我が尊敬するアムゼル君が、アウグスブルグを訪問されて、その街並みをブログにアップされました。 その美しい写真を見て、ワタシもアウグスブルグに行った時のことの事を思い出しました。
ワタシは2002年初夏、ヨーロッパを貧乏旅行したとき、アウグスブルグへ行きました。 街へ着いたのはもう黄昏時で、駅で観光案内のパンフレットを貰い、それを見てホテルを探しました。 すると日本語の案内のあるホテルがありました。 値段もワタシの懐にピッタリです。
ワタシはそのホテルに泊まりました。
翌朝、朝食を食べていると、ホテルの主人が携帯電話を持って来ました。 そして日本語で言いました。
「奥さんが話しをしたいと言ってる。」
なんだか訳のわからないままその携帯を取ると、日本人の女性が出て言います。
「何かご不自由はありませんか? お部屋は変えなくて良いですか?」
大変驚きました。 こんなに親切な扱いは初めてです。 しかしまたなんとも言いようも無いほど暗い声でした。
ともかく不自由もしていないし、お部屋も安くて結構なので、お礼だけ言って電話を切りました。
その日街を一回りして、昼過ぎ一旦ホテルに戻ると、ホテルの主人が暇そうにしていたので、なんとなく雑談になりました。 つまりワタシは下手な英語と、滅茶苦茶のドイツ語と、上手な日本語で話し、主人は上手な英語と、下手な日本語と、流暢なドイツ語で話したのです。
彼は昔日本で働いた事があり、その時に知り合った日本女性と結婚しました。 そしてドイツに帰って親のホテルを継ぎました。 子供も2人できました。
しかし奥さんはなかなかドイツ語を覚えられず、周りになじめずノイローゼ気味だと言うのです。
「妻が、あなたぐらいドイツ語ができるといいんだけど」
「??????」 もう絶句ました。
そしてワタシが北海道から来たと知ると「北海道は地価が安くて住み易いと聞いたけど、仕事はあるだろうか?」と聞かれました。
この人が本気で北海道へ移住する気とも思えませんが、ドイツに適応できず精神真っ暗に沈没状態の妻を抱えて、非常に困っているようでした。
そもそも奥さんが朝ワタシに電話をくれたのも、とにかく日本語で話しをしたかったからのようです。
アウグスブルグはヤーコプ・フッガーの街です。 街並みの基本はこの時代に作られました。 フッガー銀行も当時の建物で今も営業を続けています。
第二次大戦で破壊されましたが、徹底的に修復しました。 だから市役所の黄金のホールなんかホントにキンキラキンの新装開店状態です。
しかし何と言うか堅苦しい、野暮臭い街です。 「こんなところで暮らすのはしんどそうだなあ」と思いました。 いかにも勤勉な商人の街、金貸しの街であることが感じられるのです。
ワタシはインスブルックを思い出しました。 あのインスブルックの伸び伸びと明るく楽しい街並みとは非常に対照的でした。
アウグスブルグがヤーコプ・フッガーの街なら、インスブルックはマクシミリアンの街です。
神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン一世は、ハプスブルグ家興隆の基礎を作りました。 しかし浪費家で「空財布のマックス」とも言わました。
その政策に莫大な金を使いましたが、それだけでなく君主として華麗な生活を好みました。 そのおかげでアルフレート・デューラーやハンス・ホルバインなどドイツルネサンスの巨匠達も育ったのです。
そのために必要な資金を融通したのが、ヤーコプ・フッガーでした。 フッガーだって勿論もうけました。
そしてフッガー銀行とハプスブルグ家の関係はその後も続き、フッガー銀行はからの融資は増え続けます。
しかし16世紀後半にハプスブルグ家は遂にデフォルトに陥ります。 さらに新大陸から流れ込んだ大量の金と銀によるインフレーションにより、フッガー銀行の栄光は終わりました。
借金をして踏み倒した方の街は明るく伸び伸びとして、踏み倒された方の街が野暮臭く堅苦しいのは、ワタシのようなドケチな小心者には切ない話です。
そしてせっかくハンサムなドイツ人青年と結婚したのに、街に馴染めず、だからきっとドイツ語も覚えられない女性の気持ちがさらに切なく思われます。
あれから彼女はどうしているのでしょうか? ドイツ語は覚えたのでしょうか?
*写真は勿論アムゼル君の所から借りました。 当然ですが、素晴らしい写真です。
http://amselchen.exblog.jp/11616117/