前回学校と学校教育についてエントリーしたら、随分沢山のコメントをいただきました。
それで直接関係があるかどうかはともかく、ワタシの愛読書ホーンブロワーシリーズを思い出したのです。
これはナポレオン戦争時代のイギリス海軍軍人ホーンブロワーを主人公とした、海洋冒険小説です。
このシリーズは主人公ホーンブロワーが17歳で海軍士官候補生として、入隊するところから始まります。
ホーンブロワーが海軍に入隊したのは、イギリスがナポレオンのフランスに対して大陸封鎖作戦を開始した頃ですから、19世紀の初頭です。
この頃はイギリスでもまだ海軍兵学校と言う物はなく、士官になるには12歳前後から士官候補生として軍艦に乗船し士官の仕事を補助しながら、士官の仕事を覚えていき、そして一定の勤務経験を積むと、士官任官試験の受験資格が与えられます。
そしてその試験に合格して初めて士官になれるのです。
因みに士官候補生は正規の士官ではなく、士官よりは下の階級ですが、しかし所謂下士官よりは上になります。
例えば船の兵士の中の最高職務であるボースン(水夫長)は、操船には非常に重要な職務で、下士官の中でも最高の階級で、しかも最も有能で経験豊富な人が選ばれるのですが、しかし士官候補生の命令には従わなければなりません。
士官候補生は艦内では、Mr.をつけて呼ばれます。
正規の士官なら階級と姓で呼ばれるし、艦長始め艦内で役職に就けば、その役職と姓で呼ばれます。
そして兵士は姓の呼び捨てですから、その兵士よりは上、しかし正規の階級も役職もないので、Mr.なのです。
それにしてもこんなにも幼い頃から、人に命令して、自分自身と部下の生命にかかわるような仕事をやらされるというのは、大変厳しい話です。
しかしこれが当時の軍隊の階級制と言う物なのです。
ともあれ彼等はこのような立場で士官に従って、その仕事を補助しながら、操船や砲術、兵士の扱い方を覚えていき、士官任官試験合格を目指すのです。
つまり文字通り徹底した実地教育です。
しかし士官の仕事で実地教育だけでは不可能な物が一つあります。
それが航海術です。
当時の航海術をマスターするには、三角関数始め少なくとも現在日本の高校数Ⅱ程度の数学の基礎知識が必要です。
そこで艦長や航海士などが、勤務の暇を見て講義をしてくれます。
しかし前記のように士官候補生と言うのは普通12歳前後で乗船するわけです。
士官候補生と言うは、普通は中産階級程度の家庭の出身です。
例えばネルソン提督の父親は牧師だし、ホーンブロワーの父親は薬剤師です。
そして艦長は自分の艦に乗せる士官候補生は、完全に自分の裁量で選べるのです。
そこで普通、親がコネを使って艦長に我が子の採用を頼み込むのです。
だから一定の教育を受ける事ができる環境で生まれた子が、本人と親の意思で士官候補生になるのです。
でも12歳前後では、小学校算数以上は無理でしょう?
イヤ、この時代は理系教育の体制は整っていないし、国民の関心も至って低いのです。
だからラテン語に堪能で「ガリア戦記」を愛読していても、九九を知らないので掛け算はお手上げなんて人は普通にいました。
勿論、分数や少数に至ってはその概念さへなかったでしょう。
これでは高校数Ⅱどころか、小学校でも低学年のレベルです。
こう言う教育環境で12歳前後まで育った子供が、その後正規の学校教育を受けないで航海術を学ばなくてはならないのです。
それで前記のように艦長や航海士が、暇を見て講義をしてくれるのですが、しかし士官候補生は年齢も勤続年数も様々なのです。 だから知識レベルも全然違うのですが、それに合わせて個別指導なんてしてくれるわけでありません。
しかも一旦航海に出れば、参考書を買うとか、家庭教師を探すなんて不可能なのです。
また勉強部屋など落ち着いて勉強する場所もありません。
士官候補生はガンルームと呼ばれる、大砲のある部屋の一隅に、全員一緒に寝起きします。 そして交代制で夜昼なく、ワッチなどの勤務があります。
凡そ落ち着いて勉強できる環境ではないのです。
これで航海や戦闘の合間に、小学校3~4年レベルから最低でも高校数Ⅱぐらいまでの数学を理解して、それを応用した航海術を学ばなければならないのですから大変です。
しかもこの時代はまだクロノメーター、つまり長期航海の間中正確に動き続けるような高性能の時計はありませんでした。
その為太陽の南中時間から経度を出す事ができないのです。
それで船の位置の測定には、現在より遥かに高度で複雑な計算法が必要でした。
しかしそれでもどうしても出る誤差を予想して、それを修正するというこれまた大変な作業が必要だったのです。
だからこの時代の航海術に要求される数学のレベルは、現代のそれより遥かに高度な物でした。
ワタシは三流の工科大学の化学科卒で、趣味で数検1級を取ったので、数学は結構好きだし得意な方だとは思います。
でもワタシはこの時代のイギリス海軍の士官候補生になっても、この状況で航海術をマスターする自信はありません。
それでも航海術ができなければ、海軍士官の仕事はできません。
だから士官候補生の内で、実際に士官任官試験に合格して、士官に任官できるのは、1~2割程度だったと言います。
勿論、士官任官試験の受験資格を得る前に戦死や事故死や病死する場合も多いのですが。
しかし何とか生き延びて士官任官試験を受け続けても、合格できないまま30過ぎ、40過ぎ、初老になる人も多かったのです。
ホーンブロワーシリーズの第一巻は、主人公ホーンブロワーが士官候補生として乗船するところから始まります。
しかし彼は実は元々数学が好きで、乗船する前にかなり勉強していました。 それに17歳でしたから数Ⅱレベルなら十分クリアしていたのでしょう。
それで彼は乗船直後から艦長の航海術の講義は、楽々と理解し、最初の講義でいきなり他の誰も解けない難問を一発で解いてしまいます。
しかしそれを妬み憎悪したのが、先任候補生のMr.シンプソンでした。
彼は既に30過ぎで、この艦の士官候補生の中では一番年かさでした。
彼は度胸もあり、戦闘では勇敢で有能でした。 その上狡知にたけた凄みのある男で、しかもなかなかのイケメンだったのです。
しかし如何せん数学は苦手だったのか、未だに艦長の航海術の講義には全くついていけないのです。
だからいつまでたっても士官になれないのです。
そこでホーンブロワーへの嫉妬と憎悪に燃えて、ありとあらゆる嫌がらせを行います。
軍隊では同じ階級の場合は任官した順で上下関係になりますから、ホーンブロワーはひたすらこれに耐えるしかないのです。
しかしそこは冒険小説の主人公ですから、それでもフランス軍相手の戦闘では手柄を立てて、洋々たる未来へと進んでいくのです。
でもね・・・・・ワタシはこのMr.シンプソンに心から同情しちゃうんですよね。
彼自身も彼の両親も、息子を海軍士官候補生にしたときに、数学で苦労する事になるなんて全く想定外だったのでしょうね。
だってそもそも入隊するまで、数学の知識が必要になるなんて事さへ、考えてもいなかったのでしょう。
前記のようにこの時代、上流階級でも理科系の教育はお粗末です。 そして教育を受けないという事は、そもそもその学問に才能があるかないかも、また何の為にそういう学問が必要かもわからないのです。
だからこういう悲惨な事になってしまうのです。
Mr.シンプソンは随分と陰険なやり方でホーンブロワーを虐めるのだけれど、でも彼の境遇とそういう境遇を産んだ原因を考えると、性格が歪んでしまう事にも同情せざるを得ないのです。
一方この小説の作者であるセシル・スコット・フォレスターが主人公ホーンブロワーを17歳と言う当時の士官候補生としては例外的な年長で入隊させ、しかも数学が得意と言うキャラクターに設定したのは、自分の描くヒーローに数学なんかで苦労させたくなかったからでしょう。
イギリスのこの種の小説はホントに面白いですね。
冒険その物も面白いのですが、イギリス人には海軍マニア、歴史マニアが山のようにいます。
それで単なる娯楽小説でも当時の海軍の状況や、当時の軍艦の構造や操船まで事細かに検証して、そういうマニアの鑑賞に堪えるように描かれているのです。
だから歴史を学ぶ上でも最高の教材になります。
そしてそれ故にこそ、元学習塾講師としては、Mr.シンプソンの絶望感も痛切に感じられるのです。