この人は前々からひたすらイスラムへの批判を「人種差別」「排外主義」と批判する一方で、「ドイツ帝国世界を破壊する」などとドイツフォビアを煽るので、凄く胡散臭いとおもっていました。
で、この文芸春秋の論文もこれらの前著の短縮版ではないかと思います。
トッドはこの論文でシャリル・エブド襲撃事件に対するフランスでの抗議事件を取り上げて、これを「排外主義」「人種差別」と言い、「フランスは国内問題をイスラムをスケープゴートする事で乗り切ろうとしている」のだと言います。
またフランス革命以降のフランス政治の基本理念である「ライテシ」つまり世俗主義は、「反イスラム」のコードネームになったと言うのです。
そしてこれらの反イスラムは「平等と博愛」と言うフランス革命の理念を破壊するものだと言います。
しかしワタシはこれ全然同意出来ません。 と言うか、これって自称弱者の味方、綺麗事パヨクの典型だとしか思えません。
つまり全ての人間を極めてステレオタイプに差別される弱者と、差別する強者に分けて、更に差別する強者=悪人、差別される弱者=絶対善人と決めて、そして差別される弱者への批判は絶対許さず、差別する強者にのみ弱者への配慮と理解を要求するのです。
そしてこの世の全ての不幸は、差別する強者の無慈悲と無理解にあると断罪するのです。
この分類は人によって、また国や地域によって違います。
例えばアメリカなら、黒人=弱者=善人、で白人=強者=悪人です。
また日本では、在日コリアン=弱者=善人、で日本人=強者=悪人です。
そしてフェミニストによれば、女性=弱者=善人、で男性=強者=悪人です。
トッドの場合は、これがイスラム教徒=弱者=善人で、非イスラムのヨーロッパ原住民=強者=悪人なのです。
そこでトッドは悪人ヨーロッパ原住民に、ひたすらイスラムへの譲歩と支援と理解を要求し、それに反対する意見は「排外主義」「人種差別」「狂気」「反知性主義」と言うのです。
イスラム教徒への批判を「人種差別」と言うのは、トッドに限らず自称弱者の味方の常套です。
しかしこれどう考えてもオカシイと思いませんか?
ユダヤ教のような民族宗教と違って、イスラム教の教理では全ての人類を対照とした宗教です。 実際現在世界中の殆どの国籍、民族のイスラム教がいます。
例えば明治の初年に既にイスラム教に入信し、メッカへ巡礼に行った日本人がいました。
非イスラムの日本人が、この人を批判或いは非難したら、トッドは「人種差別」と言うのでしょうか?
宗教に対する批判を、「宗教差別」と言うならまだ理解出来ますが、「人種差別」という発想は理解出来ません。
これは宗教差別を人種差別に掏り替える事で、非難をより強めると共に、イスラム教のように本来個人の意志で入信し、個人の意思で棄教出来る物を、人種と言う個人の意思では、絶対変更不能な物であるかのように錯覚させようとしているとしか思えないのです。
宗教やイデオローギーのように、個人の意志で変更可能なものなら、「オマイがどんな信仰をしても、それはオマイの勝手だけど、職場に宗教は持ち込むな!」言えます。
しかし人種は個人の意思では変更不能ですから、黒人に「オマイ職場で黒い顔するな! アフロヘアーも止めろ!」なんて絶対言えません。
そうやって宗教を人種にすり替える事によって、イスラム教徒側の宗教的要求の全てを認めさせようと言うのではないでしょうか?
だからワタシはこのように人種差別と、宗教差別を意図的に混同させるような人間は、絶対信用出来ないんのです。
そもそも人種差別を悪と言うのは、人種のように本人にはどうしようもない属性で人の能力や人格を規定するからでしょう?
しかしその点から言えばトッド等自称弱者の味方こそ、実に短絡的に人を属性で判断し、断罪しているのではありませんか?
そして根源的な違和感ですが、彼は民主主義や言論表現の自由をどう考えているのでしょうか?
彼はシャリル・エブド襲撃事件への抗議を「排外主義」「人種差別」と言うのですが、それではあのように兇悪なテロに抗議してはイケナイというのでしょうか?
成る程シャリル・エブドって物凄く悪趣味な雑誌で、ムハンマドを風刺しただけではなく、福島の原発事故や先日のイタリアの地震でも、瓦礫の下敷きになった犠牲者を「ラザニア」などと見るに耐えない程、悪質で冒涜的な漫画を掲載していました。
これが被害者やその遺族をどれほどきずつけたことか?
我々日本人やイタリア人にとってどれほど不快だったことか?
しかし幾ら不快でも、日本人もイタリア人もそんな事で、シャリル・エブドを襲撃しようなどとは思いません。
成る程、不幸な犠牲者を嘲る事は、道義的には絶対許されない事です。 しかし実際に物理的に被害が無い以上は、表現の自由は最大限尊重されるべきと言うのが民主主義社会のルールだからです。
日本人もイタリア人も、そしてフランス人も、このルールをイスラム教徒にも適用して、彼等が我々の宗教や伝統を冒涜しても、一切抗議もせず、まして 暴力的対応など絶対にしなかったではありませんか?
所がイスラム教徒達は実に安易に暴力で対応したのです。
このテロに対してイスラム社会から反省の意思は、全くつたえられませんでした。
彼等の中では、イスラム教だけが絶対であり、世界中何処にいようとも、その国の人々の宗教や伝統に敬意を払う意志はないのです。
そればかりかその国の法律すら尊重する意志がないと思わざるを得ません。
このような人々に抗議するのは、当然でしょう?
もし日本政府がシャリル・エブドの福島原発事故の風刺画に抗議したら、ドット始めイスラム擁護のパヨクは、それを受け入れたでしょうか?
政府の抗議の方が、テロでエブドの社員を大量殺害するよりは、遥かに穏健なのですが・・・・・。
そもそもこのような悪質で残任なテロへの抗議さへも「人種差別」「排外主義」と言うなら、もうフランス人は言論を全てイスラム教徒によりコントロールされてしまうことになるでしょう。
ドットはこの論文の中で「フランスには暗い過去がある」と言い、第二次対戦中当時のビシー政権が、ナチに協力して全体主義に加担した事を非難しています。
民主主義を否定し、 人々の言論が弾圧されて特定の理念(宗教やイデオロギー)を強制しようと言うのはナチだってイスラムだって同様ではありませんか?
当時のフランスがあっさりナチの支配下に入ったのは、フランスの軍事力がドイツのそれに比べて格段に劣勢で、戦っても全く勝ち目はなく、戦い続ければひたすら犠牲者を増やすだけだったからです。
もしフランスが徹底抗戦していれば、成る程大変英雄的ではあったでしょうが、ポーランド並みに大量の民間人が犠牲になり、パリはワルシャワのように完全に破壊されていたでしょう。
そのような状況でのフランス政府の対応を、非難するほどドットが民主主義を重んじるなら、テロにより言論を弾圧しようと言うイスラムをこそ非難するべきではありませんか?
少なくとも自由を守るために国内のイスラム教徒と内戦になっても、ナチと戦争する程の被害は出さずにすむでしょうから。
それをひたすらフランス側にイスラムへの迎合を即するのは、つまりはドットと言う人の倫理では、ナチの言論弾圧は悪い弾圧だが、イスラムによる弾圧は良い弾圧.ナチのユダヤ人迫害は許せないが、イスラム教徒による迫害は無問題という事になっているにでしょうか?(今ヨーロッパではイスラム移民に煽られてユダヤ人迫害が復活しています)
ナチスドイツこそがこの世の悪の全て、その復活さへ阻止すれば人類は未来永劫平和である。
これはトッドだけではなく世界中のパヨクの基本理念です。
だからトッドは「ドイツ帝国が世界を破壊する」なんて本を書きました。
勿論ドイツには様々問題はあります。
しかしこのタイトルを見ると、ワタシはそれこそナチを思い出します。
ナチは「ユダヤ人が世界を破壊する」と信じたので、ユダヤ人を抹殺しようとしたのです。
でもトッドの考えている事は、ユダヤ人をドイツ人に入れ替えればナチと全く同じでしょう?
だからワタシはこうした欧米パヨク、自称弱者の味方には全く同調する事ができません。