そもそも魔女とは何だったのか?
カルロ・ギンズブルグは魔女裁判に提出された魔女の供述調書を読み解きました。 そしてそれを著書「闇の歴史 サバトの解読」の中で解説しています。
それによると魔女の供述の多くには共通点がありました。 例えば魔女になるのは、袋子、つまり生まれた時に胎盤をかぶっていた人です。
また箒に乗って飛び、サバトと言われる魔女の集会に出るなどと言う話です。
そしてこのような魔女の話は、実は現在もシベリア原住民の中に残るシャーマニズムと共通するというのです。 シベリア原住民のシャーマンに選ばれるのも、袋子であり、その他の呪術もまた魔女の供述と一致するところが多いというのです。
そこでギンズブルグは考えるのです。
中世にはヨーロッパは完全にキリスト教化されていた事になっていますが、しかし実はキリスト教以前の土着宗教がまだ民衆の間には残っていたのだと。
このような土着宗教は、フランスやドイツは勿論、中世の最先端地域であるイタリアにも残っていたというのです。
これは現在の日本でも、仏教や神道とは別に祈祷師と言われる人達が結構沢山いる事を思えば全然不思議ではありません。
唯一絶対の神以外の存在を認めないキリスト教世界でも、実は中世まではこうした祈祷師の存在も放置しており、民衆はキリスト教と共になにくれとなくこうした祈祷師に頼っていたのです。
しかし近世になり人々は、そうした非キリスト教的なもの、原始社会に残滓を排除し純化し始めたのです。
これが魔女狩りでした。
このギンズブルグの「闇の歴史 サバトの解読」は1992年に出版された本で、そのころ結構話題になり、NHKが特集番組で彼にインタビューしました。
この時ギンズブルグは奇妙なことを言いました。
私はこの供述調書を読みながら、魔女裁判の裁判官の側に共感を覚えた。 魔女裁判の残虐性を感じながら、一方で自分は知識人として魔女裁判官の側の人間だと思えた。
と言うのです。
カルロ・ギンズブルグは実はキリスト教徒ではありません。 彼はユダヤ人です。 勿論、魔女狩りの非人道性は十二分に理解しています。
それがなぜ魔女裁判官に共感するのか?
それは彼等が知識階級であり、近世を開こうとした人間たちでもあったからです。 実際、魔女裁判官は皆大変なインテリなのです。
ローマ帝国崩壊後、ヨーロッパの知識階級はキリスト教の聖職者が独占してきたのですが、魔女裁判官、それに異端審問官はこうした聖職者の中でもずば抜けた知的エリート層なのです。
そしてギンズブルグもまたイタリアを代表する大碩学であり、知識人の中の知識人です。
それでギンズブルグは理念や宗教を超えて、知識人として原始の宗教に生きる人々と対峙した魔女裁判官に共感を覚えたというのです。
大碩学であるギンズブルグは「自分は魔女裁判官側の人間だと思えた」のです。
これは知識とか知性とかを考える上で大変示唆に富む話です。
思うに知識を得る、学問を学ぶというのは、つまりは特定の理念や観念を脳内にインプットすることです。
そして知識人とはそのようにインプットされた観念で物事を考える人々なのです。
一神教としてのキリスト教の観念を大量にインプットされた魔女裁判官からすれば、得体の知れない原始宗教に生きる人間達は、絶対に許せない存在だったのです。
だからありとあらゆる拷問を加えた上で、こうした供述を引き出し、彼等を火炙りにしたのです。
そういう観念の中で生きている人々の目には、魔女とされた人々の苦悩と言う現実は意味がなかったのです。
知識のない人間なら、現実しか見る事ができませんから、こうした観念に生きる人間は理解できません。
また観念をインプットされた人でも、現実は現実としてみて、観念と現実との整合性を常に考える人もいます。
しかし観念を大量にインプットされいるだけで、現実を見る能力のない人々は、観念に生きて現実を理解できません。
そうなると魔女裁判をやらかしてしまうのです。
魔女裁判官に共感を覚えると言ったギンズブルグの言葉、イタリアを代表する大碩学として観念に生きる事の恐ろしさを警告する言葉でもあるのです。
そして魔女狩りとは、観念の中のキリスト教が、無辜の人々の大量虐殺と言う凡そ非キリスト教的な行為に至った話ではありますが、これが中世ではなく、ルネサンス以降に盛んになったのは、正にルネサンス以降人々が知性や知識に目覚めたからなのです。
ルネサンス以降、人々の知的水準は上がり、現実よりも観念に生きる人々が増えていったのです。
だから魔女狩り共に異端審問も増えていき、さらには宗教戦争へ突入することになるのです。
ワタシは今のイスラム世界がこの状況に入りつつあるのではないかと非常に危惧しています。
しかし観念に生きる人々、そして魔女裁判をやる人々は日本にもいるのです。
先日森友学園騒動についてエントリーをしたら、東大名誉教授の演説を紹介するコメントをくださった方がいます。
長文ですが、せっかく文字お越ししてくださったので、全部コピペします。
「財務省は14件にも上る決済文章の改竄を行いました。これは何を意味しているのか。安倍政権は今や憲法を語る資格も無い。政権に留まることがひと時も許されない、そういう政権に成り果てたということです。
それは何故か。日本国憲法の66条は「行政権は内閣に属する」と規定しています。67条は「内閣は行政権を行使するについて連帯して国会に責任を負う」と規定しています。69条は「内閣の存続は国会の信任にかかる」と規定しています。つまり内閣は国会に対して誠実に間違いの無い正確な情報を全部提供し、国会の審議に寄与し、国会は国民の権利と福祉を守るために行政の活動を監督チェックし、もし問題があれば、内閣は国会に対して、国会の背後にいる国民の全体に対して連帯して責任を負う。これが憲法が定めた議会制民主主義、議員内閣制の原理です。
この憲法の下で何が起こったか。財務省は14件もの決済文章を改竄し、安倍政権はこれを正しい文章として国会に提出をしました。朝日新聞がスッパ抜くまで、国会は内閣に騙され続けていた訳です。国会どころではありません。国民も同じように騙され続けていました。昨年の衆議院選挙の時に安倍首相は国難突破解散、国民を守り抜く、大仰なスローガンを掲げて森友加計隠しをしました。本当だったんです。国民は騙されたまま衆議院選挙で投票したんです。これは日本の議会制民主主義の根本を揺るがす重大な事態です。
さらに問題なのは、私が特に問題だと思うのは事が発覚した今、安倍政権は何をやろうとしているか。一介の行政官に過ぎない佐川前国税庁長官に全ての責任を押し付けようとしています。皆さん、行政官、霞ヶ関のお役人というのは行政権を執行する内閣の選任と監督の下で内閣の指揮命令に従って行務をするに過ぎません。一行政官である佐川前国税庁長官は内閣の一員では全然ありません。内閣の使用人に過ぎません。
憲法が規定しているのは内閣は国会とその背後にある国民に連帯して責任を負うということを憲法は要求しています。佐川さんが憲法が要求している責任を国会や国民に対してどう背負うことが出来るんですか。1年間に渡って国会と国民を騙し続けた内閣の償いは麻生財務大臣の首を取るということでは全く済みません。内閣が連帯して責任を負う、つまり内閣総辞職以外にはこれを償う道はありません。」
それは何故か。日本国憲法の66条は「行政権は内閣に属する」と規定しています。67条は「内閣は行政権を行使するについて連帯して国会に責任を負う」と規定しています。69条は「内閣の存続は国会の信任にかかる」と規定しています。つまり内閣は国会に対して誠実に間違いの無い正確な情報を全部提供し、国会の審議に寄与し、国会は国民の権利と福祉を守るために行政の活動を監督チェックし、もし問題があれば、内閣は国会に対して、国会の背後にいる国民の全体に対して連帯して責任を負う。これが憲法が定めた議会制民主主義、議員内閣制の原理です。
この憲法の下で何が起こったか。財務省は14件もの決済文章を改竄し、安倍政権はこれを正しい文章として国会に提出をしました。朝日新聞がスッパ抜くまで、国会は内閣に騙され続けていた訳です。国会どころではありません。国民も同じように騙され続けていました。昨年の衆議院選挙の時に安倍首相は国難突破解散、国民を守り抜く、大仰なスローガンを掲げて森友加計隠しをしました。本当だったんです。国民は騙されたまま衆議院選挙で投票したんです。これは日本の議会制民主主義の根本を揺るがす重大な事態です。
さらに問題なのは、私が特に問題だと思うのは事が発覚した今、安倍政権は何をやろうとしているか。一介の行政官に過ぎない佐川前国税庁長官に全ての責任を押し付けようとしています。皆さん、行政官、霞ヶ関のお役人というのは行政権を執行する内閣の選任と監督の下で内閣の指揮命令に従って行務をするに過ぎません。一行政官である佐川前国税庁長官は内閣の一員では全然ありません。内閣の使用人に過ぎません。
憲法が規定しているのは内閣は国会とその背後にある国民に連帯して責任を負うということを憲法は要求しています。佐川さんが憲法が要求している責任を国会や国民に対してどう背負うことが出来るんですか。1年間に渡って国会と国民を騙し続けた内閣の償いは麻生財務大臣の首を取るということでは全く済みません。内閣が連帯して責任を負う、つまり内閣総辞職以外にはこれを償う道はありません。」
もしこの改竄が安倍総理の指示で行われたのなら、勿論安倍政権は総辞職するべきです。
しかし佐川元近畿財務局長の証言を聞く限り、安倍総理もまた官邸の指示もなかったことは明らかです。
それでも官僚の改竄の責任を総理が取らなければならないというなら、官僚が意図的に不正行為をやればいつでも内閣を潰せる事になります。 これでは内閣の生殺与奪権を官僚が握る事になり、選挙で国民の代表を選ぶという民主主義が全否定されてしまいます。
そもそも何で財務局は文書改竄をしてしまったか?
それは佐川証言や、また現理財局長である太田証言からも明らかですが、野党が連日執拗な質問攻勢をかけて、その答弁書作りに理財局の職員達が満足に睡眠もとれないような状況に追い込まれたからです。
野党は何でこんな質問攻勢したのか?
だって魔女裁判に拷問はつきものです。
魔女なんてこの世にいないのです。
そして非キリスト教的シャーマニズムを告白したら、魔女と断定されて火刑です。
だから拷問でもしない限り、被疑者は何も答えません。 しかし一応裁判ですから証言が必要です。
そこで被疑者は魔女と判定できる自白をするまで、恐ろしい拷問が続くのです。
財務局はその拷問の苦痛に耐えかねて、この文書改竄をやってしまったのです。
ではなぜこれが魔女裁判なのか?
魔女裁判は普通、当時の人々にとって不可解な出来事、不幸な出来事が起きた時に、「それは魔女が呪いをかけたからだ」と言う話で始まります。
そこで魔女とされた人が裁判にかけられるのです。
証拠は必要ありません。
そして被疑者が魔女であることを否定すると拷問にかけられるのです。
一方モリカケはどうでしょうか?
森友問題は、安倍夫人が森友学園の名誉校長だったから、近畿財務局は国有地を不正に安く売ったはず。
加計問題は、加計学園の理事長が安倍総理の親友だったから、不正に加計学園の獣医学部が認可されたに違いない。
野党とマスコミ、そしてその同調者たちは、こうした憶測だけで他に一切証拠もないまま、安倍総理を責め、挙句に財務局の職員達を拷問にかけているのです。
一般の裁判では有罪の証拠を示す義務があるのは検察側です。 検察側が有罪の証拠を出せなければ無罪です。
それどころか起訴もされません。
しかし魔女裁判は違います。
魔女裁判では証拠なしに訴追されて、被疑者が無罪を証明しなければならないのです。
こうしてモリカケと魔女裁判を比較すればわかります。
モリカケは当に魔女裁判で、野党とマスコミ、そしてそれに同調しているこの東大教授等は魔女裁判官そのものなのです。
そして魔女裁判は一旦訴追されたら、もう有罪と決まっていました。
そもそも証拠のない、訴追した側の思い込みだけで、裁判が進むのですから、どんな証拠があろうともそれは全く何の意味もないのです。
これもれまでのモリカケ騒動と全く同じですね。
今回の佐川証言でも安倍総理の指示は全否定されたのですが、しかしこの東大教授は何の根拠もなく佐川証言は「嘘」と決めているのです。
この東大教授の脳内には「権力は悪」「憲法改正は絶対悪」という観念が強くインプットされているのでしょう。
だから憲法を色々引用しながらも、中学公民で習う憲法38条が綺麗に抜けているのです。
いやそれ以前に人を単なる憶測だけで証拠もなしに犯罪者扱いしてはイケナイと言う常識も消えているのです。
これは魔女裁判官の脳内から、「殺すなかれ」と言うキリストの教えが綺麗に抜けたのと同様でしょう。
多数の魔女を火刑にしたことで有名だったある魔女裁判官が晩年になって非常に後悔したことがありました。
それは彼が魔女の子供達をその幼さ故に火刑にせず、鞭打ちだけで釈放してしまったことでした。
彼はそのことで魔女の種を残したのではないかと後悔しながら死んだのです。
だからきっとこの教授も臨終の床では、安倍総理を火刑にできなかったことを後悔するのだと思います。
だって魔女裁判官ですから。