先日、大師小さんのところで拾ったニュースですが、ハンセン氏病差別裁判と言うのは、完全な利権漁りである事が明らかになりました。
2019年10月2日 5時52分
ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の判決を受け、政府は新たな補償制度をめぐり、補償額を判決以上に増額し、対象も拡大する方針を固めました。ただ、原告側とはなお折り合っておらず、最終的な補償額が焦点となります。
ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の判決では、1人当たりの賠償額が元患者との関係に応じて異なっていて、弁護士費用を除き、差別を受けたという認識がある元患者の親子や配偶者は130万円、きょうだいは50万円などとなっています。
これを受けて、政府は新たな補償制度をめぐり、原告側の意向や過去の事例などを踏まえ、それぞれの補償額を判決以上に増額する方針を固め、原告側との協議で具体的な額を提示していることが、関係者の話で分かりました。
また、補償の範囲も判決以上に拡大し、元患者のおいや、めい、孫も同居していたことを条件に対象に加えるほか、元患者本人への賠償を命じた判決が確定したあとの平成14年以降に被害があった家族や、アメリカ軍占領下の沖縄で被害を受けた家族も含める方針です。
ただ、原告側は「補償額が不十分だ」としていて、なお折り合っておらず、最終的な補償額が焦点となります。
政府は2日、ハンセン病の差別解消のための「協議の場」を設け、人権啓発や名誉回復に向けた具体策についても議論を本格化させることにしています。
ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の判決を受け、政府は新たな補償制度をめぐり、補償額を判決以上に増額し、対象も拡大する方針を固めました。ただ、原告側とはなお折り合っておらず、最終的な補償額が焦点となります。
ハンセン病患者の家族への差別被害を認めた集団訴訟の判決では、1人当たりの賠償額が元患者との関係に応じて異なっていて、弁護士費用を除き、差別を受けたという認識がある元患者の親子や配偶者は130万円、きょうだいは50万円などとなっています。
これを受けて、政府は新たな補償制度をめぐり、原告側の意向や過去の事例などを踏まえ、それぞれの補償額を判決以上に増額する方針を固め、原告側との協議で具体的な額を提示していることが、関係者の話で分かりました。
また、補償の範囲も判決以上に拡大し、元患者のおいや、めい、孫も同居していたことを条件に対象に加えるほか、元患者本人への賠償を命じた判決が確定したあとの平成14年以降に被害があった家族や、アメリカ軍占領下の沖縄で被害を受けた家族も含める方針です。
ただ、原告側は「補償額が不十分だ」としていて、なお折り合っておらず、最終的な補償額が焦点となります。
政府は2日、ハンセン病の差別解消のための「協議の場」を設け、人権啓発や名誉回復に向けた具体策についても議論を本格化させることにしています。
元来、この原告達が国にハンセン氏病差別の賠償を求めた理由は、
日本政府はハンセン氏病の特効薬プロミンが発見されて、ハンセン氏病が完治する病気になった後も、強制隔離政策を続けた。 そのことが一般国民にハンセン氏病は恐ろしい病気と言う偏見の原因になり差別を助長し、患者の社会復帰を妨げた。
と、言うものでした。
確かに日本のハンセン氏病療養所ではプロミン発明後も、国内でのハンセン氏病治療にプロミンを取り入れるのが遅れたばかりか、日本政府は強制隔離を認めるライ予防法を1996年まで廃止しませんでした。
だからハンセン氏病への差別と偏見の原因は国である!!
と、言うのが原告等、ハンセン氏病利権団体の言い分です。
しかし同じ日本で、戦後すぐにプロミンを使用して、ハンセン氏病患者の治療に当たった地域があります。
それが沖縄です。
沖縄での米軍政下でのハンセン氏病治療については、恵隆之介さんが以下の動画で詳しく解説しています。 (ハンセン氏病については29分から)
プロミンは1943年、アメリカで開発されましたが、1945年米軍が沖縄を軍政下におくと、米軍は沖縄にあったハンセン氏病の療養所に専門医スコアブランド博士を送り込んで、ただちにプロミンによる治療を開始しました。
プロミンはハンセン氏病の特効薬なのですが、しかしプロミンによる治療は患者の体力の消耗が激しいので、プロミンを投与した場合、患者には一日3000カロリーを超える食事を摂取させる必要がありました。
なるほどこれじゃ、日本国内で終戦直後からプロミンを使うなんてできるわけがありません。 100万人の餓死者が出るといわるほどの食糧不足だったのですから。
しかしそれだけではありません。
患者には当時の沖縄の一般庶民をはるかに上回る生活レベルが保障されていました。
例えば当時の沖縄の貧しく、一般庶民は茣蓙を敷いて寝ていました。
けれどもハンセン氏病の療養所では、布団が与えられていたのです。
こうした恵まれた療養生活の費用は、全てアメリカ政府が賄い、患者には一切負担がありませんでした。
これって謝罪や賠償を要求するような話ですか?
そもそもハンセン氏病への差別と偏見は、日本政府や米軍の隔離政策の為に始まった物でしょうか?
それは違います。
ハンセン氏病への差別や偏見は、紀元前から世界中に存在したのです。
ハンセン氏病患者は、紀元前から世界中で忌み嫌われたのです。
それはハンセン氏病があまりに悲惨でおぞましいからです。
ハンセン氏病は皮膚と軟骨と神経を侵します。 その為、皮膚が糜爛し、鼻が脱落し、四肢が壊死していきます。
そして猛烈な悪臭を放ちます。
ペシャワール会の中村哲医師は、ペシャワールで初めて本物のハンセン氏病患者に会った時、余りの悪臭で嘔吐したと言っています。
ペシャワール会はペシャワールを中心に、パキスタンとアフガニスタンで医療支援するNGOですが、元来はハンセン氏病の救済を目的にしていたのです。
それにしてもハンセン氏病患者救済の覚悟を決めてパキスタンに行き、その後現在に至るまでその地で医療活動に従事するほどの医師が嘔吐するほどの悪臭って、想像を絶しますよね?
そういう悲惨な病状であれば、誰もが忌み嫌うのは当然でしょう?
感染するとかしない以前の問題です。
だからハンセン氏病に罹った人たちは、故郷を離れて、巡礼として聖地から聖地へと彷徨い歩きました。
奇跡が起きて病気が治る事を願いながら・・・・・。
これはキリスト教世界でもイスラム世界でも、そして日本でも同様でした。
日本ではハンセン氏病の強制隔離政策が徹底するまで、お遍路さんと言うのは、実は多くがハンセン氏病患者でした。
ハンセン氏病から四肢の麻痺や壊疽などの障害を抱えて、旅費が尽きれば乞食をして、札所か札所をめぐりながら、やがて力尽きて死ぬのです。
それが元来のお遍路さんだったのです。
また乞食になるのも普通でした。
福祉のない時代に資産のない人が病気で働けなくなれば、たちまち生活に困窮するのですが、ハンセン氏病の場合は、障害を抱え込んで働けなくなり、容姿が無残に変形しても、簡単には死なないので、乞食にでもなるしかないのです。
昭和初年のころには、大都市の繁華街にはこうした「ライ乞食」がずらりと並んでいたといいます。
ワタシの母は子供の頃(1930年代)、神戸の繁華街でこうしたライ乞食を見て、恐ろしくてたまらなかったと言っていました。
そういう状況が変わったのは、日本政府がハンセン氏病の療養所を設立して、強制隔離策を取ってからです。
その療養所での生活を描いたのが北条民雄です。
彼は自身もハンセン氏病患者として、療育所で暮らしながら、自分自身の体験や周りの患者達の生活を小説として描き続けました。
彼の小説を読む限り、国の強制隔離策に対する憤りのような物は一切ありません。
彼自身は比較的裕福な家庭の出身なので、働けなくなっても乞食になる心配はなかったのでしょうが、しかしハンセン氏病の症状を考えたら、療育所の外で暮らす事はできなかったのです。
当時は健康保険制度や社会福祉制度は未整備でした。 だから結核その他の患者達の自費で治療するしかありませんでした。
そういう状況でハンセン氏病患者だけに国が医療と生活を保障するには、「強制隔離」と言う制度にでもするしかなかったのです。
尤もそのような制度下でも病状の軽い患者は、医師の承諾を得た上で、療養所外で生活する事ができました。
しかし沖縄ではハンセン氏病への差別はもっと無残でした。
沖縄ではハンセン氏病を発病すると、家族から家を追い出されました。
そして村や町からも追い出されたのです。
だから療養所ができる前は、患者達は洞窟などに身を寄せ合って暮らすしかなかったのです。
このような状態にある患者達を、療養所に収容するのが、非人道なのでしょうか?
これを差別を助長するとか言えるのですか?
戦前はハンセン氏病の治療法はなかったので、療養所が提供できたのは、対処療法だけでした。
また患者の生活もまた、当時の庶民生活に準じた質素なものでした。
それでも乞食をしたり巡礼をしながら野垂れ死にするよりは、はるかに良いでしょう?
まして人里を追われ、海岸や山中の洞窟に隠れ住むよりははるかに良いではありませんか?
米軍が沖縄の療養所に送り込んだハンセン氏病の専門医スコアブランド博士は、アメリカの最新の医療技術を駆使して治療に努めるばかりか、患者達の肩を抱き励ましました。
これを見た沖縄県民達は博士をキチガイ呼ばわりしました。
沖縄県民はハンセン氏病患者を忌み嫌い、家族さへも近づかなかったからです。
こうした博士の献身的な努力と、米軍の支援にも拘らず、沖縄県民のハンセン氏病への差別と偏見は簡単にはなくなりませんでした。
特に沖縄の新聞は、ハンセン氏病患者が出る度に、ヒステリックに騒ぎ立てたのです。
で、現在その新聞が中心になって、ハンセン氏病差別を日本政府や米軍の責任として糾弾し、賠償金を寄こせ!!と騒いでいるのです。
これって最低でしょう?
ハンセン氏病差別の原因が、日本政府や米軍にあるって、一体何を根拠に言っているのでしょうか?
そもそもハンセン氏病患者を、家から追い出したのは、患者の家族です。
ハンセン氏病患者が療養所で死んでも、家族は遺骨の引き取りさへ拒否したのです。
だから今でも療養所の納骨堂には、そういう患者達の遺骨が残されているのです。
これじゃ完治した患者だって家族のもとに戻れるわけもないのです。
その為政府も簡単に療養所を閉鎖できないのです。
療養所があるから差別が生まれたのではありません。
差別があるから療養所が必要になったのです。
現実の差別があるのに、療養所を閉鎖して患者を追い出すわけにはいかなかったのです。
帰るところのない患者達が、療養所で暮らし続ける為には、ライ予防法を廃止する事はできなかったのです。
そういう現実を無視して、差別の責任を全部、政府と米軍の責任にして、賠償を寄こせって何ですか?
しかも甥や姪や孫まで賠償を寄こせというのですか?
コイツラ恥ずかしくないのでしょうか?
ワタシは小学生の時、父からハンセン氏病の話を聞きました。 父はただ世の中には怖い病気があるのだという事で話してくれただけだったと思います。
しかしワタシは子供心にこの病気が恐ろしくてたまらなくなり、それでその後ずうっとハンセン氏病に特別な興味を持つようになりました。
それで北条民雄の小説を読んだり、またペシャワール会に入ったりしました。
そしてペシャワール会の会報を通じて、パキスタンやアフガニスタンでのハンセン氏病の状況を知るようになりました。
中村医師によれば1980年代ぐらいまで、パキスタンやアフガニスタンにあるイスラム教の聖者廟には、ハンセン氏病患者の乞食が列をなしていたそうです。 彼等は乞食をしながら聖者廟から聖者廟へと息絶えるまで巡礼を続けるのです。
それはまさに強制隔離制度ができるまでの日本のハンセン氏病患者と同じでした。
そしてヨーロッパでも近代以前は、ハンセン氏病患者達は聖地から聖地への巡礼を続けながら死んでいったのです。
このハンセン氏病差別金寄こせ裁判の原告やその仲間のサイトを見ると、差別のすべては国の責任と言っています。
しかしハンセン氏病が不治の病だ言った時代の社会の現実と歴史を見れば、どう考えて国の責任とは言えません。
そもそも国がどうこうできるような甘い話でさへないのです。
それとも彼等はハンセン氏病患者が巡礼をしながら野垂れ死にしたり、乞食をしていればハンセン氏病への差別はなくなると考えているのでしょうか?
繁華街を行きかう人々が、路上で鼻や手足を喪い、悪臭を放ちながら乞食をするハンセン氏病患者を見たら、ハンセン氏病を恐ろしい病気と思わなかったというのでしょうか?
なるほどハンセン氏病差別は悲惨だったし、そういう差別が許されるわけもありません。
だからこそその差別をネタに、ハンセン氏病患者を救おうとした人々を誹謗中傷し、国から金を毟ろうとする、被差別利権をむさぼるなんて、人間として絶対にやってはいけない事ではありませんか?