「イスラム2.0」というのは、つまりイスラム世界が2.0、つまりこれまでとは違うステージに入ったという事です。
それではその2.0というのは、どういうステージで、それまでのステージ1.0とはどう違うのでしょうか?
まずイスラム1.0ですが、これは簡単に言うとインターネット普及以前のイスラム世界です。
しかし飯山陽氏はそれがインターネットの普及で、大きく変わり、イスラム2.0と言われるステージに入ったというのです。
それではなぜインターネットの普及でイスラム世界が変わったのでしょうか?
そもそもそれまでのイスラム世界とはどのような物だったのでしょうか?
元来イスラム教の聖典コーランはアラビア語で書かれており、それを翻訳することは教理上禁じられていました。
しかしイスラム教ではコーランは神の言葉ですから、信者はこのコーランに書かれている事には、絶対服従しなければならないのです。
「イスラム」とは服従という意味で、イスラム教では人間は神の奴隷なのです。
尤もコーラン自体は比較的短く簡単な内容なので、社会生活のすべてについて細かく規定するような事までを盛り込んであるわけではありません。
そこでそれを補足す形でイスラム法というのがあります。
このように聖典とその聖典に従って国家社会を運営するための法までが、きっちりと制定されているのがイスラム教なのです。
これはまるで現代の立憲民主主義国家の法治主義みたいなのですが、しかし民主主義国家の法治主義と違うのは、コーランは勿論、イスラム法も神が定めた物とされるので、人間が勝手に変える事はできないのです。
人間ができるのはその法解釈だけなのです。
こういう事になったのは、教祖ムハンマドという人が、単なる宗教家ではなく軍人・政治家としても卓抜した能力を持ち、軍隊を作り、自分の教えに従わない人々に対して征服戦争、つまりジハードを行って勝利し、自分が支配する国家を作る事に成功したからです。
そして彼はその征服戦争と支配の過程で、自分の軍隊や国家を支配するための法を制定していったのです。
さらに彼の死後も、彼の後継者達はこのジハードを続けてイスラム国家を拡大し、広大なサラセン帝国を築きました。
当然ですがこのサラセン帝国もコーランとイスラム法によって支配されていました。
こういう征服と支配の実績の中で、イスラム法の体系が完全に整備されていったのです。
だからコーランやイスラム法というのは、単なる宗教上の戒律や、宗教の教理というより、現実の社会を支配する法としても十分な内容だったのです。
逆に言えば、だからこそイスラム教徒はイスラム法やコーランに厳密に従わなければならないわけです。
こうなるとホントに現代の民主主義国家の法治主義と似てますね。
但し違うのは神の定めた物なので、絶対人間にはこれを変える事ができない事だけです。
そして現実の人間社会を法で統治するのですから、現代の民主主義国家の法同様内容は膨大になり、専門家でなければ全部を理解する事はできません。
そこでイスラム法を専門に扱うイスラム法学者という人たちが必要になります。
そしてサラセン帝国崩壊後も、イスラム諸国では彼等は現代日本の内閣法制局みたいに、世俗君主の政策や法令がイスラム法に適法か否かをコンサルしたり、一般庶民のももめ事の法的解決の相談に乗ったりしてきたのです。
しかし前記のようにコーランはアラビア語で書かれて、他言語への翻訳は教理上許されません。
その上膨大なイスラム法体系とセットなのでは、一般人が理解するのは容易ではないのです。
しかもアラビア語は大変難しい言語で、例えば日本の外務省の語学留学でも、他の言語は4年なのにアラビア語は5年だというほどです。
これだとインドネシアとかケニアなど、非アラビア語圏の一般イスラム教徒にとって、コーランの内容を学ぶ事は殆ど不可能でした。
ましてイスラム法の膨大な体系なんか、手も足も出ない状態でした。
だからこうしたアラビア語圏から遠く離れた地域のイスラム教徒にとっては、イスラム教というのは、お祈りとかラマダンとか、一定の形式だけは守るけれど、それ以上の教理は考えもしないという感覚の人が大多数だったようです。
そしてそうした形式も、地域によって適当に現地化というか、現地に元々あった習慣や宗教と融合して、適当に変えられていたりしました。
でも元来イスラム教にはローマ法王のような権威者は存在しないので、アフリカや東南アジアのイスラム教徒が何をやっていても、別に問題にもならなったようです。
サラセン帝国滅亡後、そういう時代がずう・・・・つと続いたのです。
これがつまりイスラム1.0です。
それが激変し始めたのは、インターネットの普及からです。
実は70年代以降、イスラム圏の教育レベルはどんどん上がりました。 だから現在ではスマホだって普及しています。
そのような状況でコーランやイスラム法などを解説するサイトがドンドン作られるようになりました。
コーランの他言語訳は禁じられていても、内容を非アラビア語で解説するのは構わないし、イスラム法の訳文や解説もドンドン出てくるのです。
だから自分が気になっている事がイスラム法で合法か?違法か?を調べるのも簡単で、関連する単語で検索すると、いろいろなイスラム法学者の見解が一発で出てくるという状態になりました。
こうなると一般イスラム教徒にとって高い高い雲の上にあったコーランやイスラム法が一気に身近になってきました。
そしてそうやって身近になった教えであれば、それをそのまま実践しようという人たちが大量に出てきたのです。
しかしそれは大変恐ろしい事です。
なぜなら前記のようにコーランもイスラム法も、ムハンマドが自分の教えに従わず抵抗する人々を、武力征服して、イスラム国家を作る過程で生まれた物です。
しかもそれは7世紀初頭の話です。
こんな時代の宗教戦争中の規定を現代社会にそのまま実践したら?
それがイスラム国とかボコハラムとか、所謂イスラム原理主義の言動になってしまうのです。
イスラム教は唯一絶対の神の教えで、これ以外の宗教は間違っているのだから、イスラム教徒はこの教えを世界中に広げる為に戦う義務がある、
そしてムハンマドが作ったようなイスラム教による国家を作り、イスラム法による支配を実現しなければならない。
異教徒はイスラム教徒の支配に従わなければならない。
従うなら一定の生存権は認めるが、反抗するなら殺さなければならない。
この戦いの過程で、敵の捕虜を奴隷にするのはイスラム兵士の当然の権利である。
例えばボコハラムやイスラム国が支配地の女性を奴隷として売買したというのは、欧米でも日本でもすごくショッキングな事として報道されたのですが、しかしこれってイスラム法で規定されている兵士の権利なんですね。
だってこの規定ができたのは7世紀初頭なのだし、この時代は世界中どこでも似たような事をやっていましたから、別にムハンマドのジハードだけが格別野蛮な事をやっていたわけではないのです。
むしろムハンマドとしては当時の一般社会の風習を尊重して、明文化したことで自分の軍隊の士気と規律を維持しようとしただけでしょう?
しかし21世紀のインターネットの技術と、7世紀の法が結びつく事で、まったく時代錯誤で、しかも非常に暴力的で凶悪な行動をする人間達が生まれてしまったのです。
これには実はイスラム諸国の多くの人々も困っているのです。
こんな事を実践したら海外から観光客を受け入れる事も、非イスラムの国々とビジネスをすることもできなくなってしまいますから、自分達の生活が破綻してしまいます。
そして独立以降、頑張って近代化してきた国家の基盤も崩壊してしまいます。
だからイスラム諸国の国家の指導者達は、こうしたイスラム原理主義者を容赦なく弾圧したりしています。
しかし問題は彼等がいかに暴力的で凶悪で、国家秩序を脅かす存在であろうとも、彼等の言動をイスラム教の教理上否定できない事です。
エジプトなどイスラム文明の中心地だった国には、伝統的に高い権威をもつイスラム法学者が沢山います
こうした人々は伝統的に権威を維持してきたが故に、極めて現実感覚も優れていて、時の政治権力ともうまくやってきました。
だって何百年もの間、内閣法制局から弁護士や裁判官まで請け負っていたのですから、そりゃそういう地位を与えてくれる社会そのものを壊したいわけもないのです。
だから彼等としてもこの原理主義者達は困り者なのですが、しかしイスラム法をどう解釈しても、イスラム原理主義者達のやっている事を「違法」とすることも、「異端」とする事もできないのです。
それどころかイスラム法やコーランを厳密に解釈すればするほど、イスラム原理主義者の方が、彼等現実に妥協している法学者より遥かに敬虔で純粋なイスラム教徒という事になってしまいます。
だって現代人から見て幾ら暴力的で狂信的で凶悪な事でも、それ実際にムハンマドが言った事なんだから、やるのが正しいイスラム教徒なのです。
そしてイスラム法学者達が色々理屈をこねて、その権威でこの件をごまかそうとしても、ネットを見ると誰もそのごまかしが検証できるのです。
これではイスラム法学者の権威もガタ落ちです。
元来イスラム原理主義の台頭というのは、腐敗や貧富の差の拡大、失業などといった政権への不満が背景にあるのです。
人々が貧困や失業に苦しむのは、信仰を忘れて不販堕落して物質的な快楽に耽溺する人間達のせいだ。
彼等が貧しい人々を搾取し苦しめているのだ。
だからこうした不信人者共を一掃して、ムハンマドの時代に戻さなければならない。
こうした背景があるから多くの人が、ネットでイスラム教のサイトを検索し、それを見る事で実に簡単に過激化し行くのです。
そしてこういうイスラム原理主義の台頭は、殆どのイスラム諸国で起きていることで、どの国も政権もこれを無視できない状態になっています。
インドネシアとかブルネイとか、元来至って穏健と言われた国々でも、同性愛者の鞭打ちとかトンデモな事をやり始めましたし・・・・・。
政権側も一部のマイノリティを犠牲にしても、原理主義化し狂信化するイスラム教徒に阿らないと政権維持ができない、あるいは適当に彼等のガス抜きをしないと、どうにもならない状態なのでしょう。
本当に厄介な事になってきました。
このイスラム2.0の時代はいつまで続くのでしょうか?
ワタシは以前、飯山陽さんの「
イスラム教の論理」を読んだ時は、イスラム教の台頭は本当に厄介な問題で今後の人類の厄災になるのではないかと思いました。
このままだと西野神社や北海道神宮を守る為には、イスラム教徒と戦う羽目になるのではないかと思ったのです。
しかし今回は一通り読んだ後「この厄災はしかしそう長続きしないのでは?」と思うようになりました。
なぜならこういう狂信にいつまでもどこまでもついていける人って、限られているのではないかと思うのです。
元来非常に敬虔で純真な人が、それ故に社会の不条理に怒りを溜めている時に、インターネットを通じて自分自身で直接、イスラム教の教えを確認して、それまで持っていた疑問をすべて解決できるようになればそれだけでも感動するでしょう。
しかもそれは権力に阿るイスラム法学者達のいう事をすべて覆すような物であれば猶更でしょう。
そこで彼はイスラム原理主義に傾倒し、その教えをひたすら厳格に守るようになる・・・・というところまではわかります。
でもこれいつまで続けられますか?
例えば現在イスラム原理主義の台頭で、セックスに対しては非常な禁欲主義が広がっています。
元来イスラム社会が厳しい女性隔離があったのですが、それがイスラム原理主義の台頭でドンドン厳しくなっているのです。
でも男女隔離の厳しいところは、普通は同性愛に寛容です。 だからイスラム社会も近年までは同性愛には呆れるほど寛容でした。
ところがイスラム原理主義の台頭で、同性愛も厳しく取り締まり始めたのです。 同性愛ってイスラム法上では違法なんですね。
因みに売春等も完全に違法です。
でもこれだと結婚できない人は、完全禁欲を強いられる事になります。
一方、一夫多妻や畜妾は認められているのですから、イスラム原理主義団体の幹部などは複数の妻や妾を抱えているのです。
複数の妻や妾を抱えている奴から「お前は未婚だからセックスするな!! 女の顔も見るな!!」なんて言われ続けて、いつまで我慢できるのでしょうか?
そしてもっと高尚な面から言うと、イスラム教がネットにより普及したのは、イスラム教の教理がコーランやイスラム法という形で、非常に明確に明文化されていたので、ネットとの相性が非常に良かったからです。
しかしこれは教理の持つ矛盾や問題点を、検証しやすいという事でもあります。
彼女はそれでイスラム教徒たちから命を狙われているのですが、しかしコーランやイスラム法を熟知したら熟知したが故に、その教えを根源的に否定するという人は他にもドンドン出てくるでしょう。
イスラム教は教理が明文化されていて、しかもそれに絶対服従しなければならない宗教なので、教理に一部でも疑念が出てくると、信仰そのものを全否定せざるを得ないのです。
ところがインターネットを通じてその教理への理解が広がった事は、こうした信仰の否定への扉を開けてしまった事でもあるのです。
そして現在起きているのが、武漢ウィルスのパンデミックです。
イスラム諸国でも感染爆発が起きています。
しかもその感染爆発の引き金になったのは、集団礼拝でした。
集団礼拝はイスラム教徒にとって最も重要な宗教儀礼です。
しかしそれで救われるどころか、武漢ウィルスに感染して人がバタバタと死ぬような事態になってしまった・・・・・。
これは一体どういう事か?
アッラーはその教えを守る我々の命を奪うのか?
しかし現実の感染爆発を前に、イランのようなイスラム原理主義国家さえ、集団礼拝を禁じざるを得ない状況です。
自然科学と教理の対立は、キリスト教でもその信仰を揺るがせた大きな要因ですが、しかしこれが現在イスラム世界では天体の運行だの天地創造だのという抽象論ではなく、自分達の命に係わる問題で起きてしまったのです。
ワタシはこのパンデミック以降、イスラム3.0への移行が始まるではないかとも思ってしまいます。