別に欲しい本があったわけでもないので、唯ぶらぶらと店内を歩いていて洋裁や編み物の本を見て、少し移動すると「自由を手に入れる方法」と言う本がありました。
何となくその本を手に取って見ると、最初のページで著者のエピクテトスは古代ローマの哲学者で元は奴隷だった人だと書いてありました。 手芸の本のコーナーの傍が哲学・思想書のコーナーだったのです。
そういえば奴隷出身の哲学者がいたね。
ワタシは哲学なんか興味がないので、それ以上知らなかったけど、でも奴隷出身の哲学者の著書と言うので興味がわきました。
「自由」と言う言葉は奴隷がいて初めて意味のある言葉だからです。
日本の古典文学・思想でも自由と言う言葉は出てきません。 自由と言う言葉は、民主主義や愛や物理学その他学問用語などと同様、明治維新の頃に福沢諭吉等が、西欧の思想や学問を日本に紹介するときに、西欧の概念の翻訳する為に作った言葉です。
だから日本の古典文学にも思想書にも「自由」と言う言葉はないのです。
これについて「日本人は古代から人権を尊重しなかったから自由と言う言葉もないのだ云々。」という説を聞いた事があります。
ワタシは大変我儘で自己中な人間なので、子供の時から「自由」と言う言葉を聞きかじると、やたらにそれを振り回していました。 だから「日本人は古代から人権を尊重しないから自由の概念もない」と言う説は非常に気になっていたのです。
でも少し西洋の本を読むようになると、何で日本語に「自由」がないのか直ぐわかりました。
日本には奴隷制度がないから、自由と言う言葉がないのです。
奴隷でないのが自由なのです。
勿論日本にも人身売買はあったし、奴隷的労働や奴隷的拘束はあったのですが、しかし公然と人を市場で売買するとか、戦争捕虜を奴隷化すると言うような事はありませんでした。 奈良時代の初めまで奴婢と言われた人々がいたようですが、しかしいつの間にかこうした制度は消えました。
一方西欧では近代まで厳然たる奴隷制度がありました。
これは実にえげつない物でした。
ソクラテスは繰り返し「奴隷の魂と僭主の魂は同じで、最悪の魂」だと言うのですが、しかしソクラテスが友人たちとそういう議論をしている時に、彼等に酒菓の給仕をしているのは奴隷なのです。
これって現在の日本人が和民とか居酒屋で「非正規なんて最低の底辺」と話しているのと同じでしょう?
ああいう居酒屋で客にウェイターやウェイトレスをしている人達の中には、非正規従業員が多数いますから、普通の人間なら居酒屋のような場所でこんな話はできませんよね?
でもソクラテス達は奴隷の前で「奴隷の魂は最低」と話すのです。
しかし奴隷でないのが自由なのですから、自由人であっても好きな事ができるわけではないのです。
典型はスパルタ市民です。
彼等は7歳から親元を離れて20歳まであの有名なスパルタ教育を受けなければなりません。 そしてその後も夕食は家族と離れて男性だけで集まって食べなければなりません。 彼等の奴隷であるヘロットだって家族団欒を楽しむ事ができるのに、スパルタ市民にはそれが許されないのです。
また常に軍事訓練を受けて、生涯に何度となく出征しなければなりません。
国家からここまで厳しい拘束を受けても、古代ギリシャ人の概念では、彼等は完全な「自由」なのです。
だって彼等は奴隷ではないし、参政権もあるのですから。
因みにスパルタは王制と言われますが、スパルタの王様ってスパルタ軍が対外戦争をする時にその最高指揮官になるだけで、内政にも外交にも何の権限もありません。
通常の政治はスパルタ市民から選挙で選ばれたエファロスと呼ばれる市民代表10人の合議で行われます。 そのエファロスはスパルタ市民の中からスパルタ市民の選挙によってえらばれます。
開戦の決定など重要事項は、スパルタ市民全員が集まる民会での多数決で決めます。
だからスパルタ市民は完全に参政権を持ち、誰かに支配されているわけでないので、完全な自由人なのです。
こういう世界であってみれば「自由」の意味は非常に明確です。
このエピクテトスと言う人は、こういう世界で奴隷として生まれ、奴隷の身分で哲学を学び、後に解放されて自由になりました。
そういう人の言う「自由」とはどういうモノでしょうか?
ワタシはチョッと興味がわきました。
幸いこの本は余り難しくもなさそうだし、字も結構大きいし、それに凄く余白が広くて、ページごとの活字はパラパラにしか印刷してありません。
これなら読めるかも?
実はワタシはこの30年余、目が悪くなって読書に苦労するようになっていました。
昔は活字中毒と言える程の読書好きで、読書ができなくなったら死んだ方がマシと思っていたのです。 ところがその次第に目が悪くなってホントに読書ができなくって来ました。
それでも死なずに済んだのはネットのお陰です。
でもやはり本が恋しくなって、時々読書をするのだけれど、少し読んだ後、眼通が出て七転八倒して、結局目玉に保冷剤をあてて、数日寝込む羽目になった事も再々あります。
だから買おうかどうか迷ったのです。
しかしなぜか書店に来たくなり、なぜか普段行くこともない哲学書のコーナーに来て、こんな本を手に取ってみたのは何かの縁のような気がしました。
それにこのところ裁縫をやっていて、ミシン針にスイスイと糸が通るようになっていました。
これは奇跡が起きて目が良くなったのかも?
これならまた読書ができる!!
これを読み終えたら次は、本棚でスタンバイしたままになっている「巨大戦艦ビスマルク」を読み、さらには文庫本だって・・・・・。
と、思って「自由を手に入れる方法」をレジへ持っていき大枚1408円払いました。
で、帰宅後読み始めたのですが、奇跡は起こりませんでした。
本文は老眼鏡で読めたのですが、しかしやはり30分も読み続けると結構辛いです。
考えてみると洋裁を3時間やっても、ミシン針に糸を通すのは数回です。 それに糸通しばかりやり続けてやるわけじゃないのです。
しかし読書は読み始めたらずうっと活字を追い続けなければなりません。
それで直ぐ辛くなって、活字から目を離してしまいます。
しかも注釈の活字は本文よりはるかに小さくて、老眼鏡をかけても読めない!!
虫眼鏡とか使えば読めるかもしれませんが、そんなことをしたらホントに眼通で寝込む羽目になるのは必定なので、注釈は無視することにしました。
それでも何とか本文だけは読み終えたのですが、エピクテトスの自由もスパルタ市民の自由と実はそう変わらないようです。
エピクテトスは「自由な人間とは、自分の意に反する事は何一つ起こらず、決して誰からも邪魔されない状態にある人」だと言うのです。
エピクテトスは奴隷身分から解放されて「ものをいう道具」でなくなったし「自分の運命を自分で選べる」身にはなったのですが、しかしだからと言って「自分の意の反する事が何一つ起こらず」なんてことになるわけもないのです。
自由な人間とは、自分の意に反する事は何一つ起こらず、決して誰からも邪魔されない状態にある人
そんな人間がこの世に存在するはずもないのです。
ではどうするのか?
どうやったら自由を手に入れられるのか?
病気・事故・災害その他、自分の身に起きてほしくない不幸を避ける事なんかできるわけもない。
だから自分自身の精神のありようを変えて、いつこのような不幸に見舞われても平然とそれに耐えられるようにせよと言う言うのです。
どんな不幸に遭っても、理性を失わず冷静に対応できるような精神を持てと言うのですす。
アッ、それ「心頭滅却すれば火もまた涼しからん」というやつだよね?
でも、それ無理だから。
でもこの本の全編、エピクテトスの主張は基本この調子なのです。
結局「日々精進せよ!!」と、仏教でも儒教でもその他頑張ってこの世を生き抜く人々が皆言っている事を言っているわけです。
どんな不幸にも平然と耐えて、常に理性を失わない人間になる事なんてできるんでしょうか?
エピクテトス本人はできたんでしょうか?
しかし現実は現実である以上、結局その現実をどう受け入れどう対応するかを考えるしかないのですね。
これが奴隷から自由の身のなった人が考えた真の自由だったのです。
エピクテトスは奴隷でしたが、生きたのは紀元1世紀前後、暴君として名高いネロの時代です。 尤もネロが暴君と言われるのは、キリスト教の弾圧に熱心だったからで、他にそんなに悪い事はしていません。
むしろ外交等ではなかなかの見識を示し、ローマ帝国領の人々は繁栄を謳歌しました。
また奴隷の地位や待遇も向上していて、ネロ帝の叔父で先帝のクラウディウス帝の補佐官もまたエピクテトスと同様解放奴隷だったし、また大富豪になった奴隷も多く、この時代、解放奴隷と言えば富豪のイメージでした。 だから奴隷と雖も現実の生活はそう悲惨なわけではありあせんでした。
こういう時代だからこそ「真の自由」が問題になり、それを手に入れる方法が議論されたのでしょうね。 中国みたいにコロナを口実にロックダウンされるんじゃ、とりあえず近所のスーパーに食料を買いに行く自由の方が切実になりますから。
幸いワタシは日本人なので、ロックダウンもされず「真の自由」を論じていられる立場です。 でもエピクテトスに従えば、目玉が治らず本が読めない事は受け入れるしかないんですね。