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2011-11-27 20:15

ワタシの祖父の事

 ケストナーの児童書「私が子供だった頃」に貧しい家庭に生まれた両親が、共に小学校を出ただけで働きに出る記述があります。

 

 ワタシがこの本に惹かれるのは、ワタシの祖父母も父方も母方も、やはり貧しい農家で生まれて、やはり小学校を出ただけで社会に出たからです。

 

 ワタシの母方の祖父は、明治の半ば讃岐平野の農家に生まれました。 10人兄弟の末っ子でした。

 だから当時の子供して普通に、尋常小学校を卒業した12歳で、神戸に丁稚奉公に出ました。

 

 初めて神戸に出たとき奉公先の人が神戸駅に迎えにきてくれたのですが、お互いに顔がわからないので、胸に目印のリボンをつけていたそうです。

 

 そうやって奉公した先は、麦稈真田を扱う貿易商でした。

 

  

 

 麦稈真田ってご存知ですか?

 

 麦稈真田と言うのは、麦わら帽子の材料です。

 

 麦わら帽子を良く見ると、細い麦わらの組紐を延々と渦巻き状に縫い合わせて作られているのがわかります。

 この細い麦わらの組紐が麦稈真田です。

 

 この麦わらの組紐は、人間が手で乾燥した麦の茎を編んで作ります。 当然の事ですが、大変手間のかかる作業です。  

 

 この麦稈真田を当時の日本は大量に欧米に輸出していました。 生糸ほどではありませんでしたが、当時の日本にとって重要な輸出品でした。

 

 この麦稈真田の産地は、小麦を米の裏作に作っていた瀬戸内海沿岸で、祖父の生まれた讃岐平野でも沢山作られました。

 

 裏作に作った小麦の麦わらを乾燥して、それを組紐に編むのは、農家の副業や或は組子と言われる女工さんの仕事でした。

 勿論超低賃金労働です。

 

 この低賃金故、日本製の麦稈真田は、それまで主要産地だったトスカーナに勝ったのです。

 

 祖父はこの縁で麦稈真田の貿易商に奉公に出たのです。

 当時神戸にはこのような麦稈真田専門の貿易商が結構あったようです。 また多くの貿易商がこれを扱いました。

 

  

 

 真面目に丁稚奉公を終えて、暖簾分けをしてもらった祖父は、独立して麦稈真田を扱う貿易商になります。 

 

 当時の神戸にはこんな中小の貿易商が多数ありました。

 その中にはたちまちのうちに隆盛して、三井、住友と肩を並べるようになった鈴木商店のような所もありました。

 

 けれど勿論祖父にはそんな才覚はありませんでした。

 祖父は律儀に真面目に働き、後に麦稈真田の知識につては「生き字引」との評判を得る程でした。 けれどそれだけでは成功できませんでした。

 

 なぜならこの商売は結構リスキーで投機的な面が強いのです。 まず商品の麦稈真田の価格が非常に不安定でした。

 品質の良い麦稈ができるかどうかが、大きく天候に左右されたからです。

 また帽子の材料と言うことで、欧米の流行にも左右されました。

 

 祖父にはその中で生き延びるのに必要な、相場師のような度胸や先見性がなかったのです。

 

 母によると、祖父はこの仕事をしている間に、3回ぐらい夜逃げしたそうです。

 

 あるときは家族も置いて一人で夜逃げした祖父に、その債権者と同業者たちが「金の事は心配しないで帰れ」との新聞広告を出してくれたので、涙を流して帰った事もあるそうです。

 

  

 

 それでも祖父はこの商売で、母を頭に5人の子供を何とか養っていました。

 

 これを全部吹き飛ばしたのが、太平洋戦争です。

 

 1941年12月11日、突然祖父の商売は全滅しました。 真珠湾攻撃で輸出先のアメリカやヨーロッパ諸国とは戦争になったのです。

 これでもう欧米への麦稈真田の輸出が出来ないのは勿論、それまでの売掛金の回収もできなくなったのです。

 

 その時、5人の子供のうちで、働いていたのは母一人です。 後はまだ学生で、末っ子の叔父に至ってはまだ乳児でした。

 

 戦時中祖父がどうやって家族の生活費を稼いでいたか、母は全然わからないと言います。

 

 それでも何とか祖父は家族を養い続けたようです。

 

  

 

 戦争が終わって間もなく祖父は商売を替えます。 知人に勧められて、時計ガラスの修理を始めたのです。 そしてそれが戦後の祖父一家の稼業になりました。

 

 中年過ぎてから完全に違う商売への転業は大変だったと思いますが、しかし地道に仕事をすれば日銭が入る仕事のほうが祖父には向いていたのかも知れません。

 

 或は本来小学校を出た時から、このような仕事を選ぶべきだったのかも知れません。

 

 ともかくこの仕事は叔父に引き継がれ、さらに叔父が引退した今は従弟が継いでいます。

 

  

 

 しかし商売を変えてからも、祖父は麦稈真田への愛着を持ち続けたようです。 そして貿易商を続ける嘗ての同業者達とも交際を続けました。

 

 だから昭和30年代になっても、祖父の所にはいつも麦稈真田の商品見本や麦わら帽子が沢山転がっていました。

 

 けれどその頃になると、この人権費の上がった日本では超労働集約型産業は、成り立たなくなりつつありました。

 

 麦稈真田の組子作業は台湾に移ります。

 

 そして嘗て麦稈真田を扱った貿易商は、今度は他の雑貨を扱うようになったようです。 

 それは陶器の小さな人形や、玩具、クリスマスオーナメントような物です。

 

 お蔭で祖父の所には、そうした雑貨の商品見本も沢山ありました。

 

  

 

 ワタシは祖父にこの商品見本の クリスマスオーナメントを沢山貰って、大喜びした覚えがあります。

 今は中国製ばかりのクリスマスオーナメントですが、当時は日本が低賃金を生かして、輸出していたのです。

 

 祖父は最晩年になって、麦稈真田の資料を集めていました。 麦稈真田の記録が次第に消えていくので、自分が資料を集めて置きたいと思ったようです。

 

 それから間もなく祖父は死にました。 90近い高齢だったので、天寿を全うしたと言えます。

 

 祖父の集めた資料がどうなったかわかりません。 

 祖父が死んだ後に阪神淡路大震災が起きて、祖父の家もかなり損害を受けましたから、資料の始末までは手が回らなかったのではないかと思います。

 

 その資料にどの程度の価値があったのかはわかりません。 けれども祖父が余り稼げなかった仕事を最後まで愛していたことの証拠として貴重だと思いました。

  1. 個人的体験から
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コメント

No title

金沢のヒノキ傘を思い出しました。同じようにして作るのを見た事が在ります。
  1. 2011-11-27 21:52
  2. URL
  3. 無才 #79D/WHSg
  4. 編集

No title

To 無才さん
>金沢のヒノキ傘を思い出しました。同じようにして作るのを見た事が在ります。

 麦稈真田は帽子にする前の細い組紐なので、檜傘とは大分違います。
 しかし手仕事で作る点は同じですが。
  1. 2011-11-27 21:58
  2. URL
  3. よもぎねこ♪ #79D/WHSg
  4. 編集

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