そして中国政府は今後も共産主義を守り続けると宣言しました。
中国は、90年代に市場経済を導入して以降、世界史上でも稀なほどの経済成長に成功しながら、その結果の貧富の差の拡大には、驚くほど無関心でした。
何しろこの国は義務教育の無償化さへ2015年を目標にしていたぐらいです。 2015年と言えば3年前なので、書類上は達成しているようなのですが、未だ有名無実のようです。
中国より遥かに貧しい他の途上国は皆独立当初からこれを実現しました。
また共産主義国家は義務教育だけでなく、大学や芸術やスポーツなどの英才教育まで無償化しているのです。
そういう国が未だ共産主義を看板にしているのは、何とも違和感があります。
しかし中国の歴史と現政権の立場を考えたら、彼等が共産主義に執着するのは当然だと思います。
なぜ中国政府は共産主義に執着するか?
それは近代思想の中で、共産主義だけが現中国政権の欲する無限の権力を保障するからです。
近代政治思想が提案した体制は、共産主義と資本主義=民主主義しかないのですが、しかし民主主義にすれば現中国政権は、権力を放棄するしかありません。
一方、共産主義は無限の権力を保障してくれるのです。
しかし中国はなぜこの体制を維持できるのか?
それは中国古代から天命思想の為でしょう。
先日短足おじさんが中国の天命思想についてエントリーしてくださいました。
>天命思想とは、天が森羅万象の主ではあるけれども、人間世界を直接支配しないで、代理人に命じて統治させる。その代理人が天子すなわち皇帝です。しかも、皇帝の一族は代々その地位を受け継ぐことができる、という考え方です。
この天を神に変えたらイギリス国王チャールズ二世等絶対君主が唱えた王権神授説になります。
この王権神授説によりチャールズ二世は、イギリスの絶対的な権力者と君臨する事が神から与えられた使命と確信していました。
しかしこれには大問題がありました。 なぜなら同じ神を信仰する人々が、神はこの王には支配権を与えてるとは、考えていなかったのです。 それどころか王の信仰は間違っており、間違った信仰を持つ王に従う事はできないと考えたのです。
結果清教徒革命が起きて、チャールズ二世は断頭台の露と消えました。
西欧にはこうした王の他に、「神の代理人」と呼ばれる人がいます。
それがローマ法王で、法王は神により地上でキリスト教徒を指導する役割を与えられた事になっています。
ところが神様は代理人に軍事力を与えなかったので、信者への指導は精神的な物に限るしかなく、現実の権力は限定的でした。
しかも近世になると法王が神の代理人である事に疑問を持つ人々が出てきて、彼等は法王の下を離れそれぞれ自分達の教会を作ってしまいました。
キリスト教の神は唯一絶対であり、しかも人々の信仰心は非常に篤かったのですが、しかしそれでも、いやそれ故にこそ、神に与えられた権力と言うのは、限定的な物なのです。
ところが天は神ではないので、天を信仰する人はなく、その為ヨーロッパで起きたような法王と王権、法王と新教徒のような対立はなく、天命を受けた皇帝は無限の権力を持つ事ができます。
なぜなら天は信仰の対象でないため、法王庁や清教徒のように、自分もまた神の意思を知っているとして、皇帝に対抗しようとする組織や信者が出てこないからです。
ところで共産主義はこの「天」を「労働者・農民」に変えた物ではありませんか?
「天」と「労働者・農民」の共通点は、どちらも全く無力で、権力に対抗する発言権を持たない事です。
しかし共産主義はこの発言権を持たない人々の代理人を僭称することで、全ての権力、無限の権力を掌握することができる思想です。
近代以前の西欧史は、王権と教会の血みどろの権力闘争でした。
絶対君主と雖も、神に従わねばらず、神に従わない王は、斬首されるのです。
ところが中国史にはこのような教会や信仰が存在せず、歴代中国王朝で皇帝は西欧史上の絶対君主も望んで得られない程強大な権力を持ち続けました。
そうした皇帝の権力を正当化してきたのが天命思想であり、その天命思想を体系化したのが儒教です。
中国の皇帝は科挙により儒教教育のエリートを選りすぐって官僚にし、彼等に強大権限を持たせる事で、強力な中央主権体制を維持してきたのです。
こういう歴史を千数百年生き続けてきた人々、他の体制を全く経験したことのない人々にすれば、共産主義以外の近代政治思想が理解できないのは当然ではありませんか?
ワタシは以前、レジナルド・ジョンストンの「紫禁城の黄昏」を読んだ時に、この中で著者ジョンストンが「孫文は民主主義を理解できない」と書いているのを見て驚きました。
彼は共産主義者にはなりませんでした。 しかし実際に民主主義を理解できないからこそ「三民主義」などと言うヘンな物を作りだしたのでしょう?
孫文は元々貧農の生まれで、中国式の教養人として育っていません。 それでも自分と同様の貧農が、参政権を持つ制度など理解できなかったのです。
それでは中国式の教養人として、幼い頃から四書五経、漢詩漢文を読まされて育った人にすれば、民主主義なんて猶更理解不能ではありませんか?
彼等はそもそも自分達士大夫階級が一般国民と同等と考えた事もないし、また一般国民が政治に参加するなどと言う事は、全く想定できないように教育されているのです。
一方共産主義は近代西欧思想ではありますが、結局「天」を「労働者・農民」に変えるだけで済みます。
そして皇帝を共産党に変えれば、皇帝が持っていた権力を、そのまま共産党が得る事ができるのです。
だったら彼等が共産主義に飛びついて、絶対に手放さないのは当然ではありませんか?
そもそも共産主義と儒教はどう違うのでしょうか?
ワタシが共産主義と言う言葉を知ったのは、小学校高学年のころです。 そのころはまだ冷戦真っただ中だったので、テレビニュースにも殆ど毎日共産主義とか共産圏と言う言葉が出てきたのです。
それでワタシはある日父に聞いたのです。
「お父さん、共産主義って何?」と。
すると父は共産主義について、資本の国有化とか共産主義の基本理念を教えてくれました。
それでワタシはまた父に聞いたのです。
「お父さん、それ凄く良い事ではないの?」
すると父は「人間が皆神様みたいに良い人だったら、良い事だけれど、でも人間はそんな良い人ばかりではないから上手く行かない」と答えました。
しかし当時のワタシは何でそれがうまく行かないのか全くわかりませんでした。
その後学校で歴史を習うようになると、日本や中国に嘗て班田収授の法とか均田制と言う、資産の国有化と強制分配の制度があった事を知りました。
そこで思ったのです。
これは共産主義はないの?
そのうち中学生になり、高校生になり、班田収受の法や均田制にも更に詳しく習うようになりました。
また共産主義についても学校でちゃんと習いました。
それに自分でも父が買い込んでいた中国史の本など読むようになり、歴代中国王朝の創立と破綻の物語をいろいろ知るようになりました。
そしてその後も歴史に興味をもって人並の読書をしてきました。
しかしワタシは未だに過去の中国の歴代王朝の行った農地の強制分配と、共産主義の違いがわかりません。
勿論、高学歴の共産主義者の人達に言わせれば、こうした古代奴隷制と共産主義を一緒にするなんてトンデモだというでしょう。
しかしどんなに小難しい理屈をつけても、暴力で政権を得た人間が、全く無権利となった人民を支配し、私有財産権までも完全に剥奪して、無限の権力を握る体制であることに全く変わりはないではありませんか?
劉邦の野心と毛沢東の野心はどう違うのでしょうか?
こういう野心家の希望を叶えてくれる近代思想は、共産主義以外にないでしょう?
そして実際に自分が王朝を作った以上、その権力を絶対に手放したくはないのです。
そうなるといつまでもどこまでも共産主義を守り続けるしかないのです。
だって共産主義は無限の権力を与えてくれるのです。
共産主義には個人の権利も神もなく、個人の資産は勿論、肉体も精神も全て権力に従わせる事ができるのです。
11世紀のヨーロッパでカソリック教会の権威が最高潮に達しようしていたころ、聖職者の中に「国家の修道院化」を夢見る人々が現れました。
修道院では修道士は長上の人々に絶対服従して、祈りと労働の日々を送ります。
彼等は国家が全体がそのようになる事を夢見たのです。
こうなれば、法王を頂点に聖職者達は絶大な権力を持つ事になったでしょう。
しかしこれは勿論夢のまた夢に終わりました。
ところが共産主義国家と言うのは、まさにこの聖職者を共産党と共産党員に置きかえた物で、しかも彼等には従うべき神はいないのです。
以前佐藤優が「共産主義と言うのは、ある種の人々に非常に美しい夢を与える」と書いていましたが、それは全くその通りだと思います。
神さへも放逐して為政者に無限の権力を与えてくれるのが共産主義です。
権勢欲の強い人間にとってこれほど魅力的な制度はないでしょう?
そして中国共産党はこの制度を実現して、無限の権力を握っているのです。 だったらこれを手放す事など考えるわけもないのです。
しかもこれは中国史上連綿と繰り返された事なので、一般中国人にとっても抵抗のある制度ではありません。
中国と西欧では古代が違うのですから。
恐ろしい事ですが、日本の隣国はこういう国なのです。
だから日本人はこの現実を直視し、自分を守る方策を立てるしかないのです。