ヒジュラとはインドの第三の性です。
インドには男性と女性の他にヒジュラと言う性があります。
これはインド政府が公式に認めている性別で、パスポートなどの公式書類の性別蘭にもヒジュラと記載されます。
ヒジュラは本来は先天的な生殖器の奇形や障害の為に、男性とも女性とも判別できない、所謂半陰陽の人達と言う事になっています。
しかしヒジュラの中には、肉体的には全く問題のない男性であったのに、成人後自らの意思で去勢手術を受けてヒジュラになった人が少なからずいるのです。
こうした手術を専門に行うカーストが古代から存在したと言うのがいかにもインドです。
けれども昔は麻酔も感染症防止策もなかったのですから、手術は大変な苦痛を伴うし、命を落とす人も少なくなったでしょう。
このような苦痛と危険を顧みずに手術を受けてヒジュラになっても、社会的にも経済的にも良い事は全くありません。
どんなカーストの出身でも、ヒジュラになったらアウトカースト、つまり賤民になります。
ヒジュラは普通、ヒジュラの師匠(グル)を中心に15~16人ので共同生活をしています。
そして表向きは歌や踊りなどの芸能を生業とします。
インドでは結婚式にヒジュラを呼んで歌や踊りを披露させたり、子供が生まれた時にヒジュラに祝福して貰う習慣があります。
インディラ・ガンジーの子供達も、生まれた時にヒジュラに祝福されています。
ヒジュラ達はこの報酬で生活するのです。
このような芸能で成功して、人気芸能人になるヒジュラもいるのですが、しかしそれは極少数です。
殆どのヒジュラは極貧です。
インドの極貧ですから日本の左翼は騒ぐ相対的貧困などとはわけが違います。
常に餓死隣り合わせの貧困なのです。
それで招かれないのに結婚式や子供の出生祝いに押しかけて、金を貰うまで帰らないなど殆ど恐喝に近い事をしたりします。
しかし実際にはそれもできず売春をしながら路上生活をするヒジュラが大多数なのです。
このように最貧困層、最下層階級として生きるしかないのですから、悲惨としか言えません。
だからヒジュラ達は仲間が死ぬと、その遺体を殴りながら「二度とこんな呪われた体には生まれてくるな。」と言うのです。
生まれつき性器に奇形があって、物心もつかない頃に家族から見捨てられてヒジュラの師匠に託されて育つ、或いは名家の令嬢に生まれて何不自由なく育ちながら、結婚初夜に性器の異常がわかり、婚家から追われ、実家にも帰れない。
こうした人々がヒジュラになるのはわかります。
しかしなぜ肉体的には何の問題も無い男性が、危険で苦痛に満ちた去勢手術を受けてまで、ヒジュラになるのかはわかりません。
インドは同性愛には至って寛大な社会なので、唯同性愛者であるだけならヒジュラになる必要は全くないのです。
そしてインドは大変な男尊女卑社会だから、男性に生まれたらそれだけで勝ち組なのです。
だからそれでもヒジュラになる男性がいると言う事は、この世には、ヒジュラの生活がどんなに悲惨であるかはわかっていても、それでもなお男性として生きる事はなお苦痛であると感じる人々が存在すると言う事でしょう。
人間の性の認識と言うのは実に不可解な物です。
因みに世界にはインド以外にも、男性と女性以外の性を認めている社会があります。
これらの人々はインドのヒジュラ違い、賤民として悲惨な立場ではないようです。
それどころか北米先住民のペルダーシュなどは、男女を超越した特別な存在として神聖視されていました。
男女を超越した人への神聖視は、実はインドのヒジュラを賤民化と同質でしょう。
ヒジュラも実はある種神聖な存在なのです。 だから子供が生まれたらヒジュラを呼んで祝福して貰うなどと言う習慣があるのです。
本来人間にとって神聖な物、つまり人間の日常の人知を超越した物は、実は恐ろしくおぞましいモノでもあるのです。
性と言うモノは、人間にとって非常に深刻で、理性でも感情でも対応不能な存在なので、男女と言う一般的な性に属さない人々は、神聖で崇高であると共に、恐ろしくもおぞましい存在になるでしょう。
そもそも人間は様々な障碍を持って生まれる生き物です。
しかし四肢や視聴覚の障碍と違い、性の障碍は日常生活に殆ど傷害になりません。
性の障碍で困るのは子孫を残せない事ぐらいですが、しかし性に何の障碍がなくても子孫を残さない人など幾らでもいるのです。
それどころか修行僧や尼僧のように、健全な男性または女性として生まれながら意図的にそれを使わず禁欲に徹する人々は、大変尊敬されるのです。
それなのに性に障碍を持って生まれると、そのことで本人も非常な苦悩を抱え、社会からは忌避されると言うのは、人間が持つ性に対する畏敬の巨大さゆえでしょう。
ところで今、欧米や日本では同性婚や同性同士で結婚して子供を持つ権利などと言う話が出ています。
そしてこれに反対すると差別主義者と糾弾されるようです。
しかしワタシはこれはつまり日本や欧米には、ヒジュラのような第三の性が存在せず、人間は男性もしくは女性でなければならないと言う発想から出られないからではないかと思います。
だから男性でも女性でもない状態で生まれた人達の中には、何としても自分が完全な男性、或いは女性であることを自分自身と社会に証明するために、結婚や子供を望むだと思うのです。
だって父親或いは母親になると言うのは究極の性別の証明ですから。
しかしそんなことで婚姻の神聖を利用したり、まして子供を巻き込むなんて絶対に許せません。
そしてそんなことをしたって本当に男性或いは女性になれるわけでもないのです。
ワタシはこの手の人達の活動が無茶苦茶不愉快なのですが、それはそもそも彼等が絶対不可能な事、現実を無視した話しを他人にゴリ押ししているからだと思います。
現実の肉体を無視して、自分を女、または男であると信じようとするから「オレは女だ!! 女湯に入れないのは差別だ!!」と喚くような、異様で不快な事をするしかないのです。
しかし幾ら他人を脅迫しても、現実の肉体が変わるわけではないし、不快感を煽って嫌悪されるだけなのです。
本当に自分の存在を肯定したいなら、自分は男性でも女性でもないと言う現実を認識するしかないのです。
そして彼等が幸福に暮らせるようになるには、社会もまたこうした人々の存在を肯定するべきなのです。
インドのヒジュラのように悲惨な第三の性ではなく、タヒチのマフや北米先住民のペルダーシュのように、普通の人間としての第三の性の存在を認めるべきなのです。
性は生物学的に決まるモノですが、性をどのように認識するかは完全に社会的な問題です。
性に対する畏敬や恐怖は理性だけで克服できるわけではありませんが、しかしそれでもできる限り理性を働かせて、「この世には男性でも女性も無い人々がいる。 しかし彼等もまた普通の人間である。」と認識するように努力するべきなのです。