性が女性だと言う事自体が、100%本人の気持ちの問題、心の問題なのです。
ワタシはこの問題で一番理解できないのは、所謂「性自認」の問題です。
自分の性別をどう思うかは自分の自由です。
これは内面の問題ですから、国家や社会も他人もどうこう言えるわけもないのです。
しかし自分で自分を女性だと思ったから、他人にも自分を女性と思わせる権利はどこから来るのでしょうか?
この世にはトンデモナイ自認をしていた人間がいます。
「幸福の科学」の教祖大川隆法は自分を地球最高神と自認していました。
統一教会の教祖文鮮明は、自分をキリストの再来と自認していました。
当人が自認したら、他人がその自認に従わなければならいのなら、全て国民は彼等の教団の信者にならなければならなかったはずです。
しかし勿論そんなバカな話はないのです。
だったら男が自分を「女性」だと言っても、周りの人達には、彼を女性として扱う義務もないはずです。
女装して歩くのは自由だし、仕事に差し支えなければ女装勤務も無問題です。 服装ぐらいなら完全に個人の自由の範疇ですから。
でも女子トイレの使用など、女性の羞恥心や防犯に関わる問題は、そうはいきません。
同じトイレを使わなければならない女性達に、強烈な不快感や恐怖を与える問題なのですから。
トランス女性は他人から見れば女装男なのですから。
ところが彼等は執拗に女性としての扱いを要求しており、その最終目的が女子トイレなど女性施設の使用なのです。
ホントに背筋が冷たくなります。