チャンネル桜で「多文化共存は可能か?」と言う討論をやっていました。
しかしワタシは「多文化共存は可能か?」を問う前に、まず「文化とは何か?」を定義する必要があると思います。
因みにこの討論の意図からすれば、ここで言う文化とは民族文化、或いは国家の文化と言う事ですが。
で、ワタシは民族文化を民族衣装、民族料理、民族音楽などに限定するなら、幾ら異民族の文化が入っても問題はないと思います。
移民先の国の国民と伝統文化に一定の敬意を払い、その国の社会規範を尊重し、そしてその国の法を守るならどんな民族でがどんな文化を持ち込んでも全然かまわないと思うのです。
実際、第二次大戦中も、日本政府は中華民国国民は強制収容も、強制送還もしませんでしたが、それで何のトラブルも起きていません。
中華民国は連合国だったけれど、イギリスやアメリカなど他の連合国民が強制送還されても、中華民国国民はそのまま日本に残り、そのまま日本人と一緒に暮らしました。
当時の中華民国政府は弱体で、中国人も国家意識は至って希薄で、日本に移住して日本で暮らすと決めたからには、日本の法を守って大人しく暮らしていたからです。
また中華民国政府は現代の中華人民共和国政府とは違って至って弱体な政府なので、外国で暮らす自国民を使って破壊活動などできる政府ではなかったのです。(どこまで帰化人を信用してよいか?)
一方中国人は徹底してリアリストなので、日本で成功するためには、日本の法と日本の社会規範を守らなければならない事がわかれば、これを守るのです。
戦前から日本で暮らしている人達は、今は殆どが日本に帰化しているのですが、しかし中華料理店を経営している人など、中華を売りにしないと商売に差し支えますから、今もギンギンに中華風で暮らしています。
でもちゃんと日本の法を守って、日本の社会規範を守って真面目に暮らすなら何の問題ないでしょう?
ところがそうではない文化を持つ民族もいるのです。
移民先の国の法や社会規範よりも、自分達の民族の宗教や規範を優先するという文化を持つ民族もいるのです。
イヤそもそも法を守る事も、また他国や他人の事を理解する能力のない民族文化と言うのもあるのです。
典型が朝鮮人です。
ワタシはネットを初めてから、韓国の新聞や民団や総連のHPなど、在日コリアンや韓国人の生の意見を見るようになったのですが、まずこれで驚いたのは、彼等はそもそも法を尊重するという発想が極めて希薄なのです。
それ以前に他人の立場、他人の意見と言う物を理解する意思が皆無です。
だから約束なんて守らないのです。
これはもう偏見でも何でもなく、テレビに出演した韓国人の大学の先生や韓国の新聞が「韓国人は約束よりも、正義を尊重する」と公言しているのですから、否定のしようもないのです。
民主主義国家での法とは、国民同士の約束です。
社会規範だってその社会を構成する人々の、暗黙の約束です。
それなのに自分の正義が法に優先するというのでは、法や社会規範なんか尊重するわけもないのです。
それにしてもこれじゃ「韓国人は幼稚で自己中だと公言しているような物だ」と呆れたのですが、しかし大学の先生がこれをテレビで公言して悦に入っているのだから、そういう民族、そういう文化だと納得するしかないのです。
で、多文化共存の話に戻ると、こういう風に自分の正義を法や社会規範に優先させるような文化と共存できるのでしょうか?
できるわけないですよね?
こんな文化を認めたら犯罪発生率が韓国並みに上昇してしまいます。
しかし大変困った事ですが、実は移民先の社会規範や法を尊重する意思はなく、あくまで自分達の民族の宗教や規範を優先するという文化を持つ民族は、コリアンだけではないのです。
例えばイスラム圏から移民したイスラム教徒など、移民先がイスラム化するべきであると考えているのです。
なぜならイスラム教の教理では、イスラム教こそが神の教える絶対真理、絶対正義です。 そしてイスラム法は神が定めた法です。
だから非イスラムの人間は、劣った人間、間違った人間です。
そういう劣った人間、間違った人間が作った法が、神の法に優先するはずもないし、劣った人間、間違った人間が作った社会規範は劣っている、間違っていると考えているのです。
そういう人達と共存できますか?
同じコートでバレーボールとバスケットボールができますか?
同じコートでサッカーとラグビーができますか?
同じ社会で違った社会規範や違った法に従う民族が暮らすというのは、これと同じでしょう?
バレーボールのルールが正しく、バスケットボールのルールが間違っているわけではありません。
サッカーのルールが優れていて、ラグビーのルールが劣っているわけでもないのです。
どれも皆それぞれ楽しい競技なのです。
でもそれぞれの競技のルールが違う以上、一つのコートではできないのです。
そんなことをしたら競技その物が成立しないばかりか、事故が頻発して怪我人が続出するでしょう?
しかし違った法や社会規範に基づいて生きる人達と共存するというのは、結局同じコートで違ったスポーツ競技をやるのと同じです。
法や社会規範は全ての人が、等しく守る事で初めて社会秩序を守る効力を持つのであって、一つの事項にいくつも違った法や社会規範があるのでは、全く意味がないのです。
しかし多文化共存と言うのは、結局一つのコートで、多種類のスポーツをやるような話で、結局どの競技も成立しない事にしかなりません。
でも移民社会としてアメリカは成功したよね?
そうです。
でもこれまでアメリカに移民した人達の大多数は、アメリカの社会に憧れてきた人達でした。
だから出身国の文化は文字通り料理や音楽などの範囲に留めて、アメリカの法や社会規範はシッカリ守ってきました。
また受け入れ国のアメリカ自体が、「多文化共存」なんてスローガンは掲げていません。
アメリカに移民したからには、アメリカ人になる。
これがアメリカの原則でした。
勿論それで民族の文化や持って生まれた民族の気質などが、消滅したわけではありません。
だからドイツ系はアメリカに移民しても、軍人になりたがるので、米軍にはやたらにドイツ系の軍人がいます。
ユダヤ人はシャイロックの時代と変わらず、金融証券業界で頑張っているのです。
しかしどちらもアメリカ人であり、アメリカを守る意思は同じなので、第二次大戦が勃発すると、ドイツ系は躊躇わずドイツ兵と撃ち合うし、ドイツの都市を空爆します。
一方ユダヤ人はこぞって軍隊に志願しました。
第二次大戦当時の米軍に入隊したユダヤ人は、当時20歳から50歳までのユダヤ系の男性の半数にもなるのです。
その中にはリチャード・ファインマンのような人まで、軍隊に志願しているのです。
そして日系人はこれまた日本人らしいと思うのですが、強制収容所から米軍に志願しました。
そして日系人部隊は米軍最強の部隊になりました。
日本がアメリカに宣戦布告した時、東条英機はアメリカ日系人の若者に手紙を送り「君達はアメリカ人なのだから、アメリカの為に戦いなさい。」と励ましたのです。
外国人がアメリカ国籍を取る時には、アメリカに忠誠を誓っています。 忠誠を誓ったならあくまでその誓いは守るべきだというのは、いかにも日本人らしいと思うのです。
彼等のやったバンザイ突撃なんて、日本軍その物なんだけれど、でも彼等はアメリカの為にこれをやったのです。
移民がそれぞれの文化を守りながら、しかしみな揃ってアメリカに為に戦ったのです。
なるほどこれなら多文化共存だって上手くいきますよね?
でもこれはこれらの民族が皆、国家や法を尊重する、何としても自分の国は守るべきだという意識を持っていたからでしょう?
中世ならドイツ人もユダヤ人も、国家より信仰が優先しました。
日本人だって国家意識なんかありませんでした。
しかし第二次大戦当時には日本人もユダヤ人もドイツ人も、近代的な国家意識と愛国心が自国の文化になっていたのです。 だからアメリカに移民すればアメリカ人としてアメリカの法を守り、アメリカを守るために戦うのは当然だと考えていたのです。
でも全ての民族がそういう国家意識や、民族文化を持っているわけではありません。
むしろそういう国家意識など全く理解できない、理解する意思もないという民族も多数いるのです。
自国で国家意識を持てず、国家を理解できなかった人が、移民をしたら直ぐにそれを理解するというわけにはいかないのです。
今アメリカが移民に懐疑的になっているのも、つまりはイスラム移民など、最初からアメリカの法や社会規範を守る意思のない文化に属する移民が大量に入り始めたからではありませんか?
そもそも多文化共存なんて概念が生まれたのだって、移民先の法や規範を守る意思のない移民が増えて文化摩擦が深刻化したからでしょう?
なぜ文化摩擦が深刻化するのか?
それは移民達が民族衣装を着て歩いたり、民族料理を食べたり、民族音楽に興じたりしたからではないでしょう?
むしろ「文化摩擦」と言う言葉自体がインチキで、移民が移民先の国の法や社会規範を守らず、違法行為、迷惑行為を起こすから摩擦になっているのです。
或いは労働市場を壊してしまうなどの経済問題になるから、移民排斥運動になるのです。
ところがその現実を隠蔽するために、持ち出さたのが、「多文化共存」と言う概念ではありませんか?
法を守らず犯罪を繰り返す、迷惑行為を続けるので幾ら注意しても守らない人間が嫌われるのは、移民も元々から自国民も同じです。
そして外部から来た人間がそのような状態なら、その集団が嫌われるのは当然なのです。
そこでもうこんな連中は入れないようんしようと言う反応が出ているのも当然なのです。
だったら嫌われたくないなら、排斥されたくないなら、ちゃんと移民先の法や社会規範を守り、また自分達が移民先の国家にとって有益な存在である事を証明する努力をすればよいわけです。
少なくとも戦前の中国人はそれをやったので、日本に受け入れられて、中国本土で済南事件や通州事件のような日本人の虐殺事件が起きようとも、日本で排斥される事にはならなかったのです。
アメリカの日系人やユダヤ人の地位は、第二次大戦で一気に上がりました。
しかし「多文化共存」を唱える人達は、そもそも移民に受け入れ先の国の法や社会規範を守る事を要求してないのではありませんか?
代わりに移民が迷惑行為を繰り返そうが、犯罪組織やテロ組織を作ろうが、それを一切問題にせず「彼等の文化を理解し、受け入れないのが悪い」と言いたいのではありませんか?
こんな事が上手くいくわけはないのです。
そもそも法や社会規範を守らない人間、自分達の住む社会の隣人達に最低限の敬意を持たない人間は、先祖代々の自国民であろうとも嫌われて疎外されるのです。
しかし「多文化共存」を唱える人々と言うのは、外国人であればそういう人間であっても受け入れるべきであるというのですから、無茶苦茶でしょう?
先日こんなツィートを見かけました。
日本って基本的にはいい国なんだけど豚肉とか酒とかが多いし女性は売春婦みたいな服装してる
きちんとしたハラール(イスラム教で食べることが許されたもの)がもっと増えて日本人ムスリムの方も母国マレーシア、他の国から来るムスリムも暮らしやすい国になって欲しい
きちんとしたハラール(イスラム教で食べることが許されたもの)がもっと増えて日本人ムスリムの方も母国マレーシア、他の国から来るムスリムも暮らしやすい国になって欲しい
このツィート主はマレーシア人のようですが、こういうの見ると思うのですが、このツィート主は日本人に対してどれほど無礼な事を言っているか理解していないようです。
そして日本人女性の服装を見て「売春婦みたい」と思うような文化なら、欧米に移民すれば強姦事件を起こしまくるのも当然でしょう?
しかも彼等はそれを女性の責任にする文化なのです。
こんな連中と共存できますか?
共存ってそもそもお互いに理解し合い、敬意を持ち合って初めてできる物なのですが、しかしこういうツィートを見ていると明らかですが、このツィート主にはそもそも日本人と共存する意思はないと考えるしかありません。
だってコーランには「多神教徒は見つけ次第殺せ」と明記しているのだし、イスラム教徒はコーランを実践する義務があるのだから当然です。
でも「多文化共存」ってこういう現実を隠蔽して胡麻化す為のプロパガンダ用語でしょう?
一般的なイメージとして「文化」と言うのは、学問や芸術など、私的な趣味の領域の問題です。
そんな物はそれぞれ個人が好きに楽しめばよいのだから、「多文化共存」なんてことを言う必要はないのです。
しかし公的な生活では、法や社会規範は、出身国や民族に拘わらず絶対守るべきなのです。
けれどもそれを守らない外国人が多数いるから問題なのです。
「多文化共存」と言うのは、こうした問題を意図的に隠蔽して胡麻化すために作られたスローガンはありませんか?