「多様性」を認めるってどういう事でしょうか?
実はこんなツィートを拾いました。
実はこの人、Colabo弁護団のメンバーだった人みたいです。
しかしこの人の言う「多様性」ってなんでしょうね?
日本語で「多様性」と言えば、色々違うモノがあると言う意味でしょう?
人間社会で言えば、色々な人種、民族、価値観の違う社会がある、個人で言えば、健常者や障碍者や病人、年齢や思想宗教信条の違う人間が存在すると言う事でしょう?
実際、現実の社会は多様なのです。
思想・宗教・信条だけを見ても、在特会の会員もいれば、自民党の支持者もいるし、創価学会の信者や統一教会の信者もいるし、また社民党や共産党の党員もいるし、もっと革マル派などもっと過激な左翼もいるのです。
で、こうやってそれぞれ個人が好きな宗教を信じたり、自分が正しいと思う思想を信奉したりすることは、現在の日本国憲法で保障されているはずです。
またそれでどんな思想・宗教・信条をもっていても差別されない事も保障されています。
日本国憲法14条一項
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
そして現代日本の一般道徳では、男尊女卑は悪い事だし、また日本の場合、古代から現在まで同性愛を悪徳とする発想はありませんでした。 そして反社会的な活動をしないかぎり、どんな宗教や思想信条にも至って寛大です。
だから大多数の人はこの憲法14条の規定に違和感を感じる事はありません。
つまり日本は「多様性」を尊重する社会です。
でも上記の話はあくまで一般道徳ですから、厳密に言えばそういう一般道徳に反する思想宗教信条を持っている人も、平等に扱う、そういう人の価値観も尊重すると言うのが憲法の規定であり、そして「多様性の尊重」とか言っている人達は、それを徹底したいと言う事ではありませんか?
で、具体的に言うと例えばイスラム教では「女は男の半分」とされて、明確な男尊女卑を原則が教理で規定されています。
同様に異教徒は劣った存在である事も規定されています。 それでもユダヤ教やキリスト教は劣っているけれど、一応存在は認めますが、多神教徒についてはコーランに「見つけ次第殺せ」とまで明記されてます。
同性愛も教理で明確に禁止されています。
イスラム教にはコーランの他にイスラム法と言うのがあり、これでこうした差別規定が事細かに明確に記述されており、イスラム教徒が信仰を守ると言う事は、イスラム教徒は居住地の国法ではなく、イスラム法に従って生きる事なのです。
つまり憲法14条の規定は、イスラム教徒の信仰に反するのです。
勿論、今マスコミや左翼がもてはやす「多様性」なんかとは全然合いません。
因みにイスラム教徒にとってコーランもイスラム法も、神が定めた物ですから、これが現在の一般道徳に反するからと言って、それを改正する事などありえません。 神が定めた法を人間が改正するなど、神の冒涜なのです。
こうなると憲法の定めた平等原則も、また同様に憲法が保障する思想・宗教・信条の自由もまた、イスラム教の信仰とは合致しません。
尤もこれはイスラム教だけではありません。
そもそも一神教は自分の神だけが唯一絶対なので、他宗教の存在は認めません。 だから異教徒は人間として劣っている、間違っていると言う認識です。
伝統宗教は皆、過去の歴史の中で生まれたので、男尊女卑です。
またヒンズー教のように階級差別が教理に組み込まれた宗教もあるのです。
だから差別禁止を盾に、「差別は許さない」「男尊女卑の思想を絶対排除するべき」などと言い出すと、個人であれ地域であれ「多様性を認める」どころか、宗教の自由を認めない、信仰その物を排除すると言う事になります。
だからこの冒頭のツィートのような発想って、完全に反憲法、反民主主義ではありませんか?
それが「多様性をめざす」と言う話の中で出てくるから凄いです。
それでワタシは前々から不思議に思っていたのですが、そもそも憲法14条の定める平等って、個人に強制する物なのでしょうか?
違いますよね?
憲法14条1項をもう一回コピペしますよ。
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
「すべて国民は、法の下に平等」と明記されています。
つまり憲法が定めている平等って法の下の平等であって、個人に他人を平等に扱うように強制しているわけじゃないのです。
だって個人に他人を平等に扱うように強制するなんて不可能じゃないですか?
それを強制すると、前記のようにイスラム教始め、伝統宗教の大多数が「男尊女卑」「異教徒を差別する」などの理由で、全部禁止しなければならなくなって、宗教の自由どころではなくなります。
それどころか友達を恋人を自分の好みで選ぶ事もできなくなります。
人間は自分と価値観の合う人、自分の好ましい人を選んで、友達付き合いをしたり、恋人になったりするのです。
そもそもこんなことを強要されたら、女性は嫌な男からセックスを強要されても拒否できなくなります。
人間は他人を好ましい人、どうでもいい人、イヤな人に分けて、好ましい人とは親しく付き合い、それ以外とは状況によって適度な距離を置き、それを上手くコントロールする事で人間関係を維持しているんじゃないですか?
でも差別禁止を個人に強制すると、こうした人間関係維持の原則が、完全に崩壊してしまいます。
憲法14条で定められているのは「法の下の平等」なのです。
これは個人の人間関係には関係なく、法で定められるような問題に関しては、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と言う事でしょう。
だから個人が自分の宗教に基づいて「アイツは異教徒だから屑で、死んだら地獄行だ。」「アイツは同性愛者だから、神に背く人間だ。」などと思って友達付き合いを拒否する事を禁止しているわけじゃないでしょう?
因みに公明党も差別反対を言いますが、創価学会も創価学会以外の宗教を認めないので、知人の葬式に参列しない何て事をやっています。 でもこれを「差別だ」と怒る人もいませんよね?
つまり個人と法とは全く別物なのです。
だから公的な地位についている人が、法に基づいてその権力を行使する時に、同性愛を理由に部下を差別したり、差別的な取り扱いをする法を作ったら、これは憲法違反で大問題です。
しかし個人的に同性愛が嫌いで、それを私的な会話で吐露しても問題はないはずです。
だって性的指向は個人の意思で決まる事ではにないのです。 だからそういうモノで差別する事は許されないと言うのが、「多様性が~~」の人達の原則だったでしょう
だったら同性愛に対する嫌悪もまた個人の意思によるものではないのです。
そういう人を差別するのも、許されないはずです。
まして同性愛への嫌悪をカミングアウトしたら秘書官を更迭するって、同性愛差別が酷かった時代の欧米で同性愛者である事をカミングアウトしたら社会的に抹殺されたのと同じではありませんか?
因みに「多様性が~~」と言っている皆様は、イスラム教徒についても「多様性を認める」と言う立場から「土葬墓地を作れ」とか、やたらにイスラム教徒の要求に好意的でしたよね?
だったらイスラム教が同性愛を禁止し、徹底的に男尊女卑で、異教徒を相手にテロを繰り返している事をどう理解しているのでしょうか?
因みにイスラム教徒のテロが一番深刻なのは、西欧じゃなくて、イスラム諸国です。
イスラム諸国には実はイスラム教以外の信仰を持つ人達も結構多く暮らしているのですが、こうした人々の教会や宗教行事を標的したテロが頻発しているのです。
こうした事実を「多様性が~~」の人達はどう理解しているんでしょうね?
ついでに言うと「多様性が~」の人達は「先住民」の権利保護にも熱心だけれど、今国連等で「先住民」と言われている人達の伝統文化も殆どが男尊女卑ですよ。
だって「先住民」と言われている人達の多くは、近年まで狩猟採集、或いは焼き畑など原始的な農業で生活していた人達です。
でもこれは非常に厳しい肉体労働で成り立ちます。
だからどうしても男性優位になるのです。
つまり「先住民の文化は尊重する」「イスラム教徒を差別するな」と言いながら、「男尊女卑は許さない」って無理なのです。
世界には様々な民族があり、宗教があるけれど、その民族の文化や宗教には、男尊女卑の文化も教理がるけれど、その価値観や教理を個人が守る権利を尊重すると言うのが、本来の意味での「多様性の尊重」ではないですか?
思うに「多様性が~~」と言う人達は、法と個人の区別がついていないのではありませんか?
だから「差別した!!」と言って個人を非難するんじゃないですか?
本来なら「多様性の尊重」を言うなら、個人が他人を差別しても、それはその人の価値観だから尊重するべきなのに・・・・・。
尤もプロの弁護士先生が憲法の規定に関して、法と個人の区別がつかないってあり得名から、この先生は何か特殊な意図をもって「多様性」を利用しているのかもしれませんけど。
因みにワタシはこの「多様性をめざす」は反差別ファシズムはセットで、彼等は意図的に伝統宗教や伝統社会を破壊しようとしているのだと思っています。
女性差別反対等を徹底すると、伝統宗教や伝統社会は破壊されます。
彼等はそれで共産主義社会の復活を期待しているのではないでしょうか?