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2008-01-31 21:16

蛙の王様

 蛙の王様 イソップ童話

 
昔々大きな沼がありました。 そこには沢山の蛙達が住んでいました。
ある時蛙達は神々の王ゼウスに「自分達の王様が欲しい」と頼みました。
ゼウスは驚いて言いました。
「お前達はこの沼で、自由に幸福に暮している、なんで王様が必要なんだ?」
でも蛙達は言いました。
王様を下さい。 そうすればこんな惨めな暮らしをしなくて済みます。」
そこでゼウスは沼に大きな丸太を投げ込んでやりました。
 蛙達は王様が来たと思って、大喜びしました。 でもすぐに丸太は話もせず、動きもしない事に気づきました。 そして怒り出しました。 それからまたゼウスに「王様を下さい」としつこく頼み続けました。
 それでゼウスは今度はコウノトリを送り込みました。 大きな美しい鳥を見て、蛙達は大喜びしました。 けれどコウノトリは直に蛙達に襲い掛かり、次々と食べてしまいました。

             


 私はこの童話を子供頃読みました。 でも全く意味がわかりませんでした。 だから妙に気になって鮮明に覚えていました。
 意味が解ったのは最近です。 小泉訪朝以来、北朝鮮の状況がマスコミで話題になって、ようやく王様を欲しがる蛙が、本当にこの世にいる事を知りました。

 イソップの生きた頃アテネは南北戦争前のアメリカと同様奴隷制民主主義の国でした。 イソップは奴隷でした。
 しかしアテネの共和制は不安定で、繰り返し僭主制と民主制の間を揺れ続けました。 もっともアテネだけでなく、当時のギリシャの都市国家はみんな同様のトラブルを繰り返しながら、他都市との抗争を続けていました。
 そのような世界に生きて、自ら自由を放り出してしまう人々を、イソップは多数見たのでしょうね。 誰もが持っている訳でもない自由を。

 「自由」と言う言葉は、現在では曖昧で好き放題に使われ、或いは哲学的で意味深長な言葉ですが、イソップの時代は非常に簡単明瞭でした。 つまり「奴隷でなければ自由」です。 奴隷は「モノを言う道具」「槍先で捕らえられた者」(戦争捕虜)で、完全に人格を否定されています。 だから人格を持つ事が自由である事です。

 しかし自由である事は責務を伴います。 なにしろ当時は戦争をして負けたら、「槍先で捕らえられ」て、奴隷になってしまいます。 だから自由な市民は、何よりもまず国の為に闘う義務がありました。
 そもそも市民とは国の為に闘う人々の事です。 だから参政権があるのです。
 「自分の命を掛けて国家の為に闘う人にのみ、国家の運命を決める権利がある。」と言うのは、古代から近代までの民主主義の基本原理です。
 だから現代日本の「シミン団体」「シミン運動」を見ると、いつも実に奇妙な気がします。

 
 ところでローマ人はまた奴隷をこう定義しました。 奴隷とは「自分の運命を決める権利を持たない者」です。
 しかし「自分の運命を決める権利」と言っても、所詮人間です。 事故や病気や災難を避ける事はできません。 それに富や権力や名声を好きなだけ得られる訳でもありません。
 「自分の運命を決める」と言うのは、「自分に与えられた選択肢の中から、自分の判断でどれかを選べる」というだけです。
 そして自由人がそれを選んだ以上、その選択に責任を持たねばなりませんでした。
 いかに貧しく弱い人間でも、自由人、市民であれば、その乏しい選択肢の中の選択に責任があるのです。 その責任を果たす人だけが、人間の尊厳を持つ権利があるのです。
 これは大変厳しい世界です。

 しかし私はこのこの古代ギリシャやローマの「自由と民主主義」こそが、本来の「自由と民主主義」だと思っています。
 奴隷制民主主義は極めて残忍で苛酷ですが、残忍であり苛酷であるが故に、自由とそれを護る意味が限りなく明瞭だからです。
 そしてこの厳しさを理解できなければ、蛙になってしまうと思っています。

             
 
           そうか~!!

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コメント

No title

Photo Shop Artistよもぎねこさん,

おみごと!
  1. 2008-02-01 00:24
  2. URL
  3. 丸山光三 #79D/WHSg
  4. 編集

No title

to マルコおいちゃん様

ありがとうがざいます。 お褒めにあずかって光栄です。

自分の痴性と教妖のレベルを無視して書いたので心配でした。
  1. 2008-02-01 09:08
  2. URL
  3. よもぎねこ #79D/WHSg
  4. 編集

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