アテネ軍9000人、プラタイア軍1000人、これに対してペルシャ軍は20000~26000人と言われます。
スパルタに要請していた援軍は、ペルシャ軍の上陸に間に合いませんでした。
この時アテネ・プラタイア連合軍の指揮を執ったのがミルティアディスです。
彼は当時の歩兵戦の常識を破る布陣を用いて、味方の倍を超えるペルシャ軍を包囲殲滅したのです。
戦闘が終わってから到着したスパルタ軍は、この戦場を視察して「これ以上はあり得ない完璧な勝利」と評しました。
そしてこの時ミルティアディスの用いた布陣は、この後ギリシャだけでなくローマ軍に長く用いられる事になります。
アテネ市民がこの勝利に歓喜した事は言うまでもありません。
しかしアテネはそれでは満足せず、この勝利を確実な物にするために、エーゲ海に残るペルシャ勢力の掃討作戦を開始しました。
翌489年、アテネ軍はペルシャの支配下にあったパロス島を攻略戦を開始します。 指揮官は勿論ミルティアディス。
しかしアテネの要求が余りにも過大であったため、パロス島の抵抗は激しく、作戦は進行は捗々しくありませんでした。 そしてその最中、ミルティアディス自身が瀕死の重傷を負ってしまいました。
その為、アテネ軍は遂に撤退したのです。
こうして重症を負って帰国したミルティアディスを待ち受けていたのは、市民からの告発でした。
アテネ市民は彼に「国民の期待を裏切った罪」で死刑を求刑したのです。
ペルシャ帝国は元々はペルシャ、つまり現在のイランを中心とする帝国でした。 しかし紀元前500年頃から皇帝ダレイオス一世が近隣の侵略戦争を開始し、フェニキアやオリエント一円を征服しました。
そしてアナトリア半島の内陸に進出し、更にギリシャ人の世界であったアナトリア半島の地中海岸とギリシャの北部までを支配下に置いたのです。
こうして超大国になったルシャ帝国が、遂にアテネなどギリシャ中部の国々に服従を迫ってきたのです。
一方当時のギリシャと言う統一国家はありませんでした。 ギリシャ語を話しギリシャの神々を信仰する人々は、自分達はペルシャ人など他の民族と違うと言う一体感はありましたが、アテネやスパルタ、コリント、テーベなど多数の全く独立した国家に分かれていて、その政体も様々でした。
そしてお互いに戦争を繰り返していました。 ギリシャ人同士が戦争を止めるのは、4年に一度のオリンピックの期間だけでした。
アテネもこうしたギリシャの都市国家の一つでしたが、ペルシャ軍のギリシャ侵攻が始まる少し前頃に民主制を確立していたのです。
そのアテネの政界は対ペルシャ穏健派と主戦派にわかれて激しい抗争が始まりました。
対ペルシャ穏健派は、ペルシャ帝国と何とか外交で折り合って行けば戦争は避けられる、イヤ避けなければならない、と考える人々です。
一方主戦派は着々とギリシャ人の世界に侵攻するペルシャ帝国の状況から、ペルシャ帝国の侵略は避けられない、だからギリシャ諸国が団結して、ペルシャ帝国の侵略に対抗しようと言う人々でした。
常識的に考えれば穏健派が正しいのです。
ペルシャ帝国はあまりに強大であり、一方ギリシャ諸国が団結した事など嘗てないのですから。
しかし結局、ペルシャ帝国の侵攻は止まらず、アテネはマラトンでペルシャ軍を迎え撃って勝利したのです。
これで一旦はペルシャ帝国の侵攻を止め、アテネは滅亡を免れました。
けれども対ペルシャ穏健派の代表クサンティッポスが、パロス島攻略失敗について、ミルティアディスを告発し死刑を求刑したのです。
これに対して主戦派の若手代表だったテミストクレスは、必死にミルティアディスを弁護しました。
テミストクレスは後の第二次ペルシャ戦役で、サラミスの海戦を指揮して、ギリシャを完勝に導き、更にアテネの経済発展の基礎を築いたギリシャ史上最高の英雄になる人です。
しかしこの時彼ができたのは、死刑を罰金刑まで減刑させることだけでした。
けれどもこの罰金は実に50タレント!!
1タレントあれば当時の標準的な軍船170人の漕ぎ手を要する三段櫂船を一隻建造できました。
そして当時最大だったコリントの海軍が、三段櫂船50隻でした。
ミリティアディスはこの判決を受けた数日後に死亡しました。
瀕死の重症を負って帰国した彼は、この裁判の最中も殆ど危篤状態で完全な欠席裁判でした。
その彼がどのような思いでこの判決を聞いたのでしょう。
彼に罰金が支払切れない場合は、遺族がその残りを支払を続けると言う条件までついていました。
そして勿論ミルティアディスにはこのような莫大な罰金を支払える資力はなかったのです。
これがマラトンの会戦で輝かしい勝利を収め、祖国を防衛した英雄の最後でした。
もしマラトンで負けていればアテネは滅亡していたのです。
そしてパロス島攻略作戦はミルティアディスが勝手にやったことでありません。 アテネ市民の総意であり、そしてミルティアディスを指揮官に選んだのもアテネ市民達なのです。
パロス島攻略は失敗でしたが、しかし戦線が膠着しただけでアテネ軍がそれほどの損害を受けたわけでもないのです。 戦死者だって殆ど出ていないのです。
またミルティアディスが臆病でも怯懦でもなかった事は、彼自身が重症を負った事でも明らかです。
しかしアテネ市民はこの英雄に掛けた過大な期待が裏切られた事を許しませんでした。
だから彼の死刑に賛成し、テミストクレスの懇願で何とか罰金刑で我慢したのです。
勝手に期待し、その期待が裏切られると怒り狂う。
このような民衆を扇動して政敵を葬ろうとする人間が出てくる。
しかもこの扇動者クサンティッポスはアテネを代表する名門出身でした。
このクサンティッポスの息子が後にアテネの黄金時代を築くペリクレスなのです。
これを想うと後のアテネの衆愚制の種はこの時から既に芽生えていたのです。
テミストクレスは第二次ペルシャ戦役を通じて活躍しましたが、自身でアテネ軍の指揮をしたのはサラミスの海戦一度です。
サラミス海戦以降のアテネ軍の指揮は別人にやらせていました。 ミルティアディスの無残な最期を思えば当然かも知れません。
そしてペロポネソス戦争が始まり、戦闘が増えるとこの種の理不尽な告発も頻発します。
民主主義国家アテネでは、行政は全市民から選ばれたストラテゴラスと呼ばれる10人の行政官が司ります。 そして戦争になるとこのストラテゴラスの中から指揮官が選ばれ軍隊を指揮します。
ストラテゴラスに選ばれる事も、まして軍隊を指揮する事もこの上もない名誉ではありますが、報酬はありません。
しかしそれでストラテゴラスになり、軍を指揮して戦闘をして一度でも負けたら、良くてて追放、普通に死刑なのです。
だから戦闘に負けたり、任務は失敗とわかればアテネに帰らずそのまま逃亡して行方をくらます人も出てきます。
こんな事をしていてはドンドン人材が消滅していきます。 それは死刑や逃亡や追放で生物的に消滅するだけではないでしょう。
ワタシがアテネの富裕層の妻なら、夫に懇願します。
貴方お願いだからストラテゴラスにはならないで!!
どんなに煽てられても引き受けちゃダメよ!!
兵役は仕方がないわ。
兵役で死んだら名誉の戦死よ。
でもストラテゴラスになって敗戦したら、罪人になるのよ。
罪人になって貴方の名誉も、先祖伝来の資産も吹き飛ぶのよ。
そうなったら子供達の将来はどうなるの?
貴方が天才武将だったとしても、勝負は時の運、絶対に勝つと言う保障なんかないのよ。
でも貴方に何の落ち度がなくても、負ければ市民は絶対に貴方を許さないわよ。
あのマラトンの英雄がどんな最後を遂げたか、貴方だって知っているでしょう?
歴史上のどんな名将でも、敗戦の経験のない人はいません。 幾多の戦闘を経験し、その中の大多数で勝てば名将なのであって、一度も負けず勝利しかしない人などいないのです。
ところがアテネ市民はこの現実を絶対に見ようとはしませんでした。
紀元前406年、アテネは海軍はエフェソス沖でスパルタ海軍と激突します。 戦闘は混乱を極めながらもアテネが辛勝し、アテネ艦隊はキオス島へとスパルタ艦隊を追撃しました。
ところがその途中嵐がアテネ艦隊を襲い、多数の死者が出ました。
するとアテネ市民はこれに激昂して、艦隊を指揮していた8人のストラテゴラス全員に死刑を求刑したのです。 そして逃亡した二人を除く6人が処刑されました。
この頃既にアテネの国力は消耗し尽くしていました。 人材も尽きていました。
なによりもアテネ艦隊が損害を受けたのは戦闘ではなく嵐のせいなのです。
それでもアテネ市民達は、指揮官達を処刑したのです。
一方スパルタはその間に海軍を建て直し、翌紀元前405年ヘレポント海峡に面する都市を急襲占領しました。
商工業都市アテネは食糧を黒海岸からの輸入に頼っていました。 ヘレポントス海峡は河のような細長い海峡で、黒海と地中海をつなぐアテネの生命線です。
ストラテゴラス達の処刑に熱中したアテネは、この海峡の防備を完全にお留守にしていたのです。 これにはスパルタ側も驚き呆れました。
スパルタの急襲に仰天したアテネ市民達は慌ててヘレポントスに艦隊を送り出したのですが、しかし指揮官の人材は尽き果てていたのでしょう。
実に何とも言いようもない程簡単にスパルタに撃破され、アテネ海軍は消滅しました。
そして完全に制海権を喪ったアテネは翌紀元前405年スパルタに無条件降伏するのです。
歴史の中では暴君が、嫉妬や気まぐれから功臣や堅臣や英雄を誅殺すると言う話は良くあります。
しかし民主主義国家アテネの市民達ほど執拗に英雄を誅殺し続けた例は知りません。
市民と言うのはこの上もない暴君なのです。
ミルティアディスの処刑はその暴君の暴挙の始まりでした。