・・・多文化主義を進める中で、逆にムスリム移民コミュニティの中にホスト社会に対する優越意識が強まり、敵対や憎悪を煽る傾向が強まって来たのである。他者に対する非寛容の主張も寛容に認め、他者の自由を否定する自由をも認めるのか、というジレンマをイギリスは抱えている。・・・・・
2005/8/15 池内恵「イギリスの多文化主義を揺るがす『寛容のジレンマ』」より。

このイギリスの多文化主義とは、イギリスが受け入れた移民達に対して、個人レベルでイギリス文化への同化を求めないばかりか、移民のコミューニティレベルでもその出身国の文化を継承し、イギリス国内に様々の文化を持ったコミュニティーの存在を認めると言うものです。
そしてこれはフランスやドイツなどと比べても、一段と進んだ寛容な移民の受け入れ策として評価されていました。
イギリスとすればこのように寛容な多文化政策を取る事で、移民達のコミュニティーが最終的にイギリスに統合されれば良いだろうと言う発想だったようです。
ワタシはイギリスの植民地政策を思い出しました。
日本は朝鮮や台湾で「皇民化政策」を行いましたが、イギリスはそのようなことは一切せずに、イギリスの支配権と経済的利益さへ守れれば、それ以上植民地の住民の信仰や文化には干渉しませんでした。
ワタシはこれは大変合理的な植民地政策だと思います。
なぜなら人間は他者から内面に干渉されれば、大変な不快感を感じて反発します。 しかしそういう干渉をしたところで、別に利益があるわけでもないのです。
だから余計な反発を招かずに、取れるものだけ取るには、これが合理的なのです。
それでイギリスは国内でもこのように対応したのではないでしょうか?

しかし結果は無残でした。
イスラム教徒のコミュニティーに、本国から追放された過激なイスラム原理主義者の説教師が入り込み、イギリス国内のイスラム教徒達にテロを扇動したのです。
そして起きたのが2005年7月のロンドン同時爆破事件です。
結局イギリスはこの事件で、それまでの多文化主義政策を変えて、イスラム過激派の活動家等を追放するようになるのです。

しかし元来はイギリスが自国の国益の為に出した多文化主義であるにせよ、イギリスの国内でイギリスの給与水準や社会福祉や人権を保障されてかつ、出身国の文化を維持できのなら、願ったり敵ったりではありませんか?
そもそも本国で追放されたような過激派の説教師が、イギリスで活動できるのは、イギリスが言論の自由や表現の自由を重視する民主主義国家だからです。
こうしたイギリス社会をムスリム移民は「良い社会」であり、守るべき価値のある社会とは思わないのでしょうか?
しかし思わなかったのです。
>多文化主義を進める中で、逆にムスリム移民コミュニティの中にホスト社会に対する優越意識が強まり、敵対や憎悪を煽る傾向が強まって来たのである。

ワタシはコメントでこの池内恵の文章を紹介して貰ってから、この文章の出ていた本(中東 危機の震源を読む)を読んでみました。
そして思ったのですが、ムスリム移民が「多文化主義を進める中で、逆にムスリム移民コミュニティの中にホスト社会に対する優越意識が強まり、敵対や憎悪を煽る傾向が強まって来たのである。」となるのは当然ではないかと思ってしまいました。
この本の中で池内恵氏はイスラム教とムスリムの宗教意識について詳しく解説しています。
しかしそれをによれば、イスラム教ではイスラム教こそが唯一絶対に正しい宗教であり、イスラム教徒であることはそれだけで非イスラム教徒に圧倒的に優越する事になっています。
そしてイスラム教徒は本来、非イスラムと戦いイスラム教を広めなけらばならない事になっています。
イスラム教徒にとって宗教の自由とは、イスラム教を信じる事であり、自分が好きに宗教を選べると言う話ではありません。 だから非イスラム教徒がイスラム教に改宗するのは、自由だけれど、その逆は死刑など極刑で処罰して当然と考えています。
このように自己に対して圧倒的な優越意識を持つ集団に対して、寛容なんてモノは意味がないのです。

寛容と言う言葉をウィキで調べると、その歴史的な意味が説明されています。
寛容とは宗教改革の頃に生まれた概念で、「異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為」とあるのですが、しかし「まず宗派間の対立感情が頂点に達する宗教戦争の時代には、寛容は信仰の弱さの表現として否定的に考えられた」こともあるのです。
そうであるならば、元来イスラム教の絶対優越を信じる人達を相手に、幾ら寛容な態度を取っても、彼等が「キリスト教徒側の信仰が弱さ故」としかとられないのは必定でしょう?
そしてムスリム側からすれば「自分達は信仰が強い故、異教徒に寛容であってはならない。」としか思わないでしょう。
そもそもイスラム教徒側からすれば、常に絶対に正しいのはイスラム教徒であり、間違っており劣っているのはイギリス社会なのです。
だからそのイギリス社会がイスラム教徒に幾ら福祉や自由を提供しても、それはイスラム教徒である故に得られる当然の権利であり、感謝するなどと言う事はあり得ないのです。

ワタシはこれを読んでいて「なんか日本の在日コリアン見たい」と思ってしまいました。
日本はイギリス式の多文化主義なんか取っていないのですが、しかし元来韓国人や朝鮮人が日本国籍を取得しないまま、世襲で永住許可を与え、生活保護その他の福祉も全て日本国民と同等に受けられると言う信じがたい程寛容な政策を取っています。
しかも彼等の多くが、朝鮮戦争前後に戦争や虐殺を逃れて不法入国したのです。
もし日本が彼等を強制送還していれば、本国で殺されているのです。
しかし彼等は日本が彼等を受け入れて、保護し続けた事について、日本政府に感謝した事はありません。 それどころか日本政府や自治体から恩恵受ければ受ける程、踏ん反り返って更なる利権を要求しているのです。
それは民潭や総連のHPを見たり、韓国の新聞を読めばわかりますが、彼等が元来、日本人に対して圧倒的な優越意識を持っていて、恒常的にそれを肥大させているからです。
だから日本人側からの寛容など、彼等にはその優越意識の証明にしかならないのです。
ワタシはこうした人々がホスト社会の良き一員になる事は永遠にないと思います。

ユダヤ人がその一例でしょう。
ユダヤ人が西欧社会に入り込んでから正確に何年経つがわかりません。 イタリアなどでは古代ローマ帝国時代からです。
ユダヤ人がローマ社会で揉める原因は、ユダヤ教から自分達を宗教意識を絶対視して、社会との妥協を拒否するからです。
ユダヤ教は戒律で食べ物始め、日常生活に事細かな禁忌事項を定めて、それを信者にはそれを守る事を要求します。 そして宗教を社会生活の全てに優先させるのです。
それをより神に選ばれた民の務めとするのです。
ユダヤ教は人類最初にできた一神教なのですが、一神教と言うのは他の宗教を否定する事により成り立つのです。
こういう宗教で育てられたら、異教徒と親しく交わる事などできなません。

同じ一神教でもキリスト教はもっと狡猾で、ローマ帝国を乗っ取りました。 そしてそれまでのローマ帝国に会った全ての宗教を破壊したのです。
それを考えると西欧諸国がムスリムを大量に受け入れた事は、今後極めて深刻な問題を起こすばかりではないかと思います。
そしてそのような事態を起こしたのは、実は受け入れ側の「寛容」と言う不寛容ではないかと思います。
日本でも欧米でも寛容を標榜して、多文化主義を煽ってきた人々は、イスラム教徒やその他彼等がマイノリティと分類する人々に対しては、無制限の寛容で臨み、こうしたマイノリティに対する一切の批判を封殺してきました。
しかしその一方移民の受け入れ制限を求める人々などをすべて「レイシスト」「差別主義者」と断定して、暴力や国家権力による言論封殺も辞さずと言う対応をしてきました。
そして自分達の寛容に疑念を持つ人々とは、一切の話し合いを拒否しています。
このような自分達と意見の異なる人々への不寛容な態度から、移民の受け入れが引き起こす深刻な問題への議論が不可能になってきたのです。
このような「寛容」を寛容と言えるのでしょうか?

>他者に対する非寛容の主張も寛容に認め、他者の自由を否定する自由をも認めるのか
それでは他者に寛容を強制する寛容が、寛容と言えるのでしょうか?
自分達の考える寛容を他者に強制する社会と言うのが、寛容な社会と言えるのでしょうか?
ワタシは結局多文化主義と寛容と言うのは、自分自身を善良さに自惚れた人々のグロテスクなセンチメンタリズムとしか思えないのです。