現在の欧米先進国や日本では、一部の自称リベラリスト達は「誰にも人を差別する自由などない」と考えているようです。
しかしワタシは人には人を差別する権利があると考えています。
なぜなら人間から差別する自由を奪えば、思想・宗教・信条の自由と言う基本的人権だけなく、好悪愛憎と言う人間の基本的な感情その物が否定される事になります。
とりあえず思想信条宗教の自由だけを考えてみましょう。
ワタシは「誰にも人を差別する自由はない」と言う人に聞きたいです。
「では貴方は、イスラム教を禁止するべきだと思うのですか?」と。
イスラム教では一夫多妻、女性へのベールの着用の強制など女性差別的な教理が、知られています。 そして最近では教理を理由にしたLGBTへの迫害も起きています。
しかしもっと深刻なのは、異教徒への差別です。
イスラム教の教理は、イスラム教だけが唯一絶対に正しい信仰であり、他の宗教は劣っている、間違っているという事を基本にしています。
これだけでも十二分に差別的な教理なのですが、問題はこの差別が単なる理念に留まらず、イスラム法の中で事細かに規定され、近代まではイスラム諸国で実践されてきたことです。
具体的にはユダヤ教徒とキリスト教徒に対する差別ですが、ジズヤと呼ばれる非イスラム教徒のみを対象とした人頭税の課税から、教会や墓地の新築禁止、埋葬の場合の棺の使用禁止など、非常に屈辱的であるばかりか、実害も大きい差別規定がありました。
でもそんなのは昔の話で、昔はどんな宗教でもどんな国でも、身分差別などの差別は一杯あったでしょう?
イスラム教だけを差別的と言うのはオカシイでしょう?
ええ、昔はキリスト教だって仏教だって、身分差別や女性差別をしました。
だから差別禁止を徹底すればこれらの宗教も禁止する事になるでしょう。
但しこうした宗教では、差別が宗教上の法となっているわけではありません。
けれどもイスラム教は違います。
このような差別はイスラム法やコーランに明記されており、イスラム教徒であればこうしたイスラム法を字義通り守らなければならいのです。
そしてイスラム法やコーランは神が定めた物ですから、人間が勝手に変える事はできません。
またイスラム教徒には、全ての人類にイスラム法を強制する義務があるのです。
だから欧米に移民したイスラム教徒達は、今もイスラム法を守り、移民先にイスラム法を強制しようと努めています。
因みコーランには「多神教徒は見つけ次第殺せ」と明記されています。
そして実際に教祖ムハンマドはその征服戦争(ジハード)の過程で、多神教徒を虐殺しています。
それにしても「見つけ次第殺せ」って凄いヘイトスピーチではありませんか?
(法務省は「ヘイトスピーチを許さない」と言うなら、こんなヘイト宗教は絶対禁止するべきなのです。 日本人の大多数は多神教徒なのですから、こんな恐ろしいヘイト宗教を放置すれば、国民の生命が危険にさらされます)
「誰にも差別する権利はない」と言うなら、こんなヘイト宗教は絶対に禁止すようするべきではありませんか?
イスラム教の論理については、以前エントリーしましたが、現代のリベラリズムから言えば慄然とする宗教です。
しかし他の宗教だって問題はあります。
例えばヒンズー教なんか身分差別であるカースト制度そのものが、教理に組み込まれています。
それに差別の規定があるのは、宗教だけではありません。
儒教でも身分差別と女性差別が規定されています。
また近代以降でもショーペンハウエルのように、女性差別そのものの本を書いた人もいます。
ショーペンハウエルの「女について」は今も、文庫本で出版されていますが、「誰も差別する自由はない」と言う人は、ショーペンハウエルにも差別する自由は認めず、彼の著書を焚書するつもりでしょうか?
そう考えると「誰も差別する自由のない」社会と言うのは、恐ろしい社会です。
思想信条宗教の自由が奪われ、言論出版の自由もなく、また文化はやせ細り不毛になる世界です。
なぜならショーペンハウエルに限らず、ウーマンリブや公民権運動の成果が確立する以前
文学や演劇、映画などは、女性差別や人種差別が普通にある社会でした。
だからその時代に作られた映画や演劇の殆どでは、こうした差別を敢えて否定していません。
だから差別だ!!
許さない!!
実際、最近はそういう人間達もワラワラ出てきました。
それでアメリカでは「風と共に去りぬ」や「ハックルべり・フィンの冒険」などアメリカ文学の最高峰と言われた作品の排除が始まっています。
また「メリークリスマス」と言えなくなっただけでなく、伝統的なクリスマスソングの歌詞の一部をとらえて「差別だ」として、放送されなくなっているようです。
今はまだ一部の有名作品だけが、標的にされている状態ですが、しかしこれを続ければ、最終的には1980年代以前の文学作品や映画も排除する事になります。
それではもう文化や伝統が消滅する事になります。
こんな社会がマトモな社会なのでしょうか?
自由で民主的な社会と言えるのでしょうか?
そもそも根源的な疑問ですが、「誰も差別する自由などない」と言うのは、一体何を根拠にしているのでしょうか?
民主主義国家で差別禁止が、大きなポリティカルコレクトネスとなったのは、1970年代、ウーマン・リブや公民権運動で、女性差別や人種差別の撤廃が叫ばれた頃からです。
そして最近になってLGBT差別禁止が加わりました。
それは人種差別禁止を例にとれば、納税や徴兵などの義務を果たしているのに、黒人であるが故に公民権を制限されるというのは、「法の下の平等」と言う民主主義国家の基本原則に反する、憲法に反するからではありませんか?
本来、民主主義国家で保障している平等に反するからでしょう?
しかしこれは逆に言えば、民主主義国家が保障する平等は「法の下の平等」だけだという事ではありませんか?
実際、日本国憲法を見ても、保障している平等は憲法14条での法の下の平等だけです。
法以外での平等、つまり個人が他人を平等に扱う事や、結果平等など保障していないのです。
なぜならこれまで書いてきた事でわかるように、個人に他人を平等に扱う事を強制すれば、思想・信条・宗教の自由などなくなってしまいます。
言論出版の自由もなくなります。
これは基本的人権が奪われるという事です。
そして自由と平等は、相反する面があり、絶対的自由と絶対的平等が両立しない事は、昔からわかっていたのです。
それでも「差別を許さない」がポリティカルコレクトネスになり、現実に焚書やリンチ画を続ける原動力は、「差別は人を傷つける」「差別された人カワイソウ」と言うセンチメンタリズムだけでしょう?
しかしそれを言うなら、差別的と言う事で焚書やリンチに遭った人達だって十分傷つくのですから、こんな物を理由に焚書やリンチをしていいわけがないのです。
そしてセンチメンタリズムだけが原動力なので、「誰にも差別する自由はない」とまで言う人達だって「差別とは何か?」を定義する事もできないのです。
だからこそイスラム教のように極めて差別的な宗教に対する批判が「差別!!」として封殺される一方で、キリスト教のようにイスラム教に比べればはるかに寛容な宗教行事が「差別」として迫害されるという倒錯的な状況になっているのではありませんか?
しかし民主主義国家で保障できる平等は元来「法の下の平等」だけなのです。
法ではない個人が他人を平等に扱う事など絶対に強制しできるわけもないのです。
そして結果平等など保障するなら、資本主義と言う制度が破綻します。
なるほど全ての人を平等に扱い、差別しないというのは美しい事です。
だからこれを個人が自分の道徳規範するのは、大変結構な話です。
しかし道徳的規範と法は違うのです。
法は個人に他人を平等に扱う事は義務付けていません。
自由で民主的な社会を守りたいなら、ワタシ達はこのことをしっかりとわきまえて、「差別する自由」については、法と道徳の違いをわきまえるべきでしょう?
そして自分は差別をしなくても、他人の「差別する自由」は尊重するべきなのです。