
以上が普遍的パターン。これは教義の思想的形式から必然的に生じる問題構図です。教義テキストを絶対とすることが教義の根本なので、絶対の教義が他者から見れば抑圧ではないか、と発言することが、教義テキストが絶対ではないと主張したものと捉えられ(実際にそうなのですが、異教徒なのですから)、暴力による制裁が権利どころか義務であると考える者が出てくることを止められない。
早くそのことに世界全体が気づいて、折り合いをつけられるようになるといいですね。
直接的にはこの記事の話です。
「イスラムを侮辱した」 アホック氏発言が波紋 コーランに言及 (2016年10月08日)
日本人からすると、この記事を読んでも、どこがどうイスラムを侮辱したのかわかりません。
インドネシアのジャカルタ特別州知事選の候補者は、キリスト教徒が一人、他は全部イスラム教徒でした。
でそのキリスト教徒のアホック候補が、「ユダヤ教徒とキリスト教徒を仲間としてはならない」とするコーランの第5章第51節に触れ、「コーランの51節に惑わされているから、あなたたちは私に投票できない。(中略)地獄に落ちるのを恐れて投票できないというのであれば、仕方ない」と述べたのです。
これの何処がイスラムを侮辱していることになるのか?
宗教に関係なく党票して欲しいと言っているだけにしか思えません。
こんなの民主主義国家なら当然のことではありませんか?
インドネシアも嘗てのような独裁国家ではなく、今は選挙で選ばれた人が大統領になっている国なので、こうした発言が出るのは当然でしょう?
ところがこれに対して、イスラム強硬派の団体は「宗教の冒涜だ」としてアホック候補に謝罪を求めており、謝罪を求める署名には既に6万5千人が署名したのです。
エッ?
でもコーラン第5章51節に「ユダヤ教徒とキリスト教徒を仲間としてはならない」と書かれてあるのは事実でしょう?
この事実を指摘しちゃいけいんですか?
しかしイケナイのです。
これがイスラム側からすると「イスラムを侮辱した」事になるのです。
池内恵氏はこれを指摘しているのです。
イスラム教徒にとってはイスラムは絶対なのです。 その絶対と言うのは、イスラム教徒だけがこれを絶対的真理として守らなければならない物と言うのではなく、イスラム教徒・非イスラム教徒に関係なく、全ての人類がこれを絶対的真理としなければ許さないと言う物なのです。
イスラム教では「ユダヤ教徒とキリスト教徒を仲間としてはならない」と明言しているのだから、ユダヤ教徒やキリスト教徒がイスラム教に批判的になるのは、当然じゃないかと思います。
しかしイスラム教徒からすればそもそも異教徒と言うのは、イスラム教徒の慈悲によって生存を認めてやっている存在なのです。 だから彼等はそのことに感謝するべきなのであって、仲間にしてもらえない事を「イスラムの排他性」などと言うのは、絶対に許せない冒涜と言う事になるのです。
そこで池内恵氏の言うように、イスラム教徒によるテロや焼き討ちが起きるのです。
しかしなぜかその後ムスリムとリベラル派から「イスラムとテロは無関係」などと言う話が出て、被害者は殺され損で終わる事になるのです。
イヤ、このムスリムの思考ラインだと、テロや焼き討ちの原因はイスラム教以外にないでしょう?
そもそも自分達の宗教を絶対化して、異教徒に批判も許さないと言う発想自体大問題でしょう?
でもこうした批判をするのは今の所少数派のようです。
と言うか以前札幌北星学園大学で池内恵氏の講義があった時に聞いたのですが、欧州ではこの池内氏のような意見を言う事自体がヘイトスピーチ視されているそうです。
だから純然たるイスラム研究の世界でさへ、こうした意見は出てこないそうです。
池内恵氏の北星学園大学での講義で知ったのですが、イスラム教と言うのは、極めて政治的な宗教です。
キリスト教の場合はキリスト本人が処刑されて、その後キリスト教が公認されるのに300年余かかりました。
だからキリスト教の成立過程では、全く政治的活動はできませんでした。
しかしイスラム教の場合は、教祖ムハンマドの生前に彼の指揮の元アラビア半島を征服しています。
そして被支配下の地域をイスラム化しました。 勿論、ムハンマドの軍隊に負けて制服された人々が、感激してイスラム教に改宗したわけではありません。
強権的に圧迫する事で改宗せざるを得ないように追い込んでいったのです。
この時のムハンマドの政策、イスラム教による支配の確立や、被支配者のイスラム化の為に出した声明や法令は、神の言葉となって現在もコーランやイスラム法に記述されています。
ムハンマドは政治家としても軍人としても優れていたので、これらの政策は現実的で有効性の高い物でした。
そしてムハンマドの後継者達はこれを踏襲して、その後も征服地域の拡大を続けたのです。
神の言葉、神の意思ですから人間が変えるわけには行きません。
だからイスラム圏では今も多くの国がイスラム法を採用しています。
つまり被支配者の強権的イスラム化が神の言葉、神の意思として今も受け継がれているのです。
イスラム教徒は非イスラム教徒を圧迫してイスラム化する事を、神の正義、人類普遍の価値として信じているのです。 だからそれに疑念を呈する者の存在は絶対に許しません。
しかしこうなるとイスラム教徒との共存は実に厄介でしょう。
そしてこれを考えると、現在欧米のリベラリスト達が、イスラム教徒に対して譲歩を続けるのもわかります。 (「テロはイスラムに関係ない」などと言うのも譲歩の一つですが)
リベラリスト達の原則は「話し合いで全ての物事は解決できる」「どんな人間とも話し合えば理解しあえる」です。
そのことを信じて大量の移民を自国に入れたのです。
しかし話し合いと言うのは、元来お互いに相手を尊重する意思があり、譲り合う意思がない限り成立しません。
だったらイスラム教徒と、イスラムに関わる話し合いなど根源的に成立不能なのです。
でも話し合いができない相手がいる事を認めたら今度はリベラリストの立場がなくなります。
だから話し合いが出来る事にしなければならないのです。
そうなると結局イスラム側の言う事を聞いて、とにかく騒乱を抑えるしか方法がありません。
それがリベラリスト達が「イスラムはテロに関係ない」「イスラムは平和な宗教」と言わざるを得ない理由でしょう。
しかしこんな事をしていたら、結局最終的に全てイスラムに支配される事になります。
欧米のリベラリスト達はこれを認めるのでしょうか?
欧米のリベラリズムの根源は、キリスト教との戦いでした。
宗教の支配を脱して自由な人間になる。
これが近代リベラリズムの原動力でした。 でもその原動力が暴走した挙句に、キリスト教より遥かに強権的で狂信的な宗教であるイスラム教の支配下になるのなら、もうお笑いと言うしかありません。