エウリピデスの「トロイアの女達」は、トロイア陥落後の女達の運命を描いたもので、ギリシャ悲劇の最高傑作の一つです。
この「トロイアの女達」が上演されたのはアテネによるメロス島陥落の翌年でした。
メロス島はエーゲ海のほぼ真ん中に浮かぶ小島で、人口も少なく、経済力もない小国でしたが、
デロス同盟にもペロポネソス同盟にも加盟せずに中立を維持していました。
ペロポネソス戦争勃発後10年程たったころ、アテネは突然このメロス島にデロス同盟加入迫り、メロス島が拒否すると攻撃したのです。
小国メロス島は必死に抵抗しましたが、しかし大国アテネにかなうわけもなく、ほどなく陥落しました。
するとアテネはメロス島の男は全部殺し、女子供は全員奴隷にして売り払いました。
このような敗戦国処理は神話のころから古代ギリシャでは行われていました。
しかしペロポネソス戦争が始まるはるか前から、もうこのように残酷で野蛮な敗戦国処理は、むしろ例外的になっていました。
ところがアテネは敢えてこれをやってしまったのです。
でも何のためにそこまで惨い事をする必要があるのか?
そもそも何の為にメロス島を攻撃したのか?
結局、これはペロポネソス戦争が膠着していることへの不満を、そらす為だけの無意味な蛮行ではないのか?
アテネ市民の中にも、こうした疑念を持つ人々が沢山いたのです。
そしてその疑念をそのまま表現したのが、当にこのエウリピデスの悲劇「トロイアの女達」でした。
トロイア王プリモアスの王妃を中心に、トロイアの女達が訴える苦悩と絶望の声は、そのままメロス島の女達の声として、観客であるアテネ市民達に届いたでしょう。
この悲劇が初めて上演されたのは、このメロス島陥落の翌年のディオニソス祭での悲劇コンクールだったのです。
アテネではこれに先立つ100年程前から、毎年ディオニソス祭と言う祭礼を催していました。 ディオニソス祭は農業神であり、また葡萄酒の神でもあるディオニソスを寿ぐ祭です。
ギリシャの祭礼では、多くの場合スポーツ競技を奉納しました。 一番有名なのはオリンピアの神殿で行われるオリンピックですが、このほかにも同様にスポーツ競技を奉納する祭礼が沢山あったのです。
しかしディオニソス祭では、スポーツではなく演劇や音楽や詩の朗誦などの芸術のコンクールが奉納されたのです。
ところで演劇の上演には、当時でも現代同様、随分と経費が掛かりました。 この経費はアテネ政府が負担しました。 実質的にはアテネ政府の命令で富裕層が上演経費の負担を割り当てられるのですが、いずれにせよ政府の後援による上演なのです。
こうして上演された「トロイアの女達」はこのコンクールで悲劇部門の二等賞を受賞しました。
審査をするのは一般市民ですから、この結果を見ると、多くの市民がこの悲劇を受け入れたと考えるべきでしょうか?
それとも現代にまで残るこのギリシャ悲劇の最高傑作の一つが、二等賞で終わったのは、この悲劇が自国を非難していると感じて不快感を感じたとみるべきでしょうか?
いずれにせよアテネでは政府の経費で、政府の主催する演劇祭で、このように政府の政策を真っ向から非難するような演劇が上演されていたのです。
これだけでも驚きですが、しかしこれが喜劇となるともっと強烈です。
古代ギリシャきっての喜劇作家アリストパネスの作品の殆どは、ペロポネソス戦争中に制作、上演されています。
アリストパネスと言う人は、元々ペロポネソス戦争は勿論、アテネの民主制そのものに懐疑的な人で、開戦直後から「アカルナイの人々」のような、この戦争と政府への批判を明確にした作品を書いているのです。
そしてその後も「福の神」「女の平和」などこの戦争と、それを推進する人間たちの愚かを告発した作品を発表し続けました。
勿論これらもアテネ政府の後援で、ディオニソス祭で上演されたのです。
ところでこれが何で「強烈」かと言うと、これらの作品では、当時の政治家や有名人が実名で登場して、嘲笑されるのです。
だからギリシャ史の研究者から見ると、当時のアテネ市民の生活と、世論や政治家の人物評を知るには最高の資料です。
そして古代ギリシャ語が理解できて、当時のアテネの政治情勢に精通した人が読めば文字通り捧腹絶倒でしょう?
アリストパネスの喜劇はワタシが読んでも結構面白いのですが、それでもそこは喜劇ですから、多様されてる洒落など翻訳ではわからないし、また登場人物の素性は注釈を見るしかないので、面白さは半減しちゃうのです。
しかしそれにしても現役政治家を実名で登場させて嘲笑する演劇など、現代の日本や欧米先進国でも結構ヤバいと思うのですが、しかし当時は普通だったのです。
因みによもちゃんは以前「
平和を学ぶ世界の子供達」と言う戯曲を書いたのですが、これだって札幌市の施設で上演するとなると一悶着起きるのでは?
そしてこれを見ると、当時のアテネは戦時中でも、完璧に言論の自由が保障されていたのがわかります。
それではここまで見事に保障された言論自由は、戦争の終結を早める役に立ったのでしょうか?
いいえ。
全然役に立ちませんでした。
ペロポネソス戦争は第二次大戦のような短期決戦ではなく、27年も間続いた長期戦でした。 その間に何度も休戦をしています。
そして敵国スパルタからも何度も、講和の申し入れがありました。
アテネの指導層にはこれに応じる動きもみられましたが、しかし結局市民の反対で頓挫して、また戦争を続行しました。
そして戦力のすべてを失い、抵抗不能になった挙句に無条件降伏に追い込まれたのです。
何度も休戦をしながらの長期戦とはいえ、ペロポネソス戦争は十分に過酷な戦争でした。
古代なのだから第二次大戦のような総力戦にはならないから、大した事はないのでは?と言うわけにはいかないのです。
まず開戦直後からアテネ市内での籠城戦になり、この籠城戦の最中に疫病がはやり、大量の市民が死亡しました。 正確な数はわかりませんが、例えばペリクレスは息子二人と妹を死なせていますし、ツゥキディテスは自分自身が疫病に罹り死にそうになりました。
富裕層でこれですから、家族を喪わずに済んだ人はいなかったでしょう。
しかも疫病はこの後、何度も波状的にアテネを襲いました。
アテネがこのダメージから立ち直るには15年程もかかったのです。
しかしその間も戦争は続いたのです。
そして何とか疫病のダメージから立ち直ると、今度はシケリア遠征を挙行しました。
シケリア、現在イタリアのシチリア島なのですが、ここを征服しようと企てたのです。
しかしシチリア島はメロス島とは違い、巨大な島です。
アテネ領全てよりも広く、しかも豊で人口も多いのです。
その為このシケリア遠征にはアテネ及びデロス同盟諸国から、総勢35000人の兵員、200隻の三段櫂船、他多数の輸送船が参戦しました。 文字通り海をうめく尽くすような大船団をシケリアに送り込んだのです。
35000人!!
アテネの有権者数、つまり成人男性は総数6~6.5万人です。 アテネにはこの他にメトオイコイと呼ばれる市民権を持たない住民がいて、この人達にも兵役義務はあります。
また前記のようにこの中にはアテネ以外のデロス同盟諸国の兵員も含まれています。
それでもやはりこれは途方もない数です。
そしてアテネの海軍の総力は元来三段櫂船200隻なのです。
しかしシケリア遠征にはデロス同盟諸国の海軍を合わせたとはいえ200隻の三段櫂船を動員したのです。
こうなるともう現代人の想像を絶するほどの総力戦としか言えません。
そして完敗しました。
文字通りの完敗で、生きてアテネに戻れた兵士は一人もいなったのです。
それでもアテネはその後10年余も戦い続けたのです。
敗戦が重なり、犠牲者が増えれば増えるほど、ここで負けたら今までの苦労が無駄になると思うのか?
スパルタから講和を申し込まれると、相手も弱っているのだからもう一押しと思うのか?
敵愾心や復讐心と言った感情が理性を圧倒して、市民自身の手で講和のチャンスを潰していくのです。
しかもその市民達は一方では、アリストパネスの喜劇に腹を抱えて笑い、エウリピデスの悲劇に涙したのです。
そして誰一人「この非常時にこんな劇を演じるのは非国民だ!!」などとは言わなかったのです。
イヤ、ワタシはこの話は殆ど全部塩野七生さんの「ギリシャ人の物語Ⅱ」から丸パクリで書いているわけですが、しかしこうしてあの本を思い出すと、なんといったものやら・・・・・。
だってワタシは物心ついたころから学校やテレビや新聞で「日本は戦前は言論の自由がなくて戦争に反対できなかった。 だから戦争になってしまった。 戦争を防ぐ為にも言論の自由を守らなくてはならない。」と言われ続けてきたのですから。
でもこれを見たら言論の自由なんか幾らあっても戦争を防ぐどころじゃないでしょう?
でも考えてみれば、ワタシ自身も自分で目で同じ物もみているのです。
それはフォークランド紛争の時です。
あの時日本のテレビでは、ロンドンのフォークランド紛争反対デモの様子が放映されました。
イギリス政府はこのデモを許可したし、圧倒的多数の戦争支持派(90%が戦争支持!!)も一切彼等の妨害はしないので、デモ隊は至って平穏に行進したのです。
そしてそれ以前、ベトナム戦争時もそうでした。
ベトナム戦争時も反戦を歌うフォークソングが大流行し、ベトナム戦争をそも物を舞台にして戦争の悲劇を描いた映画が次々と作られました。
勿論反戦デモは日常的に行われていました。
それでも戦争は続きました。
つまりそれが民主主義国家の戦争なのです。
ペロポネソス戦争についてはいままで
始まりからその4まで書きました。 それでホントは「その5」は「ついに開戦」となるはずでした。
でもしばらくさぼっている間に終戦記念日が終わってしまいました。 そしてその間にまた朝日とか毎日とかが言論の自由について何やら言っていました。
それで今回は開戦を飛ばして、ペロポネソス戦争時の言論の自由について書くことにしたのです。
もしこれで皆様の暇つぶしになったら嬉しいです。