ワタシは戦後生まれなので、学校でもまたテレビや新聞など大手メディアからも、愛国心と言う物は軍国主義やファシズムから生まれる物で、民主主義に反すると教えられてきました。
しかし西洋史が好きで、古代ギリシャやローマ、あるいはフィレンツェやヴェネツィアなど民主都市に関する本を読むうちに、これはおかしいのではと思うようになりました
こうした民主都市では古代でも中世でも、常に愛国心が鼓舞され、愛国者=正義の人とされてきました。
逆に愛国心がないと看做された人間は、政治生命を喪い、国家の敵とされると国外追放或いはそれ以上の懲罰を受けました。
でも考えてみるとこれは当然の事で、古代から現代まで、民主主義国家では政治は国民が皆で考え議論して行います。 そして意見が分かれたら、多数決で決定します。
そうなるとその話し合いに、国家を愛していない人が加わるというのは、国民にとって実に危険で厄介な事になります。
しかし同じ時代でも、君主制の国々では、愛国心など問題になりません。 なぜなら君主制の国では、国家の運命は君主が決めます。 だから国家が団結するためには、君主に忠誠を求めればよいのであって、国家への忠誠や愛国心は必要ないのです。
愛国心と言うのは、民主主義国家にこそ必要な物なのです。
フィレンツェの民主制を愛したマキャベリは言いました。
「我が祖国魂より祖国を愛す」と。
しかし哀しいかなフィレンツェ市民の愛国心は今一だったので、結局民主制は崩壊してしまいました。
そして民主制が崩壊すると、愛国心は危険思想となり滅亡しました。
共和制都市国家の滅亡とともに、滅亡した愛国心が復活したのは、市民革命による近代民主主義国家が生まれてからです。
国旗や国歌、そして徴兵制など、ワタシ達戦後世代が、反民主主義の象徴として忌み嫌うべき物と教えられた物が生まれたのはこのころです。
だって近代民主主義国家と中世共和制国家の最大の違いは、そのスケールです。 中世の共和制国家は要するに都市国家で、人口は最大でも10~15万人、城壁で囲まれた市内を出て徒歩で一日か二日歩けば敵国です。
しかし近代民主主義国家は遥かに広大で、人口も膨大なので、違った方言を使い、遠く離れた所に住み一生お互いに知り合う機会もない人々が、お互いに同じ国民として生きていくことになったのです。
こうなると何か国民全員が国家を実感できて、団結の象徴になる物が必要ではありませんか?
だから国旗や国歌が、生まれたのです。
そして自分達の国を自分達の手で守らなければ誰が守るのでしょうか?
一番危険な辛い仕事を他人に押し付けて、踏ん反り返っているような人の権利を、誰が守ってくれるんですか?
フィレンツェが民主制を喪った最大の原因は、フィレンツェの民主制を担ったのが裕福な商人達で、彼等は軍隊と言う究極の3K仕事を、傭兵に任せてしまったのです。 しかし自分達を安く使おうとしているだけの連中を守る為に、真面目に戦う程のお人よしはいないのです。
自分が命を懸けて国を守るのだから、自分にも国の政策を決める権利がある。
自分が決めた政策により戦争になるのだから、自分がその責任において戦う。
だから徴兵制は民主主義の根幹なのです。
そしてこうした民主主義の本質を考えると、とにかく安易に誰にでも権利をばらまくことや、また「世界市民」など言う概念は、完全に反民主主義であることは明らかです。
このような無意味な寛大さの持つ問題と、愛国心が民主主義にとって必要不可欠であることは、例えばマンションの管理組合のような身近な物を考えると実感できます。
マンションの管理組合は、普通マンションの各部屋の所有者全員が組合員となって、民主的に運営されます。
この所有者達が皆、自分のマンションに強い愛着を持ち、大切にしよと思っていれば、管理組合の運営はスムーズでしょう?
所有者は一人一人年齢も職業も価値観もそして財力も違っているでしょうが、それでも自分のマンションが大切だという思いで一致していれば、意見の対立が起きても粘り強く話し合って一致点を探す事ができます。
そして同じマンションに暮らす限りは、お互いの関係を壊さないように気も遣うでしょう。
でも投機目的で所有しているだけの人や、違法民泊にして荒稼ぎを狙っているような人が増えたらそうはいきません。
組合の会合にさへちゃんと出ない人達が、勝手な事を言う、会合で決めた規則を守らないと言った事態が続出するようになります。
そうなると組合の運営その物が破綻していきます。
このマンションを国家、そしてマンションの所有者を国民、マンションへの愛着を、愛国心と考えたら、民主主義体制を支えるのは愛国心であることは明らかでしょう?
また管理組合の組合員資格を、マンションの所有者に限るのは、当然の事です。
いかに善良な人でも、賃貸として入居している人は、自分が住んでいる間はともかく、将来的な価値なんかには責任を持たないからです。
もしも地震でマンションが大きな損害を受けても、所有者はローンを払い続けなければなりません。 でも賃貸の人達は「お世話になりました。」と言って出ていけばよいのですから。
この賃貸の人達は、国家で言えば外国人です。 永住権を持ち長期滞在していても、自国民でない限り、何かあれば「お世話になりました」と言って出てくことができる人達ですから。
だから参政権のような物を、誰にでも与えるのは、民主主義ではないのです。
民主主義は、自分達が決定した事の結果を自身が被り、それ故最後まで自分達の決定に責任を持たざるを得ない人達だけが、主権をもって初めて健全に機能するのです。
そうなるともう「世界市民」なんてモノはあり得ないのは自明でしょう?
だって「世界市民」ってマンションで言えば、そもそもマンションの住民と言う認識のない人でしょう? だから通りすがりの人や、近所の人達と同じです。
そんな人達にマンションに入り込まれて、挙句に管理組合の運営に口を出されたら堪らないでしょう?
そしてマンションを国家とするなら、国家を否定した民主主義とは、マンションを否定したマンションの管理組合ですから、そもそもそんな物は概念としてさへ意味がないのです。
けれども戦後の日本の教育では、ひたすら民主主義を振り回しながら、愛国心や更には国家を否定しきました。
そしてこれは日本ではなく、どうやら世界の先進国の病気のようです。
今日は短足おじさんが、こういうアメリカで愛国心や国家を否定する人達の事を、エントリーしてくださいました。
勿論アメリカでも彼等は「民主主義」を振り回しているのですが、しかしワタシは彼等も、そして日本の同類も、実は民主主義者ではないと思っています。
皆さんはどう思いますか?