静岡県の40代の在日韓国人の男性が、勤務先の社長に日本での通名ではなく本名を使うよう強要され、精神的苦痛を受けたとして、社長に慰謝料330万円を求めた訴訟の判決が24日、静岡地裁であった。大久保正道裁判長は、社長に55万円を支払うよう命じた。社長側は控訴する方針。
判決によると、男性は日本で生まれ育った。通名を使用していたが、2012年11月と13年1月に勤務先で社長から「朝鮮名で名乗ったらどうだ」などと言われた。判決で大久保裁判長は、通名を使うことは男性のアイデンティティーの中核を成していると指摘。社長の発言について「著しく不快感を与えるもので、自己決定権及びプライバシー権を実質的に侵害する」と男性側の主張を認めた。
判決後、男性は「金額の問題ではなく、自分の主張が認められて満足している。自分は日本人だと思っているし、これからも通名を名乗っていきたい」と話した。

この話は裏の桜さんも取り上げていらっしゃいましたが、凄く気持ち悪いのでワタシもヤッパリ取り上げます。
何が気持ち悪いって「自分は日本人だと思っている」と言う原告の発言です。
しかし原告は日本人ではありません。 彼は韓国人です。 彼は在日三世で、家族は三代前から日本に居住しているのですが、しかし日本に帰化していないのですから韓国人です。

韓国人だから通名と本名があるのです。
日本人が会社で本名を使わないと言えば、人格や経歴を疑われて回顧されても仕方がありません。
正に彼が韓国人だからこそこのような問題が起きるのです。
それなのに彼は「自分は日本人だと思っている」と言うのです。
これは非常に気持ち悪いです。

もし配偶者でもない男が勝手に「自分は〇〇の夫だと思っている」なんて言ったら、〇〇さんはゾッとするでしょう?
しかもその男は〇〇さんに求婚したわけでもないのです。
これと同じです。
人が誰の配偶者であるかは、結婚で決まります。
同様に人がどの国の国民であるかは国籍できまります。
これは世界中どの国でも同じルールです。
それなのに「自分が勝手に日本人だと思うから、日本名を名乗るのは当然」こういう発想は日本人の想像を絶します。

人種や民族と違って国籍は変える事ができます。 簡単ではありませんが、しかしこの原告男性の場合は、犯罪歴でもない限り、一定の書類を提出するだけで帰化できるでしょう。
これは現在日本国籍取得を目指す多くの外国人にとって、大変羨ましい事なのです。
けれども彼は帰化もせずに「自分は日本人だと思う」と言い、本名を名乗る事を拒否しているのです。

こういうのを見ると「韓国人と言うのは絶対に日本人には成れない」と思ってしまいます。
だって祖父母の代から三世代も日本で暮らしているのに、日本のルールを理解できない!!
日本だけでなく世界中で通用している国籍についてのルールが理解できない!!
日本のルールにも世界のルールにも従う意思がない!!

彼が自身のアイデンティティをどのように定義しているのかは知りません。 韓国人としての自己の国籍をどう解釈しているのはわかりません。
しかしルールはルール、法は法です。
自分をどの国の国民であるかと言うような問題は自分個人だけの問題ではありません。 相手国と自分の国籍国にも関わる公的な問題なのです。
自分の思い込みや感情を優先するような事をされては困るのです。

日本社会ではマトモな人間は、公的な問題には自分の感情や思い込みよりも法やルールを優先する事になっています。
そしてこれこそは元来最も大切なルールなのです。
しかしこの在日韓国人の原告男性は、祖父母の代から三世代日本に暮らしてこのルールを理解できないのです。
これでは韓国人が日本人になる事は未来永劫不可能だと思ってしまいます。
そして日本人だけでなく、世界中どの国に行っても、その国の国民にはなれないだろうと思います。

ワタシは外国人の帰化には反対する気はありません。
日本を愛し、日本人になって我々元々の日本人と一緒に日本を守って行きたいと思う外国人が、帰化して日本人になってくれる事は嬉しい事だと思います。
勿論国籍を変えても民族やまして人種は変える事はできません。
しかし人種や民族が違って、その為一般的な日本人と考え方や感性に違いがあっても、それを無理に日本人に合わせる必要もないと思います。
だって純粋日本人にも「日本人離れした」と言われる人や、所謂変人(例ワタシ)もいますから。

人種や民族が違っても、日本の文化や歴史を愛し尊重し、日本のルールや法を守るなら、全然問題はないのです。
しかしこのこの原告の韓国人のように、最初から法もルールも無視して、自分の思い込みと都合を押し通すような国民性では、どうしようもありません。
法治国家、民主主義国家は全て国民が法を守り尊重する事で成立するのですから。

ちなみに以上ような事を言うと、自称リベラリスト達は「多様な価値観の存在を認めろ。」と喚くでしょう。
そうですね。
この世には我々日本人の想像を絶する価値感を持つ民族が存在するのです。
「法もルールも無視して自己中を押し通す事を恥じない」と言う、民主主義国家にとって非常に厄介な価値観を持つ民族が存在するのです。

「多様な価値観の存在を認める」と言うことは、まずその価値感を持つ集団が存在する事実を認める事です。
そしてそういう厄介な価値観を持つ人間達に、どう対応するかを真剣に考える必要があると言うことです。
こうした事実に言及したら「差別だ~~!!」と喚く事ではありません。
そうした民族が存在すると言う事実をネグレクトする事こそが、「多様な価値観の存在」をネグレクトする事ではありませんか?