このエントリーを故中川昭一さんに捧げます
塩野七生さんの「ローマ人の物語」に大変面白い事が書かれていました。
それは歴代皇帝達の評価が、古代ローマ時代当時の知識人や歴史家達によるものと、現代の研究とが非常に違っている事です。
例えばその典型がハドリアヌス帝です。 彼は生前非常な悪評を蒙り、彼が死んだ直後は元老院が「記録抹殺刑」を決議しようとしました。 この決議はそれを養子であり後継者とされたアントニウス帝の懇願で何とか回避されたので、彼の業績が後世に残りました。
ちなみに記録抹殺刑とは、その皇帝の公式記録を全て抹殺すると言う最悪の暴君に対する懲罰です。
しかしその後もハドリアヌス帝はカリギュラなどと同様、ローマ時代を代表する暴君としての評価を受け続けました。
これが一変したのが何と1700年後です。 ギボンが「ローマ帝国衰亡史」を書いて、その中でハドリアヌスの時代を「人類が最も幸福だった時代」と評価して、ハドリアヌスの業績を絶賛したのです。
ハドリアヌス帝は帝位に付いてからその晩年に健康を害するまで、殆どの間ローマ帝国の辺境の視察を続け、ローマにとって最大の問題であった、国防体制の整備に努めました。
この間ローマの内政は優れた補佐官に任せてあり、ローマの経済と治安と国防は最高レベルで推移しました。
そして死後二人の優秀な後継者を指名しました。
前出のアントニウス・ピウス帝とマルクス・アウレリウス・アントニウス帝です。 この二人は生前から最高の名君として絶賛されていました。
ハドリアヌス個人は謙虚で勤勉で、非常に優れた教養人でした。
ではいったい何が悪くて、生前に大暴君と評価されたのでしょうか?
一つは彼が後継者を指名するに当たって、自分の血縁のある人間二人を処刑した事です。 でもこの二人がいるとアントニウス・ピウス帝やマルクス・アウレリウス・アントニウス帝を後継者に指名できなかったのです。
後は彼がホモで美少年を愛し、妻とは殆ど没交渉だったことでしょう。
さらに晩年に非常に無愛想になって、民衆へのリップサービスの類を全くしなかったことでしょう。
要するに現実の政治的業績とは、全然関係の無い事でこの暴君にされたのです。
現代のローマ史研究者達の間では常識なのですが、ローマ時代の皇帝の評価は、その政治的業績は殆ど関係がないというのです。
ローマの皇帝を評価して、それを記録したのはローマ在住の知識人達でした。 それは元老院階級の人々です。
だからローマ市内の民衆と、元老院に嫌われた皇帝は暴君、好かれた皇帝が名君になりました。
そこで個人的な家庭不和など個人的なスキャンダルが致命的になります。
また元老院へのサービスをしないといけません。
ハドリアヌスは両方落第でした。 何しろローマ市内にいる事は殆ど無かったのですから、仕方ありません。
近代以前のローマ史家は、古代ローマの知識人の残した文献を読むだけだったので、古代の知識人の評価をそのまま受け継いでいました。
でも近代以降研究方法が変わり、各地に残された碑文や遺跡を詳しく分析し、経済や国防や治安状況を知ることができるようになりました。 すると古代から続いた皇帝達の評価が大きく変わったのです。
ギボンによるハドリアヌス帝の評価は、その嚆矢でした。
古代の人々の皇帝評価法はある程度仕方が無いかも知れません。 元老院は自分達の地位と利権が大事だし、民衆はハドリアヌス帝が辺境で何をしているかなんか知る方法がありませんでした。
でも結局今のマスゴミが古代ローマの民衆と同じレベルで、政治家や官僚を評価しているのには驚きます。 些細な個人スキャンダルを業績よりも遥かに重要視しているのです。
古代の民衆と違って世界中からデーターや情報を瞬時に見る事のできる時代なのに。
http://www.youtube.com/watch?v=EPXeYFgWzZY&feature=player_embedded
中川昭一さんの無念が偲ばれます。 ご冥福をお祈りします。