夕べ「小学校教諭「炎上覚悟で言います…学校の本質は工場です」と言う記事を見ました。
小学校の教諭がツィートで、そういっているのです。
それで自分の学校時代、また学習塾の講師だった頃を思い出しました。
文科省の姿勢からも明らかですが、工場かどうかは別として、公立の小中学校と言うのは、基本的には子供が日本で生きていくことを前提に、それに必要な知識を教える所です。
個性を伸ばすとか、コミュニケーション能力を養うなどと言う事は、目的にしていません。
理想としては生徒全員が、教科書に書かれている事を完全に理解する事です。
現実には全ての生徒が教科書レベルの事を完璧に理解できているとは到底言えないのですが、しかしそれでも日本の学校教育は、全体としては大変成功していると言うべきでしょう。
だって成人力、つまり成人として必要な文章読解力や計算能力が、ダントツの世界一なのですから。
ワタシはできの悪い子ばかりの学習塾の講師をしてので、底辺高に行く子や、その高校にさへ行けない子のレベルを大勢見ましたから「日本の25~34歳の中卒者は、スペインやイタリアの同年代の大卒者よりもはるかに高い読解力を持っていることが分かった」なんて記事を読んだ時は、肝が潰れそうでした。
大卒であれより酷いって‥‥大丈夫か?
ともあれこういう結果から見ると、日本の学校は「工場」としは非常に優秀だというしかありません。
但し前記のように個性を伸ばすとか、コミュニケーション能力を伸ばすとかについては、全く目的外ですから、それについては他国と比べてどうなのかは、全くわかりません。
しかしワタシはそれで良いと思っています。
ワタシは学校が子供の個性やコミュニケーション能力などと言う、個人の人格に関わるような事にまで介入するべきじゃないと思うのです。
ワタシはネトウヨですから、国家は大切だと思うし、国防始め国家がやるべきことは、断固やるべきだと思っています。
しかし日本は民主主義国家であって、全体主義国家ではないのです。
だから国家の国民の人格への介入は、必要最小限にとどめるべきだと思うのです。
学校がを生徒一人一人に配慮して、個性やコミュニケーション能力を伸ばすというのは、一見非常に優しく親切です。
でもそれはつまり学校が生徒の人格に深く介入してくると言う事です。
そして公立学校と言うのは、つまりは国家権力が運営している機関で、国家権力その物なのです。
しかも富裕層を除く一般国民は、教育は公立学校に頼るしかないのです。
ワタシはこの手の意見を見ていつも不思議に思うのですが、日本では国家に否定的で反権力を標榜する人に限って、実は国家への依頼心が非常に強い事です。
国家に否定的であるなら、国家にきめ細かな福祉や教育などは期待するべきではありません。
国家が何かをしてくれるというのは、つまりは国家がその何かを通じて個人の生活に介入する事なのですから。
しかもその為の経費は、結局国民が税金として支払わされることになるのです。
国家権力を否定して、反権力を標榜するなら、アメリカの極右のようにひたすら小さな政府での自由主義を社会を求めるべきなのです。
逆に国家が国民の全てに介入し、支配するのが共産主義社会です。
脱線してすみませんでした。
本題に戻ります。
この記事で「学校は工場」とツィートしている人は、教師一人が教壇で話をして、40人の生徒がそれを聞くという現在の小学校の授業を教師中心主義として、忌み嫌っているようです。
でもこの方式だと、生徒はとりあえず授業中は大人しく座っていれば良いわけで、本当にイヤな授業でも、イヤな教師でも、それ以上関わる必要はありません。
実はワタシは今でもそうだけれど、人と付き合ったりするの苦手だし、全体的に完全に規格外の人間なので、学校時代はこれで随分助かりました。
ワタシは家庭教師のバイトも結構やったけれど、でも自分が生徒の立場になる事を想像すると、ゾッとしたのです。
ああやって自分が問題を解いている所を、後ろから逐一見られるって、凄く嫌なのです。
勿論、授業で聞いただけではわからない事もありました。
でもそれは自分で何とかするしかないと思っていました。
自分では何ともならなければ?
そりゃ放っておきます。
そもそも子供の側にだって、自分には全くわかららず、全く興味も持てない事ぐらいは、学ぶのを拒否する権利ぐらいあるでしょう?
自分も散々行使してきたからわかりますが、今の日本の学校の授業方式って、こういう権利を行使するには、結構都合がよいんですよね。
それに人に聞かないと学べない。
人とのコミュニケーションがなければ学べない。
と言うんじゃ、本を読んで独学なんて絶対にできません。
元来、人間は本当に必要な事や、自分が知りたい事は、結局自分で学ぶしかないので、子供の時から何かを学ぶ為にひたすら学校を宛にするようになったら、後からとても困るのです。
一方、人と人とのコミュニケーションを通じて、実社会での体験を通じて人を教育するのが、実は昔の職人や商人の教育でした。
学校教育が一般化する前は、一般庶民の子供達は物心つく頃には、職人や商人のところに、弟子入りしたり、丁稚奉公したりして、それから成人するまで、兄弟子や主人から、技術だけではなく、職人や商人としての、作法や生活習慣、生活技術まできっちりと仕込まれました。
ワタシの母方の祖父は小学校を卒業してすぐの12歳で、神戸の麦稈真田を扱う貿易商のところに丁稚奉公しました。
その丁稚奉公の間に貿易商としての仕事だけでなく、生活技術もきっちり仕込まれていたので、掃除一つとっても祖母より遥かに上手かったと、母は言っていました。
店の掃除は丁稚の仕事なので、その時に店内を隅々まで完璧に掃除できるように仕込まれたのです。
猪子文六の「大番」などを読むと、戦前は証券業界でさへ、小学校卒の丁稚上がりが仕切っていた事がわかります。
そしてこれは日本だけではありません。 欧米もそうでした。
しかしこういう教育では、読み書き算盤のような事は手に負えないので、江戸時代から丁稚奉公には寺子屋でそれを習い終えている事が必要条件になっていました。
そして産業が近代化するにつれて、こうした教育では教えきれない事がどんどん増えて、高学歴化が進んでいったのです。
そもそも学校ってコミュニケーションや現実の生活では教えきれない事を教える為にできたのです。
店の掃除や客あしらいなら、実地で学べますが、金融工学は実地じゃ学べないでしょう?
ホントに学校で学んだ事は、一体何の役に立つのでしょうか?
この記事の教諭は
と、ツィートしています。
そういえば最近、橋下徹が三角関数を「死んだ知識」と言ってましたよね?
でもこの人達の言う「学校以外」の社会って一体どういう世界なのでしょうか?
どんな分野であれエンジニアであれば、高校数Ⅲレベルの数学は絶対に必要な基礎知識です。
高校数Ⅲの数学が理解できないと、エンジニアとしての専門教育課程が理解できないからです。
そして反原発トンデモ裁判官なんぞを見ると、法曹界で働く人間は絶対に数Ⅲを勉強すべきだと思うのです。
そうでないと原発の安全性など技術関係の、裁判はお手上げでしょう?
被告企業の技術者は何とか素人の裁判官でもわかるように、安全性の証明必死で説明する書類を書いているのです。
それでも安全性を数値で説明するとなると、高校レベル以下では無理でしょう?
お前、商売なら高校の教科書引っ張り出して復習しろよ!!
国民はその為に税金から高給を払ってるんだぞ!!
それを「わからないから読まない」なんていうのは、完全に被告人の人権を侵害しています。
高橋洋一は、高校化学、高校の数学で、理解できる事を完全に無視して、訳の分からない事を言う、訳の分からない政策をとる高学歴者を「ド文系馬鹿!!」と罵っていますが、ワタシはこの点、高橋洋一を完全に支持します。
幾ら文系でも東大始め一流大学なら、理系科目にも入試で高得点を取らなければなりません。
だから高校時代に学んだ事を生かす意思があるなら、「ド文系馬鹿!」などと罵られるような事はないはずです。
学校で学んだことが役に立たのではないのです。
学校で学んだことを役に立てる意思を持たない事が問題なのです。
でもそういう人がやたらに多いのは、この教諭のように、そもそも学校以外の社会に出た事もないのに「学校で学んだことはテストを解く事にしか役立たない」と信じ込んでいる教師が多いからではないでしょうか?
そういう姿勢で教えられたら、生徒は不幸です。
自分が生徒達に教えている事の価値を理解できないのでは、そりゃ学校の価値を理解できるわけもないのです。
因みにワタシは学校時代は勉強は総じてダメ子でした。
特に小学校時代の成績は常に中の下と下の上の間を行き来していました。
そして必死に努力した結果が三流工科大卒ですからね。
それにワタシは友達付き合いが苦手で、集団行動が凄く嫌いで、嫌いな事はトコトンやりたくないタイプでした。
だからアスペを疑われるタイプの子でした。
イヤ、ホントにアスペかもしれません。
それでも登校拒否も起こさず無事に学校生活を終えられたのは、「教師中心主義」の授業で、教師が生徒個人に介入する事が少ない教育法だったからと思っています。
そして全体として学校で学んだ事は、殆どの物が非常に役に立っています。
お金にはなりませんけどね。
例えばこのブログで憲法について色々書いているけど、この知識は中学公民で習った事が基本ですからね。
だって憲法なんて、一般人は学校で教えられず、テストで暗記を強制されなければ、興味を持つわけもなければ、まして条文なんか覚えるわけもないのです。
まして子供が自発的に憲法の条文なんか覚えますか?
でも憲法は現実の社会にとって、やっぱり重要だし、そして主な条文ぐらいはうろ覚えでも覚えていなければ、憲法に関する議論はできません。
ワタシは大体うろ覚えなので、ブログに書く時には検索して正確な条文をコピペするのだけれど、うろ覚えがないと検索もできないのです。
そして世の人が一番無意味な暗記だという歴史の年表も、実は覚えたお陰で随分助かっています。
だってワタシは歴史の本を読むのが大好きなのですが、でも歴史年表をある程度覚えているから、大体どのぐらい前の話であるか? 同じ時代の日本はどうだったか? などが直ぐにわかるんですよね。
ついでに地理もすごく役に立っています。
年代と地理がわからないと歴史小説や歴史の本で、詳しい話を色々知っても、世界と日本全体の中での時間と空間の位置づけはできないので、ファンタジー小説と同じになってしまうのです。
でも歴史年表なんてモノは、記憶力の良い子供時代に、無理矢理教え込まれたから覚えているのであって、大人になってから覚えるのは無理じゃないかと思うのです。
ワタシは元来記憶力が悪く、特に細かい事を正確に覚えるというのがダメなので、この手の暗記物のテストではホントに泣きました。
でも今にして思えば、あのお陰で大好きな塩野さんの本を読んでいて「織田信長はチェーザレ・ボルジアの生まれ変わりでは?」などと考えて楽しめるのは、歴史年表を暗記したお陰なのです。
ワタシは中学になっても成績は悪かったのですが、特にダメなのが英語でした。
ホントに英語の授業がなければ、もっとずっと明るい学生時代を過ごせたと思えるぐらい嫌いでした。
とにかくスペリングが覚えられないんです。
今もブログで時々間違ったスペリングを書いて、コメントで教えてもらってこっそり訂正したりする有様です。
でも考えたらそれでも学校で英語を教えられたお陰でフリッカーなど海外のサイトも何とか使えるし、簡単な物なら英語のyou tube動画も見る事ができます。
これこそホントに学校に感謝するべきでしょうね。
だって好きな物は、自分から学ぶ事もあったでしょうが、嫌いな物は、人から強制されない限り絶対学ばないでしょう?
英語のスペリングなんかテストで脅されない限り金輪際覚えなかったでしょう。
でも好きな物しかやらないでいると、世界がどんどん狭くなってしまうのです。
そして子供が将来、どんな仕事をしたいか? どういう事に適性があるか?知るためにも、好きな物、嫌いな物関係なく、社会に出て必要な基本知識を強制的に学習させるしかないのです。
そうしないとホントに何が得意で何が不得意かさへわかりません。
また他の人達が、どんな知識を持ち、どのような仕事をしているかもわかりません。
だからワタシは日本の学校のシステムは、色々問題はあるにせよ、基本的には良い物だと思っています。
しかも世界的には大変成功していると思っています。
だからこそ教師達には、自分自身が教えている事の価値をちゃんと理解してほしいです。
少なくとも子供の前で、「この知識はテスト以外では役に立たない」などと言ってほしくないです。
ワタシだったこんな教師がいたらホントに登校拒否しちゃったかも?