先日、馬鹿フェミ団体と仏教団体が揉めたようです。
仏教には明確に女性差別があります。
だって元々こうした宗教が成立した社会では、女性差別があったので、宗教が成立した時に、それをそのまま取り込んでしまいました。
また僧侶になるような男性は、現実社会で不幸な恋愛や家庭問題を抱えている場合が多いので、一般人以上に女性不信が強いのでしょう。
だからそれが教理や説教にそのまま反映されています。
石童丸なんて典型でしょう?
ワタシの祖母は熱心な仏教徒だったので、ワタシは子供の頃、お寺が配る子供向けの漫画で、この話を読みました。
そして「なんだかなあ・・・・。」と思ったのを記憶しています。
昔、ある武士の館に、妻と妾が同居していた。
武士は妻と妾は非常に仲が良いと思っていた。
ところがある日、妻と妾が仲良く碁を打っているのを見たら、二人の髪の毛が蛇になって、戦っていた。
それで武士は二人の本心を知り、その醜さに慄然として家を出て高野山に籠ってしまう。
武士の息子である石童丸は母と、失踪した父を探し続けて高野山にたどり着き、父を見つけるが、父は「貴方達が探す人はすでに死んだ」と答え、二人は失望する。
そして母は長旅の疲れと失望で死に、石童丸は父と二人高野山に籠り、仏道修行を続けて高僧になった。
これが石童丸の物語です。
妻は夫が失踪したら過労死するまで探し回る程愛しているんだよ。
それなのに夫は妾なんか囲って、妻妾同居させるってあんまりだろう?
それでも妻は何とか嫉妬心を自制して、仲良く暮らしていたんだよ。
それなのに嫉妬心があるから「醜い」ってあんまりでしょう?
子供心にも釈然としない話でした。
それでも昭和30年代までお寺でこんな漫画を配っていたのですから、そりゃ「仏教に女性差別がある」と言うのはその通りです。
仏教で聖人とか上人とか言われる高僧には、石童丸の父親みたいな連中が沢山いて、そいつらが自分の体験から「教え」を作っていくのだから、当時の一般常識以上の女性蔑視、女性嫌悪が教理に組み込まれていくようになります。
しかし女性蔑視や女性差別って仏教の発明でも専売特許でもありません。
イスラム教やキリスト教やヒンズー教だって、そして宗教とは言えないけれど儒教だって、女性差別、女性蔑視です。
だって近代フェミニズムのような男女平等概念が生まれたのは、当に近代の話で、それまでは世界中、殆どの社会が完全な男尊女卑なのです。
そして宗教はどんな場合は、それが生まれた社会の影響を受けるし、また布教の為に社会の慣習や秩序と妥協し、それを取り込んでいきます。
またキリスト教でも女性嫌悪から聖職者になる男性も多いので、一般社会の常識以上に女性嫌悪や女性蔑視が教理に入っていくのです。
トルストイの描く「神父セルギー」なんか典型です。
だから男尊女卑の時代に生まれた宗教は勿論、宗教と不可分な関係にある倫理哲学も同様です。
だから馬鹿フェミのように「女性差別は許さない!!」と言う立場からすれば、仏教の教理は許せないという事になります。
そしてお釈迦様であろうとも、差別主義者として吊るし上げるべきと言う事になるのです。
同様にキリストやムハンマドも吊るせと言う事になります。
しかし仏教なんかまだ良い方です。
キリスト教やイスラム教やユダヤ教のような一神教などは、他の宗教をすべて否定する事が教理の根幹です。
だから女性差別以上に深刻な宗教差別があります。
イスラム教に至っては、キリスト教やユダヤ教は劣った宗教とコーランで明記し、キリスト教徒やユダヤ教徒に対する差別的な扱いをイスラム法で規定しています。
キリスト教徒やユダヤ教徒とイスラム教徒が道で出会えば、イスラム教徒に道を譲らなければラナイ。
キリスト教徒やユダヤ教徒には人頭税を課す。
などなどです。
そしてオスマントルコ帝国など、イスラム教徒が支配する国では、実際にこのイスラム法を施行していました。
こうしたイスラム法は、現在ではイランやサウジアラビアなどイスラム原理主義国家を除いては国家の正式な法ではなくなりましたが、国民生活には大きな影響が残っています。
それどころかイスラエルなど非イスラムの国でも、結婚離婚等の民事はイスラム教徒はイスラム法による宗教裁判所にゆだねられているのです。
それでは仏教徒など非イスラムで、しかもユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない人間は?
コーランには「多神教徒は見つけ次第殺せ」と明記されています。
そしてジハードの過程では、本当に大虐殺をやりました。
イスラム過激派のテロは、現代もなおこの教理を実践しているだけです。
そしてヒンズー教に至っては、同じヒンズー教徒内での階級差別が教理に組み込まれています。
因みにヒンズー教の教理では、ヒンズー教徒以外の人間は、ヒンズー教のアウトカーストのそのまた下と言う事になります。
するとこういう宗教はどうなるのでしょうか?
全部禁止するしかないのではありませんか?
特にイスラム教など「多神教徒は見つけ次第殺せ」とまで明記しているのです。
これって完全なヘイトスピーチではありませんか?
そしてこれは桜井誠の「北朝鮮人は叩き出せ!」より遥かに深刻でしょう?
なぜなら桜井誠の「北朝鮮人は叩き出せ!!」も、彼が以前よくデモのシュプレヒコールで多用した「朝鮮人を日本海へ叩き込め!!」も実は、こうした殺人が真意ではありません。
ただ北朝鮮人つまり朝鮮籍の在日コリアンの在留許可を取り消し、国外退去を求めているだけです。
北朝鮮は日本人を拉致し、しかも再々「日本を火の海にする」と公言しているのですから、これはも準戦争状態です。
こういう状態にある国家同士では、敵国民の強制送還は当然の処置です。
そして何よりも在特会は、在日コリアンへの暴行や殺害などは、一切考えていないのです。
しかしイスラム教徒は違います。
バングラディッシュのテロでは、日本人が多数殺害されました。
イスラム過激派のテロは世界的な問題であり、日本人もまたその標的である事は明らかなのです。
イスラム教の教理を見れば明らかですが、イスラム過激派のテロと言うのは、非イスラムへのヘイトクライムなのです。
しかもそのヘイトクライムはイスラム教の教理に規定されているのです。
そしてイスラム教の教理によれば、イスラム教徒はコーランやイスラム法に絶対服従し、その教えを実践しなくてはならないのです。
その意味ではイスラム過激派と言うのは、教理に従う敬虔なイスラム教徒であり、テロをやらないイスラム教徒は信仰心の薄いダメなイスラム教徒なのです。
元来こうした教理なので、イスラム教徒全体の4~5%は、イスラム過激派を支持している言われます。
こうなるとホントに「差別をゆるさない」条例を作るなら、川崎市が真っ先に差別団体として問題にするべきではイスラム教でしょう?
そしてコーランを条例違反とするべきです。
しかしこんな事をすれば「宗教の自由が~~!!!」として大問題になるのは必定です。
そうです。
「あらゆる差別は許さない」なんて事を言ったら、宗教の自由などなくなるのです。
これは宗教だけではありません。 倫理哲学や文学だって、古典であれば男尊女卑だし、多民族や他文化に対する差別はあります。
だから「あらゆる差別はゆるさない」なんて事を推進したら、思想信条の自由もなくなるし、表現の自由や言論の自由もなくなるのです。
そもそも「あらゆる差別はゆるさない」と発想と、思想宗教信条の自由は両立しないのです。
イヤ、自由と名の着く物とは絶対的に両立不能です。
なぜなら人が「自由」を持つというと事は、人が自分の意思を持ち、自分の意思で全ての物事の価値判断する権利を持つという事です。
そしてその価値判断に従って発言し、行動する権利を持つという事です。
そうなると個人の価値観や感情から他人を、正しい人・間違った人、尊敬する人・侮蔑する人、好きな人・嫌いな人に区別していきます。
その区別する理由は、その人の持つ思想宗教信条だけにはよりません。
思想宗教信条よりももっと根源的でそれ故原始的ともいえる「感情」も重要なファクターでしょう。
当然ですが、誰だって他人からは、正しい人、尊敬される人、好きな人に区分されたいわけで、その逆にはなりたくありません。
しかし自分の胸に手を当てて考えればわかりますが、全ての人間を一様に正しい人、尊敬する人、好きな人とする事は可能ですか?
でも「あらゆる差別を許さない」と言うのは、結局この人間の感情の根幹を押しつぶし、全ての人を一様に正しい人、尊敬する人、好きな人として扱えと言う事です。
これは人格の破壊です。
そもそも川崎市や馬鹿フェミは何の権利があって、このような人格破壊を要求するのでしょうか?
実はそんな権利はないはずです。
こういう「差別」とか「人権」の問題になると、馬鹿フェミや反差別団体は直ぐに日本国憲法を持ちだします。
しかし日本国憲法で規定している「差別禁止」や「平等権」はあくまで法の下の平等だけです。
その平等も自国民だけです。
人種差別撤廃条約も同様です。
人種差別撤廃条約では、自国民について性別や民族や人種で、法的権利を差別する事は禁じています。
しかし外国人に対しての法的権利を制限する事を認めています。
だから世界中の殆どの国が外国人の土地や株式の所有など経済活動に関わる権利他、多くの権利を制限しています。
つまり個人が憲法その他の法により、「差別禁止」や「平等権」を主張できる相手は、自国の政府機関の法による扱いだけです。
他の個人に「オマイがウリを嫌うのは差別ニダ」などと言っても、そんなことを国家が禁止する根拠はないのです。
なるほど「人を差別しない、平等に扱う」と言うのは、現代の一般道徳では立派な事です。
だからこの道徳を守る人は、多くの人から尊敬されます。
しかしそれだけの話です。
個人が自分の意思で道徳に従う、道徳に従わない人を親族や友人知人が窘めるのと、国家権力が法によって強制的に従わせるのとは、全く話しが違うのです。
民主主義国家では法と道徳とは峻別されており、道徳に従わない事で国家は国民を処罰しません。
だから現在の日本ではヒンズー教徒が「自分はバラモンだから、オマイラ汚れたアウトカーストとは付き合わない」と言っても、イスラム教徒が「オマイラ多神教徒は見つけ次第殺すべきなんだけど、オレは優しいから殺さないんだよ。 感謝しろ。」と言っても、そしてお寺が石童丸の漫画を子供に配っても、違法ではありません。
勿論、こういう事で不愉快になる人はいます。
実際、ワタシが石童丸の漫画を貰ったのは子供のころで、まだフェミニズムなんて知らない頃でしたが、何となく不愉快だったので、この年まで覚えているのです。
勿論他人を不愉快にする事は避けるべきと言うのも、一般道徳で社交ルールです。
しかし一般道徳や社交ルールと、法や条例とは違うのです。
他人を不愉快にするのは避けるべきですが、しかしそれを強制されたら、金融業者が客に借金の返済を求める事も、大家が店子に家賃の支払いを求める事も、税務署が税金の支払いを求める事も、年金の掛け金や各種保険料の支払いを求める事もできなくなります。
そして民主主義国家の法と言うのは、国家権力による強制力のある法や条例と、一般道徳を峻別するのが原則です。
なぜなら道徳は個人の思想信条宗教によって違います。
だから思想信条宗教の自由を保障した以上、国家が特定の道徳を「一般道徳」として強制する事はできません。
実際、反差別を叫ぶ勢力は、「教育勅語」を非常に問題にしています。
しかし「教育勅語」はあくまで当時の日本人の一般道徳であって、子供達が立派な大人になる為の規範だから学校で教えたのですが、法的な強制力は一切ありません。
例えば教育勅語では「夫婦相和し」と教えましたが、しかし当時の法でも離婚は可能でした。
これが法と道徳の違いです。
ところが現在川崎市でやろうとして事、つまり「あらゆる差別を禁止する」ための条例を作って罰則を設けるというのは、単なる「一般道徳」をそれ以上の根拠のないまま、権力が国民に強制する事です。
これは言ってみれば近年までの欧米諸国で、同性愛はキリスト教社会の性道徳に反するから、刑事罰を設けるとか、離婚は教会が認めないから禁止するというのと同じ事です。
欧米諸国は近年、離婚を合法化し、同性愛への刑事罰も廃止しました。
でもその為に憲法を改正したわけではありません。 そもそも同性愛の処罰や離婚の禁止は、民主主義国家の理念として憲法に規定されていたわけではなく、唯キリスト教社会に一般道徳だったからです。
少なくとも日本は明治の初年から単なる一般道徳で、国民を処罰するような蛮行は行わない国だったのです。
「差別は悪いから許さない」と言う単なる一般道徳を刑事罰をもって国民に強制する。
これはまさに中国共産党がウィグルでやっている事でしょう?
差別を問題にすれば、イスラム教は明らかに差別宗教であり、ヘイト宗教なのです。
だから反差別の立場なら、イスラム教徒を強制収容所に送り込んで、棄教を迫るのは正しい事です。
でも日本がこんな社会になってよいのですか?
ところが現在、日本だけでなく欧米でも反差別を理由に、思想宗教信条の自由を奪おうと言う勢力が拡大しています。
ワタシはこんな状況になっている原因は、反差別について個人の問題と法的権利が、区別されないままなし崩しに「差別は悪い事なんだからドンドン禁止するべき」と言う感覚だけで社会が動いている為だと思います。
しかしこうした反差別勢力がファシスト化している以上、ここはもう一度原点に戻って考えるべきです。
反差別と言う言葉が絶対的な力を持つようになったのは、70年代のアメリカ黒人の公民権運動からでした。
そうです。
キング牧師等が求めたのは公民権なのです。
公民権は法により与えられる物ですから、法の下の平等が民主主義国家の国民の権利である限りは、絶対に与えられるべきものです。
しかし民主主義国家の法は結果平等は保障しないし、また他の個人から平等に扱ってもらう権利も保証しないのです。
今、こうした原則を再考しないと、日本はウィグルの強制収容所のような国になってしまいます。