妹はそのバイクを通勤に使っており、使わない時は我が家の玄関脇のガレージに入れていました。
ところがある朝、出勤しようとしたらバイクが消えていたのです。
それでとりあえず警察に盗難届を出した所、半月ほどしてから警察から「バイクが見つかった」との連絡がありました。
警察によると近所の中学生がバイクを盗んだとのことでした。
犯人は通学時に妹がガレージからバイクで出勤する所を見ていて、ガレージにバイクがある事を知り、それで夜にガレージを開けてバイクを盗んだというのです。
それでバイクはかえって来たのですが、それっきりでした。
これには驚きました。 ワタシも母も犯人の中学生とその両親が、我が家に謝罪に来るのかと思っていたのです。
警察は「犯人は近所の中学生だった」というだけで、それ以上のことは何も教えてくれませんでした。
警察の配慮はわかります。
犯人一家は我が家の近所に暮らしているのです。 妹に犯人の名前を知らせたり、また犯人親子が謝罪に来たりして名前がわかると、今後ワタシ達家族の口から、その犯行が近所に知られるかもしれません。
だから被害者である妹にも名前も知らせないし、謝罪もさせないように忠告したのでしょう。
しかしやっぱり納得できませんでした。
だってこれだと犯人は盗んだバイクを返し、警官に少し叱られただけで終わりです。
これで反省するのでしょうか?
戻ったバイクには鍵を壊した傷跡が残っていました。
このバイクはバイクマニアには随分と魅力的な物でした。 だから犯人の中学生も目を付けたのでしょう。
それにしても夜中に他家のガレージを開けて、鍵を壊してバイクを盗むというのは、完全な計画犯行で、単なる出来心ではないでしょう?
こういう犯行を行ったのに、何の処罰もなく、謝罪さへもなしで、済んでしまって大丈夫なのでしょうか?
窃盗が犯罪であることは、誰もわかりますが、しかしそれがなぜ「悪い事」なのかは、やっぱり被害者の顔を見て、話しを聞き、その痛みを知らないとわからないのではありませんか?
このバイクは妹が父にねだって買ってもらった物でした。
妹はバイクマニアではなく、それどころかワタシ以上のメカ音痴なのですが、しかし何かの雑誌でこのバイクを見てデザインが気に入って、父にねだったのです。
妹を溺愛していた父は、妹のねだる物を買ってやるのを楽しみにしていました。
それで直ぐに妹の願いを聞き入れたのですが、しかし父はこの後程なく死んでしまいました。
だからこのバイクは妹が父のねだって買ってもらった最後の品になりました。
それで妹もワタシも母も、このバイクが盗まれたときは、とても悲しかったのです。
しかしそれは犯人にも警察にも全く関係のない話で終わりました。
でも窃盗が「悪い事」というのは、こういう事でしょう?
犯人はこの後どうなったのでしょうか?
バイクを返した後、窃盗を完全にやめたのなら、嬉しいです。
しかし通学中にバイクに目をつけて、夜中にガレージを開けて、鍵を壊して盗むという計画犯行をやった事を考えると、あの後も他で窃盗を続けているのでは?と、思ってしまうのです。
それにしても高々バイク一台でも、犯罪の被害者にすれば結構深刻なのです。
それではこれがただの窃盗ではなく、傷害や性犯罪など心身の傷の残る犯罪なら、どれほど深刻か・・・・・。
そして少年犯罪について思うのです。
警察がバイクを返すだけで済ませてしまったのは、犯人が中学生だったからです。
しかし犯罪の被害者の側からすれば、犯人が中学生でも暴力団員でも同じです。
それどころか犯人が相応の覚悟を決めてやった犯行なら、まだ納得できるけれど、あの小山田氏の集団暴力のように、同級生が娯楽・快楽でやった方が、余程傷つくし許せません。
実際、成人の犯行でも、娯楽や快楽でやった犯行の方が、悪質とみなされるではありませんか?
しかし一方で将来があり、判断能力の未熟な未成年に成人と同様の処罰はできないというのも事実です。
そして未成年が犯罪を犯すに至った場合、不幸な家庭環境など本人にはどうにもならない不幸を抱えている場合も多いのも事実です。
こういう事を考えてみると「人権」という問題に行き着きます。
例えば旭川での女子中学生いじめ自殺事件も、小山田氏の性的暴行を伴う集団暴行という全く同類・同質の「いじめ」でした。
旭川の事件では教師達は「『いじめ』を防いで欲しい。 娘を守ってほしい。」という被害者の母親に対して「いじめる側にも人権があり、将来がある」と言って、殆ど何もしなかったと言われます。
実際それはその通りなのです。 一人の「いじめ」被害者を守ろうとすると、何人もの少年少女を処罰しなければならず、「人権」特に「未成年の人権」という事を金科玉条とする現在の社会では、大変厄介な問題になります。
だからそれで被害者の人権を無視して、多数派では加害者の人権を守ろうとする教師達が出てしまうのです。
そうなると小山田氏の母校和光学園のようにリベラル校風が売り物の学校は、完全に無法状態になり、障害があって無抵抗な生徒の人権は唯々蹂躙されるばかりという事になります。
人権は全ての人が平等に持つのですが、しかしそうなると「人権」と「人権」が対立します。
被害者の人権と加害者の人権は両立しません。
被害者の人権を守る為には、加害者を厳しく処罰し、監視しなければなりません。
加害者の人権を守ると、被害者は被害を償ってもらえず苦しむばかりか、更なる被害に怯える日々が続く事になるのです。
だから安易に人権だけを金科玉条にすると、加害者が多数派になると被害者の人権が完全にネグレクトされる事になります。
人権を至高の正義とすると「被害者と加害者の人権が対立する」というような話は非常に困るので、集団暴行のような事件は起きない事にするしかないからです。
これは人権が内包する問題です。
しかしその問題を無視して、ひたすら人権を叫ぶ人たちが多いのです。
小山田氏の凶悪な集団暴行は安易な「人権重視の末路」です。
昨日小山田氏の凶悪集団暴行についてエントリーしたので、前々から気になっていた妹のバイクの話をエントリーしてみました。
皆さんはどう思われますか?