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2019-10-07 15:42

読書の秋の辛い読書 「津波の霊たち 3.11死と生の物語」

 昨日は午後3時過ぎになってから、綺麗な快晴になりました。 
 一昨日と一昨昨日は雨で外出できなかったので、空の青さと光の明るさが、格別に感じられました。

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 しかし何となくアタマがぼんやりしていました。 一昨日の夜に読んだ「津波の霊たち 3.11死と生の物語」があまりに辛く重かったので、眠れなくなってしまったのです。
 この本の著者はイギリス人のジャーナリストです。
 彼はあの東日本大震災の後、大川小学校で子供を喪った両親をはじめ、津波の犠牲者の遺族や、津波の後被災者の支援を続けた僧侶などのインタビューを中心にあの津波を描いたのです。

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 ワタシも甥の一家が気仙沼にいるので、あの津波の時は連日、ネットが使える近所の地区センターに通って気仙沼と甥一家の情報を探しました。
 ワタシの契約しているプロバイダーは地震発生とともにダウンしてしまい、我が家のネットが使用不能になったし、NHKを始めテレビ情報は、おどろおどろしい映像を流すだけで、本当の意味での被害情報を得るには、何の役にも立たなかったからです。

 それでも幸い甥一家は、家は全壊したものの、家族は全員無事でした。 そして今では家も建て直し、全く元通りに暮らしています。
 だから我が家にとっては、あの津波はそれで終わりました。
 しかし家族を失った人たちは、そういうわけにはいかなかったようです。

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 この本を読んでいて「死」の重さ、とりわけ子供を喪った親の悲しみに圧倒されてしまいました。
 この本では大川小学校の悲劇が詳しく描かれていますが、親たちが我が子の遺体を探し続ける話は、胸が痛くなります。

 彼等は遺体安置所を巡り歩き、或いは重機のオペレーターの資格を取って学校周辺の地面を掘り返し、そして霊能者を頼って、ひたすら我が子の遺体を探し続けたのです。
 大川小学校で犠牲になった子供達の中で、まだ遺体が見つかっていない子が一人いるのですが、その子の父親は重機を使って今も息子の遺体を探しているのです。

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 こんなに親たちが苦しむのは、津波と言う天災で子供を喪い、遺体も戻らないからでしょうか?
 病気や交通事故など、平時に他の死に方をしたなら、ここまで苦しむ事はなかったのでしょうか?
 
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 平時に事故や病気で死ねば、遺体を探す必要などないし、直ぐにお葬式をして丁重に埋葬して、周りの人々から慰めてもらう事ができます。
 でもあの津波では地域社会全体が甚大な被害を受けた為に、犠牲者の親族たちも遺体を探しながら、それぞれの仕事を続けなければなりませんでした。

 例えば高校の教師だった父親は、勤務先の高校が地域の避難所になっていたので、そのまま勤務を続けて、避難者たちの世話に明け暮れ、休日には妻と遺体安置所を巡って、娘の遺体を探し続けたのです。
 そのような状況で我が子の死を迎えなければならなかったことは、その死をより辛いものにしたのか? それともむしろそれが救いになったのか? 何とも言いかねます。

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 この本の中では大川小学校の犠牲者の両親たちが起こした、訴訟についてもかなり詳しく描かれていました。
 大川小学校の悲劇が天災だったのか、それとも防災体制に不備による人災だったのか?
 この本を読んで、ワタシには何とも判断がつきかねます。
 しかし実は原告側も、本当の意味では判断はできなかったのではないでしょうか?

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 この本で知ったのですが、実はあの津波の犠牲者のうち、学齢期の子供達の割合は驚くほど少なかったのです。
 あの津波は平日の授業時間中に来たので、学齢期の子供達のほとんどは学校にいました。
 そして学校で死んだ子供は、大川小学校の犠牲者以外に、もう一人先生の引率で津波から避難中に溺死した中学生だけでした。

 被災地の学校が地震で倒壊した例は一例もなく、津波で水没した9校のうち、大川小学校を除く8校では、この一人を除く全員が無事に助かっているのです。
 教師達は見事に生徒を引率して、津波から脱出させたのです。
 小中学生の死者のほとんどは、実は病気などで学校を休んで家にいた子供達なのです。
 つまり大川小学校以外では学校の防災対策は完璧だったのです。

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 大川小学校の場合も防災訓練も、ヘルメット等の防災用品の準備もきっちりできていたのです。 また校舎は頑丈なコンクリート建築で、小高い丘の上にあり、地域の避難所に指定されていました。
 だから地震が起きた時は、生徒達はすぐにヘルメットをかぶり、即刻校舎を出てグラウンドで待機したのです。

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 しかし大川小学校の防災マニュアルには、津波に対する対応が全く整備されておらず、そもそも津波が来た時にどうするかを検討した節さへありませんでした。
 それでも避難しようと思えば、避難する事は十分可能でした。 
 地震の発生から津波の襲来までには、1時間弱の時間がありました。
  
 地震が起きたのは下級生の下校時間に当たっていたので、校門にはスクールバスが待機していまたし、地震を心配して車で子供を迎えにきた親達もいました。
 だから子供達をスクールバスや車の乗せて、高台に逃げてしまえばそれまでだったのです。

 また学校の裏には山があり、学校の脇からその山頂に通じる道がありました。 
 この道は子供の足でも楽々と歩ける道なので、子供達は野外学習でその山に登っていました。 
 そして津波が大川小学校を襲った時、この山に登る事が出来た子供達は皆助かったのです。
 だったら早めに子供達を連れて山に登っていれば、何の問題も起きなかったのです。
 
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 しかし結局、先生たちは地震発生から津波が来るまでの一時間弱を、子供達をそのまま校庭に留め置きました。
 子供達の中には「山へ逃げよう」と言った子もいたし、子供を迎えに来た母親の一人津波が来るから早く逃げるようにと教頭に言ったのです。
 けれども教頭は「奥さん、落ち着いて」と言って動きませんでした。
 そして彼もまた津波に呑まれたのです。

 なぜ教師達は避難を躊躇い、校庭に留まり続けたのでしょうか?

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 大川小学校には当時108人の生徒と11人の教職員がいました。 
 そして生徒74人と教職員10人が死亡しました。
 体力のある大人の方が、子供達よりも遥かに死亡率が高い所を見ると、津波が来た時、この教職員達は子供達を捨てて逃げるような事はしなかったと考えるべきでしょう?
 おそらく彼等は皆子供達を守ろうとして津波から逃げられずに死んだのです。

 そして唯一の生き残りである先生も、自身が脱臼しながらも、怪我をした生徒を助けて避難させています。
 ワタシは6月に脱臼したばかりなので、脱臼がどれほど辛いかがよくわかります。
 救急車の中でも痛みで泣きそうだったのです。
 そういう状態で子供を助けるなんて、尋常な責任感ではありません。

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 但し彼は裁判では完全に沈黙を守り証人としての出廷もしていません。
 彼はあの場にいた大人たちのうちで唯一の生き残りであり、当時の教師達の状況判断について知る唯一の人間なのにです。

 そもそも子供を喪った親達が、訴訟まで起こした最大の理由は、実はこの先生や石巻教育委員会など学校の管理の責任者たちが、ひたすら逃げの姿勢を取って、「なんで我が子は死ななければならなかったのか?」と言う親達の問いに答えなかったためなのです。

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 なるほどこれについては石巻市教育委員会もこの教師も非難されて当然でしょう。
 しかし彼等の立場を考えればこれも辛いものです。

 石巻市も津波で甚大な被害を受けています。
 だから石巻市教育委員会のメンバーだって多くが自身の家や家族を失っているのです。
 そういう状態でも当時の被災地の公務員達と同様、彼等もまた被災者の救援や災害復興の為に勤務を続けていたのです。

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 その上こうした訴訟に対応するというのは、完全に人間の限界を超えているでしょう?
 これが平時であれば、家族を喪ったり、自宅が破壊されたりした人は、生活が元に戻るまで休暇を取って当然だし、そういう状態の人を職務上の責任で攻め立てたら、責めた方が非難されるのです。
 でも石巻市ではそういうわけにはいかなかったのです。 
 だって市民皆が被災者なのだから、被災者だからと言って休暇なんか取れないからです。

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 そしてたった一人生き残った先生が、何も証言したくないのだって理解できます。
 そもそも自分自身が死にかけ、目の前で多数の同僚や子供達が死んだのですから、深刻なPTSDになって当然です。 
 また子供達を守ろうとして死んでいった同僚達を責める結果になるような証言は絶対にしたくないでしょう?

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 実はこの人は理科が専門で、大川小学校の前に勤務していた小学校で、その学校の津波の避難マニュアルを変更した実績があります。

 その小学校ではそれまで津波の時には、学校の屋上に避難する事になっていたのですが、でもこの先生は、その避難マニュアルを変えて、学校近くの高台にある神社の境内に避難する事にしたのです。

 東日本大震災ではこの小学校の校舎は津波で完全に水没しました。
 しかし神社の境内は津波の被害は受けませんでした。 それで生徒教職員全員が助かったのです。
 だから彼は前任の小学校の生徒教職員全員の生命を救った人なのです。

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 しかしそういう先生だからこそ・・・・。
 
 だったら先生はなんで、大川小学校の津波避難マニュアルを治してくれなかったのよ??!!
 先生がマニュアルを変えてくれていたら、うちの子は死ななくて済んだのに!!

 ワタシが大川小学校で命を失った生徒の親ならそう言って責めてしまいます。

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 彼は大川小学校については津波の心配はしなかったのでしょうか?
 それともそもそも、大川小学校の防災マニュアルについては無関心だったのでしょうか?
 提言したけれど、他の教員達に反対されてできなかったのでしょうか?
 或いはマニュアル変更を提言できないような何かがあったのでしょうか?
  
 これはいずれであってもこのの悲劇の原因になった大川小学校の危機管理体制の問題についての最も核心的証言になるはずです。
 でも彼は沈黙しています。
 それでもこのいずれであってもこの問題については彼自身が一番苦しんでいるという事は、容易に想像できます。

 あの時、自分がちゃんと調べていれば・・・・・。
 もっとちゃんと他の先生たちに言っていれば・・・・・。
 皆が反対しても、絶対に山に避難するべきだと主張していれば・・・・。

 彼はこれを一生後悔し苦しみ続けなければならないのです。

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 福島第一原発の事故もそうですが、この大川小学校の悲劇も、ほんのわずかの判断ミスから生まれました。
 もう少し用心していれば・・・・。
 
 もう少し用心して防波堤をかさ上げしてれば・・・・。 
 もう少し用心して津波の時の避難所を決めていれば・・・・・。
 
 あの津波は千年に一度の規模の津波でした。
 しかも千年前にあのレベルの津波が、東北地方を襲った事が地質学から証明されたのは、あの津波の半年ほど前の事でした。

 東日本大震災の津波の被災地は中世以前は人口希薄地だったので、文献資料にはこの津波は記載されていなかったのです。

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 そういう津波に対して一体どのように対応できるのでしょうか?

 大川小学校は海岸から6キロ余りの内陸にあり、北上川からも200メートル、つまりバス停一つ分も離れてた高台にありました。
 だから地元の人達の記憶を手繰っても過去にこの近隣が津波の被害を受けた話は出てきません。

 それで大川小学校近辺の住民の多くは、地震の後もそのまま自宅に留まり、津波で死亡しています。
 津波に襲われた地区で、助かったのは仕事等で自宅を離れていた人たちだけなのです。

 それでも半年前に科学的にこの規模の津波の襲来は証明されたのだから、やはりその為の対応はするべきだったのでは?

 そもそも教師として子供の安全を守る責務を負うのだから、用心をしてイケナイ理由はないのですから。 そして大川小学校の場合は、山に避難するのも、車で逃げるのも、何の問題もなければ、費用がかかるわけでもなかったのですから・・・・・・。

 そしてこの判断を誤った結果、大惨事になったのです。
 だからこそ生き延びた人々は苦しみ続けなければならないのです。

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 しかし死者もまた苦しみ続けているようです。
 「津波の霊たち」と言うタイトルの通り、この本には津波の死者たちの霊の話も随分書かれています。

 津波の後、被災地では幽霊を見た人、幽霊に憑りつかれて苦しむ人々が多数いました。
 
 また大川小学校の死者の親達は、霊能者に頼るようになりました。
 霊能者に口寄せをしてもらって、死後の世界にいる子供達と対話する事で、何とか精神の平衡を保ちました。

 更に遺体捜索に当たる警察からも「霊能者に相談しください」と言われました。
 警察が霊能者に頼るって?

 でも何か月も闇雲に地面を掘り返し続けるぐらいなら、霊能者でもなんでも頼れる何かがなければやっていられないでしょう?
 
 そして霊能者が示す場所で遺体が発見された例もあったそうです。

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 一方、津波で死んだ人々の多くが、自分の死を受け入れられず苦しんで他人に憑依しました。

 学校へ娘を迎えに行こうとする途中で車ごと津波に呑まれた父親の魂は、必死に娘の名を呼び続け、娘のところに行こうとしていました。

 被災地のお寺の僧侶たちは、このような霊に憑依された人々を救い、そしてこうした霊が成仏できるように助けました。

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 この本の著者はイギリス人です。
 イギリスの文化には、このような憑依や死者の口寄せと言うものはありません。
 しかし彼はこうした霊に苦しめられる人々に対応する僧侶の話を淡々と描いています。

 こういう霊は実在するのでしょうか?
 それともこれは未曽有の災害を生き延びたために苦しまなければならない人々の精神から生まれた幻想なのでしょうか?

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 散歩に出たのが3時過ぎだったので、直ぐに日は傾いてきました。
 そしてドンドン寒くなってきました。

 散歩中ずうっと寝ぼけたアタマで、いろいろな事を考え続けました。
 でもどんなに考えても答えの出ないでしょう。

 読書の秋の辛い読書になりました。 

 それでもこうしてブログに書くことで、少し気持ちが整理できます。
 そしてこれを読んでくださる方がいると思うと、凄く救われた気持ちになれます。
 だからワタシはこのブログにアクセスしてくださる皆様には、いつも心から感謝しているのです。


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2019-08-25 12:49

スカーレット・オハラは移民二世 移民と愛国心

 「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラは、移民二世です。

 彼女の父親ジェラルド・オハラは20歳でアイルランドからアメリカに移民した移民一世なのです。
 
 「風と共に去りぬ」は多くの方が読まれていると思いますが、それでもこの小説の中で描かれたジェラルド・オハラの人生を紹介したいと思います。

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 「風と共に去りぬ」の描写から推定すると、ジェラルド・オハラが生まれたのは1800年前後です。
 しかし彼の祖国アイルランドは1801年、完全に国家主権を喪い大英帝国に併合されました。

 イングランドのアイルランド支配は1167年のノルマンコンクェストに始まります。 しかし始めはイングランドもアイルランドも同様に異民族であるノルマン人の支配を受けるというだけの話でした。

 けれどもイングランドではノルマン人とサクソン人が次第に融合していきました。
 ノルマン人とサクソン人が合体してアングロ・サクソンになり、二つ民族の言語が合体して英語が生まれました。
 それと同時進行で国家統一と近代化が進んだのです。

 そして近代化と国家統一と同時進行で、イングランドは国家としてアイルランドへの支配を強めて行きました。
 これに対してアイルランド人達は、激しく抵抗しましたが、その度に弾圧されて、より厳しい支配を受けるようになりました。

 致命的だったのは、清教徒革命です。
 アイルランドは革命の混乱を機にイングランドの支配から脱するべく、国王側についてイングランドと戦いましたが、結果は惨敗でした。
 そしてこれ以降、アイルランド対イングランドの対立は、それまでの民族対立にカソリック対プロテスタントと言う宗教対立が加わり、より過激ですくいのない物になってしまいました。

 因みにこの時生まれた、宗教対立は今もそのまま続いており、IRAのテロやブレグジッド混乱の原因となっています。

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 しかもこの頃からイングランドは近代資本主義に突入しました。
 その為、アイルランドに対して帝国主義的な植民地支配を始め、搾取を恣にするようになりました。
 アイルランド人は以降、農地を奪われ、再々大量餓死が起きるようになりました。

 一方資本主義を確立したイギリスは、さらなる植民地の獲得を続け、日の没する事のない大帝国となって行ったのです。
 しかしアルランド史を見ていると、イギリスは植民地の獲得と支配、そして搾取の方法を、まずはアイルランドで学び実践したのがわかります。
 
 イギリスの植民地獲得が続く中で、前記のように1801年、完全に併合されて、アイルランドと言う国家は消滅したのです。
 
 しかしアイルランド人はそれでもイングランドに屈服せずに、抵抗を続けました。
 ジェラルド・オハラの一家もまたイングランドに抵抗を続けました。

 その為、ジェラルドが物心つく頃には、彼の長兄と次兄は既にイングランド官憲に追われて、アメリカに移民していました。
 
 そしてジェラルドも20歳になった時に、アイルランドを侮辱したスコットランド人を射殺してしました。
 そこで彼もまた、兄達を頼ってアメリカに逃亡する事になったのです。

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 ジェラルドの兄達は、ニューオリンズで商人になっていました。 だからジェラルドも渡米直後は、兄達の仕事を手伝っていました。
 しかしジェラルドは暫くすると、南部では商人の社会的地位はそれほどない事を知りました。 南部で最も尊敬されるのは農園主でした。
 だから彼は農園主になりたいと願うようになりました。
 
 そしてジェラルドは持ち前の才気と度胸、さらに幸運にも恵まれて、渡米20年程でジョージア州オーガスタのクレイトン群に、自身の農園を手に入れました。
 彼はそれを「タラ」と命名し、その経営に成功したのです。

 因みに「タラ」は、アイルランドの伝説でアイルランド建国の始まりとされる丘の名前です。

 勿論、南部の農園は黒人奴隷を使う奴隷農園です。 だからジェラルドも百人を超える黒人奴隷を所有していました。
 しかし彼は奴隷制度を疑問に思いませんでした。

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 因みにジェラルドが「タラ」を手に入れたころ、彼の祖国アイルランドでは、ジャガイモ飢饉が起きていました。
 これはアイルランド人の主食だったジャガイモが伝染病で全滅した事により起きた飢饉で、これによりアイルランドの総人口の3分の1が餓死したとも言われます。

 恐ろしいのはこの時期もアイルランドでは大麦やライムギなどの主要農産物は普通に収穫されていた事です。
 しかしこれらの農産物は殆どがイングランドに送られて馬の飼料になっていたのです。

 イギリスの支配下でアイルランドの農地の殆どはイギリス人の地主の物になりました。
 その小作料は収穫の9割ともいわれました。
 アイルランド人は小作人として小作人に貸し与えられる小屋に付属した菜園で取れるジャガイモで生き伸びていたのです。
 ところがそのジャガイモが伝染病で全滅したので、大飢饉に陥ったのです。

 しかしイギリス人の地主達は自分達の利益と、イングランドの馬の飼料を確保するために、アイルランド人の小作人を餓死させることを選んだのです。

 一方、ジェラルドも他の南部農園主達も、自分の黒人奴隷を飢えさせたりはしませんでした。 
 ジェラルドのような南部農園主達は、自分の奴隷には、プアーホワイトと呼ばれる貧しい白人達より豊かな生活を保障していました。
 
 イギリスはジェラルドの同胞であるアイルランド人を大量餓死に追い込んでも「紳士の国」として通るです。
 だったら黒人奴隷を食を保障している奴隷農園主達だって「紳士」を自負するのは当然でしょう?

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 こうして農園主となり、その経営が安定すると、ジェラルドは妻を欲するようになりました。
 農場経営にも、また近隣の農場主達との交際にも、妻が必要なのです。
 ところがジェラルドはこれにもまた素晴らしい幸運に恵まれ、ニューオリンズ有数の名門ロビヤール家の令嬢で15歳だったエレンと結婚する事ができたのです。

 そして翌年には長女スカーレットが誕生しました。 
 夫婦は更に二人の女の子に恵まれました。

 このようなジェラルドを近隣の農場主達は、自分達と同等の南部紳士として受け入れました。
 ジェラルド自身もまた自分を完全な南部紳士と認識していたのです。

 ジェラルドは生涯アイルランド訛りの英語しか話せなかったし、正確な読み書きと計算ができる以上の学歴はなかっし、そもそも「紳士」階級の出身でもなかったし、それどころか殺人犯だったのですが、それでも南部を愛し、南部農園主達を愛し、彼等の生活様式に完全に馴染んだジェラルドを、南部紳士達は完全に自分達の仲間と看做したのです。

 一方ジェラルドも完全に南部紳士の価値観を受け入れ、南部に対して近隣の南部紳士達と全く変わらない「愛国心」を持っていました。

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 ジェラルド・オハラが結婚する以前から、アメリカでは奴隷解放を巡って南部と北部の対立が深刻化していました。
 この時奴隷解放を唱えて北部を代表した政党が共和党であり、南部を代表して奴隷制度の維持を訴えたのが民主党です。

 そして奴隷解放に反対する南部諸州は、連合してアメリカ合衆国から独立するという方向に進みます。
 
 そしてオハラ夫婦の長女スカーレットが成長して、恋に目覚める頃には、南部全域で武力での独立が規定路線になり、独立戦争の為の軍隊の編成が本格化していたのです。
 
 南部の地主達はこれに呼応して、各地で騎兵隊を作り始めました。 こうした騎兵隊に参加するのは農園主の子弟達です。

 これらの騎兵隊は馬は勿論、従卒とその馬など、必要な物は全て騎兵自身が自分で用意する事が前提です。
 そして南部では従卒として騎兵に同伴するのは黒人奴隷でした。
 
 つまり二人分の馬(換え馬も必要なので二頭以上)と屈強な男性の奴隷一人と、その食料弾薬を全部騎兵が負担する事になるのです。
 だから富裕な農園主の子弟でもなければ、入隊できないのです。

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 少し脱線するけど、古代ローマの共和制時代に騎士階級と言われる階級がありました。
 これは高校世界史では、これはローマの富裕層だと教わったのですが、なぜ富裕層=騎士階級か意味がわかりませんでした。

 しかしこの「風と共に去りぬ」の南部の騎兵隊の話で、やっと意味がわかりました。
 古代ローマの兵役は兵士自身が自分の使う武器や食料が自弁なので、騎士つまり騎兵になるのは馬を調達できる富裕層と言う事になるのです。

 もう一つ脱線するけれど、南部の奴隷農園主達は奴隷解放を唱える北部との戦争に、従卒として黒人奴隷を連れて行くことに何の不安も抱いていない事です。
 前線で反乱を起こされたり逃亡されたりしたら大変だと思うのですが、それを全く心配していないのです。

 つまり当時の黒人奴隷と主人には強い信頼関係があったという事でしょう。 
 実際南北戦争の混乱期にも、黒人奴隷の反乱のような事は起きていないのです。

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 ジェラルドの農園のあるクレイトン群でも、農園主達が騎兵隊の結成を決めました。
 そして郡内の農園主の子弟達は皆これに志願しました。

 しかしクレイトン群は開拓の歴史が浅く農園主は少ないので、農園主の子弟だけでは隊員が足りません。

 その為、小規模自作農始や猟師までもの参加を認めたのですが、彼等の馬やその他装備は、全て農園主達が負担する事にしたのです。
 
 ジェラルドも南部の奴隷農園主として、近隣の農園主同様、全面的に民主党を支持し、南部の独立を賛同していました。

 そこで彼はウィルックス家の当主等、近隣の農園主等数名と共にこの騎兵隊の編成の中心になり、馬その他の装備品の調達に奔走しました。
 こういう仕事を引き受けると、他の農園主以上に経済的な負担は大きいでしょうが、しかし彼には息子がいません。
 他の農園主達の息子は皆志願しているのですから、このぐらいは人並み以上にやらねばと言う感覚なのでしょうか?

 それにして凄いですね。
 現在の日本人の感覚では軍隊に志願するだけでも凄いのに、国の為に戦う為に、自費で軍隊を作るというのですから。
 
 因みに南部同盟って完全な民主主義国家なのですが、こういうのを見ると本来の民主主義ってこういう覚悟があって初めて守られる物だと思います。

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 そしてスカーレットが16歳になり、ウィルックス家の園遊会で、アッシュレー・ウィルックスの自分の想いを打ち明けたその日、遂に南北戦争が勃発したのです。

 南北戦争は最初は南軍優位でしたが、しかし南部は人口で半分以下、海軍はなく、工業力もゼロですから、開戦後数か月で苦境に陥ります。
 それでも4年余り頑張りますが、最後には南部同盟全土が北軍に制圧されて敗戦しました。
 
 ジェラルド・オハラはしかし最後まで南部同盟に尽くしました。
 所有する金融資産をすべて南部同盟の国債につぎ込み、南部同盟軍に送る兵站の為に農場の産物を提供し続けました。

 しかし遂に彼の農園「タラ」にも北軍が侵入します。 黒人奴隷達は逃亡し、屋敷は荒らされ、この混乱の中で最愛の妻エレンは病死してしまいました。
 彼はこのショックで、痴呆症になってしまいました。

 そして南部同盟も間もなく敗北し、国家主権を喪い北部の支配下に入りました。

 それでもジェラルドは南部同盟への忠誠を捨てませんでした。
 
 南部を支配下に置いたアメリカ合衆国政府は、南部人達に合衆国への忠誠を誓えば戦争で被った損害を賠償するとしました。
 その為、ジェラルド次女スエレンはジェラルドにこれを薦めましたが、ジェラルドは断固拒否しました。

 そして窮乏の中で死んだのです。

 南北戦争が始まった時、ジェラルドは既に60代で、しかも片足が不自由でした。
 だから出征できませんでした。
 しかし彼もまた南部同盟の為に戦い抜いき、南部同盟に殉じたのです。

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 こうしてみると彼の「愛国心」は本物です。
 しかし前記のように彼は移民一世であり、元来アイルランドの名誉を傷つけた人間を殺害するほど熱烈で過激なアイルランドの愛国者だったのです。

 彼の中で、アイルランド人である事の誇りと南部同盟への愛国心は完全に共存していました。
 
 元来アイルランド人ってアメリカでも差別されていたのです。
 アメリカ人の人種や民族による序列って、出身国の国際的な地位をそのまま反映しているような面があるのですが、アイルランドはインドやケニアと同様イギリスの植民地なのですから、白人の中では最低なのです。

 実際、イギリスでは第二次大戦後もなを「白いニグロ」と呼ばれる程の差別を受けていました。
 南北戦争後一世紀経ってジョン・F・ケネディがアイルランド系として初めてアメリカ大統領になった時は、オバマが黒人として初めて大統領になった時のような扱いで報道されていました。

 しかし彼はそれでもアイルランド系である事を誇り続けたのです。
 そして南部を愛し続けたのです。

 このようなジェラルド・オハラの生き方は、アメリカ人の理想の姿ではないでしょうか?
 アメリカ人は元来皆移民なのです。

 アメリカに移民する人達は皆、アメリカに救いを求め、成功を求めてくるのですが、しかし出身国への愛国心を捨てたわけではないし、民族や人種に至ってはどんな努力しても変更は不可能なのです。

 しかしアメリカに移民した以上は、アメリカを愛しアメリカに忠誠を尽くすべきである。
 そうでなければ移民国は国家として存続できません。
 
 「風と共に去りぬ」の主人公はあくまでジェラルドの長女スカーレットです。
 だから父ジェラルドの人生は、小説の中ではあくまでスカーレットの生きざまを描く為の背景としてしか扱われていません。

 しかしジェラルド・オハラ始め、背景として描かれる南部人達もまた、アメリカ人の多くが心から共感できるからこそ、この小説はアメリカ最大のベストセラーになったのではないでしょうか?

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 因みにワタシは一昨年、アメリカでリー将軍像の破壊事件が頻発し、「風と共に去りぬ」の映画の上映が中止される騒動が起きたのを機会に、数十年ぶりにこの本を読み返しました。

 するとそれまで単なる背景でしかなかったスカーレットの父親ジェラルドの生き方に興味をそそられました。
 それはワタシがネトウヨになって、移民や移民の在り方に興味を持つようになっていたからです。

 移民の受け入れが国益になるか否かは、結局移民がいかに移民先の国に適応するかによって変わります。
 アメリカが国家として成功したのは、これまでアメリカに移民した多くの人々が、ジェラルド・オハラのような生き方を選んだからでしょう。

 しかし在日コリアンやアメリカのコリアンコミュニティーを見ていると、ジェラルドのように民族の誇りと新しい祖国への愛国心を共存させることができる民族ばかりではないのもわかります。

 アメリカが現在移民の受け入れに対して懐疑的になり始めたのも、民族や出身国に執着して、アメリカを利用するだけの移民が増えたからでしょう。
 
 今後、日本にも移民が入り込みます。
 日本人もこうした問題を考えざるを得なくなりました。 

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2019-08-21 10:16

ムーミンパパは凄腕スパイ? 「バルト海のほとりにて」

  少し前ですが「バルト海のほとりにて」と言う本を読みました。
 著者は小野寺百合子は、ムーミンシリーズや「長靴下のピッピ」など北欧の児童文学の翻訳で有名な人です。

 彼女はこの他にも、夫と共にスウェーデンの女性運動家エレン・ケイの「恋愛と結婚」始め、スウェーデンの思想や哲学に関する本や論文を多数翻訳しています。

 「バルト海のほとりにて」には彼女がスウェーデンと更にバルト海を挟んで対岸にあるラトビアに暮らした頃の話が描かれています。

 こう書くと完全なお花畑パヨク本のようなイメージですよね?
 でもここで描かれているのは、第二次大戦前から戦中に至る日本軍の北欧での情報収集活動です。

 このころ世界中で活躍したスパイの中でも最も優秀と言われたのが、1935~1936年までラトビアの
、そして1940年から終戦までスウェーデンの駐在武官を務めていた小野寺信でした。

 その妻がムーミンの翻訳をした小野寺百合子なのです。
 彼女は妻の立場から、小野寺信の情報活動を描いたのです。

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 駐在武官が集めた情報をまとめて日本に送る報告書も、また日本から武官達に送られる指令の多くは秘密情報として暗号化されます、
 
 ドイツやアメリカなど複数の武官が駐在する国では、報告書の暗号化や指令書の暗号解読を専門に行う暗号要員も駐在します。

 しかし駐在武官が一人しかいない国では、妻がこの仕事を行うのです。
 
 その為、百合子は夫の報告書や日本から指令書を精読する事になり、夫の情報収集活動の全容を知る事になりました。
 それだけでなく百合子はまた信が情報源とした人々の多くとも、夫と共に交際していました。 その為彼等の人となりもまたよく知る事になりました。

 前記のように小野寺信は当時のスパイの中でも最優秀と言われる程優れた情報収集活動をしていたので、戦後彼に当時の事を書き残してほしいという依頼は多数ありました。
 しかしなぜか彼はなぜか自身がそれを書く事は好まず、結局妻の百合子がこれを書き残す事になったのです。
 それが「バルト海のほとりにて」なのです。

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 暗号処理と共に駐在武官の妻としての重要な仕事は、在留国の上流階級や他国の駐在武官や外交官との交際です。
 だから駐在武官や外交官は、ヨーロッパの上流階級の生活様式で暮らす事になります。
 そしてヨーロッパの上流階級の社交生活では、妻の役割が非常に重要なのです。

 その為、ラトビアでもスウェーデンでも百合子は、秘書、女中、料理人、子供の家庭教師など多数の家事使用人を使い、家事や育児からは完全に開放されていました。

 こうして百合子は、昼間は各国外交官や駐在武官の夫人達が集まるティーパーティーに、夜は夫同伴晩餐会や舞踏会に出席し、自身もまた再々晩餐会やティーパーティーを主催するという華やかな日々を送る事になりました。

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 実は小野寺信の情報の多くは、在留国の軍部や情報機関や各国駐在武官を通じて得た物でした。
 これには相手との強い信頼関係が必要ですが、しかしこうした信頼関係を築くには、まず多くの人々と幅広い交際をする事が不可欠なのです。

 例えば小野寺はラトビア勤務中にエストニア武官の信頼を得て彼を通じて、エストニアの情報機関からソ連情報を得られる体制を作りました。

 エストニアはソ連と国境を接している事から、多数の情報員を越境させてソ連に送り込んでいました。 
 彼等はソ連軍内部にまで入り込み、ソ連軍内部情報まで得ていたのです。
 
 そしてソ連がバルト三国に侵攻して、日本の外交官や駐在武官が撤退したのちも、エストニア人達は小野寺に重要情報を与え続けてくれました。

 このような体制を作るには、相手との強い信頼関係が必要ですが、しかしその信頼関係を築くには、まず多くの人々と幅広い交際をする事が不可欠なのです。

 スウェーデンでは勤務期間が長かった事もあって、スウェーデン王族や民間人までさらに広い人々と交際しました。
 
 彼はこれを通じてスウェーデン側から多くの便宜を図ってもらう事が出来ました。

 また最新式の暗号解読機の入手に成功し、これがアメリカ軍の暗号解読を可能にしました。

 そして最後にはスウェーデン王族から終戦工作を提案されます。
 スウェーデン国王が昭和天皇と連合国の間に入り、終戦に持ち込むという案でした。

 これが実現していれば原爆が落とされる事も、北方領土を喪う事もなかったでしょう。

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 このような小野寺信の交際を支えるのが百合子の仕事でした。

 因みに駐在武官や外交官の家事使用人には、必ずスパイが入り込むのと言うのが常識です。
 そこで舞踏会などで夫婦が長時間家を空けなければならない場合は、暗号解読書など重要書類は、半分は信が腹巻に入れて、残りの半分は百合子が帯芯に入れて持って行きました。

 その為、百合子は舞踏会もすべて和服で通しました。
 
 しかし夫婦揃って腹に暗号解読書を仕込んで出席する舞踏会とは・・・・・。 

 これは神経を使うでしょう? 
 サラリーマンの妻でも夫の上司夫人との交際なんか真っ平と言うのが普通なのに、国家機密に関わる情報収集に関わる交際に巻き込まれるなんて・・・・・。

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 そもそも小野寺信子は質実剛健な軍人家庭に育ち、夫と子供為に尽くすのが女性の役目と信じる古典的な良妻賢母でした。

 小野寺夫妻には4人の子供がいました。 
 信がスウェーデンに赴任した時は、信だけが先に出発し、百合子は家の始末をしてから出発する事になっていました。

 この時夫婦は学齢期の上の子3人を信の妹に預けて、末っ子だけを連れて行く事に決めていたのですが、百合子は子供達と別れるのが辛く、出発を一日伸ばしに伸ばし続けて、遂に信の友人から「奥さん、いつまでグズグズしているんですか!!」と叱咤されてしまいました。

 彼女はヨーロッパの上流階級夫人として社交界で華やかに暮らすより、糠味噌臭い女房として子供達と一緒に暮らす方が遥かに幸せな人だったのです。

 ともかくそれでも出発する事になった百合子は子供達に「お父さんだけでなく、私もお国為に奉公しなければならなくなったのだから仕方がない。」と言い残しました。
 そしてこの言葉は戦時下に両親と離れて暮らす子供達の心を支えたのです。

 もう、馬鹿フェミが見たら、怒り狂うような古典的な日本女性その者ですよね。

 しかしそれでも「お国の為に奉公する」と覚悟を決めた百合子は、スウェーデンでも暗号処理と社交生活に励みます。

 そして百合子はこれを通じて、多くのスウェーデン人と知り合い、彼等との親交を深めて行きました。 またこうしたスウェーデン人との親交を通じて、スウェーデンの文化の理解するようになりました。
 これにより百合子は後に、北欧児童文学や思想哲学の翻訳家となる事ができたのです。

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 小野寺夫妻がこうしてスウェーデン人達と築いた友情は、終生続きました。
 またスウェーデンへの愛着も終生続きました。

 夫妻は日本スウェーデン協会を設立し、スウェーデン文化の日本への紹介や、日本文化のスウェーデンへの紹介、日本スウェーデンの友好に尽くしたのです。

 小野寺夫妻はまた武官在任中に情報を提供してくれた人達とも、終生交際し続けました。

 その中の一人がポーランド人リビコフスキーです。
 彼は元々ポーランド軍参謀本部付情報将校でしたが、ドイツ軍のポーランド侵攻でポーランドが崩壊するとラトビアに逃れました。
 
 そこで小野寺の前任者だった日本の駐在武官に拾われて、武官事務員として勤務していました。
 しかし彼は元のポーランド情報部の持つネットワークから、ドイツ、ソ連について膨大な情報を得る事ができる男でした。

 このリビコフスキーを通じて、小野寺はドイツ軍のソ連侵攻の意図を知る事ができました。
 しかし当時の日本側はこれを信用しませんでした。
 
 当時日本の軍部は、ドイツがいつイギリスの上陸するかだけを知りたがっており、ソ連に侵攻する事など全く考えていなかったのです。
 
 なぜなら当時のドイツ駐在大使は、ヒトラーやリッペンドロップといつでも直接ヒトラーと話しができる程親密だったのです。
 そしてヒトラーが彼に「イギリスの上陸する」と明言していたので、日本側はそれを信じきっていたのです。

 なんのことはない駐独大使は、ヒトラーとリッペンドロップにまんまと騙されていたのです。

 一度騙されたら騙した相手を二度と信用してはいけないのに、日本はドイツのソ連侵攻後間もなくドイツの日独伊三国同盟を締結してしまいました。 

 リビコフスキー自身は亡命ポーランド軍人達がポーランド国外に作った自由ポーランド軍に所属していたのですが、日本が三国同盟に加盟し、ドイツと同盟関係になってからも続きました。

 しかしドイツの武官がリビコフスキーの存在に気づき、小野寺に彼の引き渡しを要求し始めました。 小野寺はしかし彼をイギリスに逃がしてやりました。

 リビコフスキーはイギリスに渡ってからも、別のポーランド人を通じて、小野寺に情報を送り続けてくれました。

 第二次大戦が終わりポーランドが共産圏に組み込まれると、多くのポーランド人が祖国を追われました。
 リビコフスキーも祖国に戻る事ができなくなり、カナダに移住しました。

 彼はカナダで貧しいポーランド移民を支援し、更にはカナダ政府を動かしてポーランド人のみならず貧し老人達の為のスウェーデン式の老人ホームを設立させることに成功したのでしたのです。

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 無残なのは、ラトビアの運命です。
 ソ連の侵攻で、ラトビアの指導層の殆どが殺害されました。
 またラトビアの総人口の20~30%が、ソ連に抑留されて過酷な生活を強いられた挙句、その殆どが衰弱死しました。
 そしてソ連崩壊までラトビアは完全に閉ざされてしまったのです。

 ラトビアだけでなくバルト三国は全て同様の運命をたどりました。
 こうしてみると共産主義国家に侵略されるとはどういう事かがわかり慄然とします。

 だから小野寺夫妻がラトビアで交際した人々の殆どは、ソ連に殺されたでしょう。 
 しかしそれでもソ連の手を逃れて亡命した人々は、祖国の解放を求めて活動を続けました。

 小野寺夫妻は彼等の活動も支援し続けました。

 このような小野寺夫妻の戦後を見ると、小野寺信の情報収集活動とは、当に彼の誠意その物であったと思えます。
 そして妻百合子も誠意に置いて、また知性に置いても夫に勝るとも劣らない人だったと言わざるをえないのです。

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 因みに小野寺百合子の翻訳の中で最も有名なのは、やはりムーミンシリーズですが、しかしムーミンの作者トウベ・ヤンソンはレズビアンでした。

 彼女はムーミン一家の居住地そっくりの孤島の、ムーミン屋敷とそっくりの家で、パートナーの女性と二人で暮らしながらこの作品を書いたのです。

 でもムーミン一家ってパヨクとLGBT活動家が、目の敵にする古典的な家族その物でしょう?
 小野寺百合子はムーミンを単なる児童書ではなく、深い哲学を含む本だと言います。 
 
 ムーミンママは夫を愛し、息子を愛し、そしてスナフキン始め、一家を取り巻く人々を愛し、彼等の喜びを自分の幸福とする専業主婦です。
 ムーミンシリーズの挿絵は全てヤンソン自身が描いているのですが、ムーミンママはいつもエプロン姿です。

 妻として母として生きた環境は全く違うけれど、百合子はムーミンママの生き方に深く共感したのかもしれません。

 それではムーミンパパは?
 ムーミンパパは若いころには大冒険をしたこともあるのですが、しかしママと結婚してからは職業不詳です。

 でもムーミンママが小野寺百合子の分身なら、ムーミンパパは百合子の夫のような凄腕スパイかも?

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 追記

 ワタシが「バルト海のほとりにて」を読んだのは、チャンネルクララでこの動画を見たからです。
 大変面白い動画だし、そう長くもないので、見ていない方はぜひご覧ください。


https://www.youtube.com/watch?v=1Y8kgTNijVI

 
https://www.youtube.com/watch?v=n2WjtHkli80

 
https://www.youtube.com/watch?v=hYC2OB4tGts

  1. 古本
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2019-07-16 14:59

イスラム寛容論への反論

 「イスラムは寛容である」と言う説は、よく聞きます。
 こうしたイスラム寛容論の典型は、オスマントルコ帝国とヨーロッパの一部の国の中世を比較して、イスラムが寛容であったというのです。

 しかし本当にイスラムは寛容なのでしょうか?
 ワタシは以前からイスラム寛容論は、そもそも論理の立て方自体がオカシイのではないかと思っていました。
 
 実は夕べナスタチウムさんの所で、こんな記事を拾いました。
 これが当にオスマントルコ帝国を例にとってのイスラム寛容論の典型でした。
 
 だからこれを例にとって、イスラム寛容論に反論していきたいと思います。

 この記事は非常に長大なので、全部は貼れませんが、とりあえずこの記事の著者が「イスラムは寛容」と言う論理のメインになる部分だけを貼ります。

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 オスマン帝国がキリスト教と共存できた理由

 征服される側の人々にも理由がありました。当時のシリアやエジプトには、合成論派のキリスト教徒が居住していましたが、彼らはビザンツ帝国本国からは異端とされ、迫害されていま

 神の言葉による「共存」の保障

 これに対してムスリムは、クルアーンやハディースの規定に則って、キリスト教徒やユダヤ教徒を同じ一神教を奉じる「啓典の民」とみなし、彼らの自治と信仰を認めていました。そのため、当地のキリスト教徒は、ビザンツ帝国の支配よりもムスリムの征服をむしろ歓迎したのです。
 もちろん、ムスリムは、単なる善意で、キリスト教徒の権利を認めたわけではありません。まず、キリスト教徒は、ムスリム政府に人頭税(ジズヤ)と呼ばれる税金を納める必要がありました。政治参加が制限されたり、教会の新築に制限があったり、裁判での証言能力がムスリムより劣るなど、さまざまな条件も課されていました。
 この制度は、オスマン帝国にも受け継がれました。非ムスリム(オスマン帝国の場合は、正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒が主要な非ムスリム共同体でした)は、こうした制限を受けいれつつ、帝国政府の庇護のもとで商業や学芸に従事したのです。

 スペイン――1492年に完遂したレコンキスタで完全にキリスト教世界となった――において迫害されたユダヤ教徒の集団を、オスマン帝国が受け入れたことは有名です。ユダヤ教徒たちは、その才能を帝国のために存分に発揮し、帝国に富や知識をもたらしました。

 自らの領域に異教徒の集団が集住し、共存を実現させた地域は、イスラム世界以外にも存在します。キリスト教世界で有名なのは、シチリア島でしょう。
 12世紀に成立したキリスト教国であるシチリア王国のもとでは、アラブ人ムスリムが多数、居住していました。これは、シチリア島を一時期ムスリムが征服していたゆえです。
 しかし13世紀にはいると、国王フリードリヒ2世はムスリム共同体を強制移住させ、これを契機としてムスリムは消滅してしまいます。シチリア王国での「共存」は、パワーバランスが崩れるとあっというまに崩壊するという歴史をたどったのです。

 これが、イスラム世界との大きな違いです。すなわち、イスラム世界では、非ムスリムの宗教共同体の存在が神の言葉によって保証されているので、共同体の消滅に至るような決定的な弾圧が起きにくいのです。
 こうした施策は、マイノリティに一定の権利を保障する点で、現代のアファーマティヴ・アクションと似ています。ただし、現代のアファーマティヴ・アクションは、マイノリティに、マジョリティ以上のポジティヴな評価を与えるわけですから、この点は逆になります。

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 つまりビザンチン帝国内のキリスト教徒同志の宗派争い、スペインのレコンキスタ後のユダヤ人迫害、そしてフリードリッヒ二世のシチリア王国を引き合いに出してイスラムは神の言葉によって非イスラムの共同体の存在が保障されているので、寛容と言うのです。

 しかしこれまず比較の対象がオカシイのです。

 この記事はまずビザンツ帝国内のキリスト教徒同志の宗派争いと、イスラム国家の政策を比較して「イスラムは寛容」と言います。

 確かにキリスト教の宗派争いは熾烈で、近世ヨーロッパでは血みどろの宗教戦争が続いたぐらいです。
 こうしたキリスト教内の宗派争いの熾烈さを見れば、キリスト教の不寛容さが際立ちますし、欧米のリベラリストもこれを強調したがります。

 けれども「異端は異教より憎し」と言うのは全ての宗教の問題で、宗派争いの熾烈さはイスラム教のシーア派とスンニー派でも同様です。
 更にアラウィー派などイスラム少数派への迫害は現在も酸鼻を極めており、それがシリア内戦の原因の一つになっているぐらいです。

 宗派争いを根拠にキリスト教の不寛容を問題にするなら、当然比較の対象とするべきなのはイスラム教の宗派争いであるべきです。

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 次にこの記事はスペインのレコンキスタ後のユダヤ人の迫害を例に挙げて、その迫害でスペインを逃れたユダヤ教徒を受け入れたイスラムは寛容と言います。

 しかしスペインのレコンキスタは、イスラム教のジハードと同じ宗教を理由にした制服戦争です。
 戦争の最中や戦争直後には、どんな場合でも虐殺や迫害は起きるのです。

 それまで殺し合いをしていた相手に、直ぐに寛容になれるわけもないから当然なのです。
 それでも征服戦争後に統治が安定すれば、そうした迫害は減少し寛容な統治へ移行するのが普通です。

 十字軍でさえもエルサレムを征服後、エルサレム王国を建国し、その統治が安定化して以降は、イスラム教徒の迫害などしていません。
 十字軍の騎士達の中には、自分の領地のイスラム教徒の女性と結婚した者も多数いたぐらいです。

 尤もスペインのレコンキスタの場合は、その直後からヨーロッパ全土を巻き込んでの宗教戦争に突入したので、寛容な統治への移行は非常に遅れる事になってしまいました。

 因みにスペインを追われたユダヤ人はイスラム世界だけでなく、ヴェネツィアやフランスなどにも移住しました。
 
 ヴェネツィアのユダヤ人政策など極めて寛容でした。 その為、ヴェネツィアのユダヤ人コミュニティーはその後ヨーロッパ最大になります。 
 しかし余りに寛大だったため、ユダヤ人のコミュニティーは間もなく消滅しました。 

 だって差別も迫害も殆どないのなら、ユダヤ人街に籠って暮らす必要がないからです。 そしてヴェネツィア人と一緒に暮らすようになれば、結局そのまま同化してしまうからです。

 征服戦争の直後の不安定期の迫害を理由に「不寛容」を問題にするなら、比較するべきはイスラム教徒による征服戦争後の政策でしょう?
 
 例えばオスマン帝国がコンスタンチノポリスを陥落させた時は、三日三晩の略奪が続き、その後生き残った市民は全て奴隷に売られました。
 戦勝地での三日間の略奪ってオスマントルコ帝国の兵士の権利なのです。
 そして敗戦国の国民もその略奪品として扱う事は、コーランが保障しているのです。

 軍隊の在り方がこれですから、オスマントルコ帝国の侵略や支配を受けた、ハンガリーなど東欧諸国やバルカン諸国ではオスマントルコは当に恐怖その物として認識されています。

 この恐怖支配に反抗すると、オスマントルコは更なる恐怖で応じました。

 兵士達の頭蓋骨が埋め込まれた不気味な石造りの塔。 セルビアにある「チェレ・クラ」

 こんな事をやっていて「寛容」な支配と言われても困りますよね?

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 少し脱線しますが、現在、シリア難民などイスラム諸国からの「難民」受け入れに対して、東欧諸国は激しく拒否していますが、これは歴史的にこれら東欧諸国にとって、イスラムが恐怖その物だったからです。

 フランスなど西欧のリベラリスト達は、近世イスラム諸国を植民地化した歴史から、その贖罪としての難民受け入れに熱心なのです。

 しかし東欧諸国は対外植民地など持ったこともなく、オスマントルコ帝国崩壊まで、イスラムの脅威にさらされ続けたのです。

 だから西欧の贖罪に付き合えと言われても、真っ平御免としか言いようがないでしょう?

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 そして最後にフリードリッヒ二世によるシチリアのイスラム教徒の強制移住ですが、これもそもそもこの記事の著者が悪意で曲解しているのではないかと思える話です。

 強制移住なんて言うとまるでスターリンのよるクリミアタタールやボルガドイツ人の中央アジアへの強制移住のようなイメージですが、しかしフリードリッヒ二世による強制移住は全く違います。

 まずこれらのイスラム教徒は総勢1万人程で、シチリア王国のイスラム教徒のごく一部でした。 
 そして彼等は山賊をしていたのです。

 フリードリッヒ二世この山賊を制圧した後、彼等に農地を与えて移住させたのです。
 彼等はフリードリッヒ二世の措置に感謝して、その後弓兵としてフリードリッヒの軍隊で活躍しますした。
 
 これはシチリア王国では何の違和感も持たれませんでした。
 フリードリッヒ二世の臣下には、元々多数のイスラム教徒がいたからです。
 
 記事にある通り、シチリア王国は元々イスラム教徒の支配下にあった南イタリアとシチリアを、ノルマン人の騎士達が制服して作った王朝です。
 このシチリアノルマン王朝は、支配下のイスラム教徒には極めて寛大でした。

 フリードリッヒ二世はその歴代ノルマン王朝の王の中でも、特に寛大でしかも非常に開明的な人でした。
 
 この余りに開明的な政策と、そしてフリードリッヒ二世がローマ法王領の北部にまで支配域を広げようとしたことで、ローマ法王と対立し続ける事になりました。
 それでもフリードリッヒ二世が存命中は、この対立はフリードリッヒ優位で終始します。
 しかし法王側はフリードリッヒの死後もその息子達に敵対し続けて、最後にフリードリッヒの息子達は全て倒されてノルマン王朝は終わりるのです。

 その後、この王国はフランスのアンジュー家に支配されるようになるのですが、この支配は過酷で直ぐに反乱が起きます。
 こうしてシチリア王国は混乱状態に陥りながら、衰退していきました。
 
 こうした混乱の中でシチリアのイスラムコミュニティーは消滅していったのです。
 
 しかし混乱状態の中で、マイノリティーへの迫害や虐殺が起きるのは、現在も同様です。
 オスマントルコ帝国崩壊の過程では、トルコ人によるアルメニア人の大虐殺も起きています。

 国家権力が安定している間は、国家権力が民族や宗教間の暴力を抑止しますが、国家権力が不安定になるとそういう事がちゃんとできなくなるので、こような虐殺も防止できなくなるのです。

 国家の政策と国家が機能が破綻して起きた暴力を同等比較されても困るのです。

 だからシチリアでのイスラムコミュニティーの消滅を、キリスト教の不寛容に結び付けるのは、間違っています。

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 そもそもオスマントルコ帝国の統治を元に、イスラムの寛容性を論じるのであれば、比較するべきはオスマントルコ帝国同様の多数の民族や宗教を抱えていた非イスラムの帝国でしょう?
 
 つまりロシアのロマノフ王朝やオーストリア・ハンガリー帝国、そして中国歴歴代王朝と、オスマントルコ帝国やムガール帝国を比較しなければ意味がないのです。 

 ロシアのロマノフ王朝やオーストリア・ハンガリー帝国も、多数のイスラム教徒が居住していました。
 
 しかしどちらの王朝も、イスラム教を差別も迫害もしていません。
 イスラム諸国がやっていたように、非イスラムにだけ人頭税を掛けるとか、イスラム教徒の優位を基本として生存を許すなどと言う政策はとっていないのです。

 勿論どちらも封建制の国ですから、階級による差別はありました。 また国家の政策ではなく民衆の個人レベルでの異教徒への忌避はありました。
 しかし国家としてキリスト教徒優位などと言う政策はとっていません。

 例えばカルムイクコサックと言われるコサックがいました。
 コサックはロシア皇帝の騎兵として活躍する事を条件に、様々な特権を持つ集団です。 このコサックの多くはウクライナ人の東方正教徒でした。
 
 しかしカルムイクコサックはモンゴル系の遊牧民族であるカルムイク人で、ラマ教徒でした。
 けれども彼等もまた他のコサック同様の特権を与えられていたのです。

 ロシアも歴史的には、東欧諸国同様、イスラム教徒の侵略に晒されてきた国です。 だからロシアは近代化して軍事的に優位を確立すると、隣接するイスラム教徒の居住域を征服支配するようになっていったのです。
 しかしそれでもイスラム教徒を迫害するような政策はとりませんでした。

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 またイスラム教が成立して以降の歴代中国王朝にも、多数のイスラム教徒が居住していました。
 しかしこうした王朝のどれ一つとして、イスラム始め宗教に対する差別政策や迫害政策はとっていません。

 清朝支配下のウィグルでは、宗教や言語などの民族アイデンティティは完全に保護されていたのです。
 清朝は支配下の主要民族の言語を公用語として認め、そうした言語で公文書を作成していたのです。
 ウィグル語もそうした公用語の一つでした。

 もう寛大さのレベルがオスマン帝国などとは全然違うのです。

 だってイスラム教ではコーランの中で、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対するイスラム教徒の優位が明記されています。
 そしてこのイスラム教徒の優位をいかに確保するかについては、イスラム法で事細かに定められています。
 イスラム法はコーランやハディースと同様、イスラム教では「神が定めた物」としされていますから、イスラム諸国ではこの法が施行されるのです。

 現在のイランなどこのイスラム法学者が、イスラム法に基づいて統治しているのです。

 更にコーランには「多神教徒は見つけ次第殺せ」と明記されているのです。
 これではカルムイクコサックなど皆殺しにされてしまいます。

 ここまで完璧に異教徒への差別と敵視が教理に規定されているのでは、異教徒への寛容と言うは、結局「イスラム教徒に従うなら生かしてい置いてやる」と言う話にしかならないのです。

 だからこの記事の後半で書かれているように、全て国民を宗教によって差別せず平等に扱う事は、イスラム教の教理に反するのです。
 そこで国民国家を作る上で、いかにこの教理を胡麻化すかに苦慮する事になるのです。

 一方キリスト教は唯一絶対の神を信仰する事ではイスラム教と同じですが、しかし聖書には異教徒との敵対や異教徒への差別を認めるような記述はないのです。 
 十字軍のような異教徒への敵対は、唯当時のキリスト教徒による解釈の一つでしかないのです。

 だからローマ法王が十字軍を反省する声明を出す事もできるのです。
 そしてキリスト教が近代国家の「法の下の平等」の障害になる事もあり得ないのです。
 
 まして仏教は他宗教の神さへ否定しません。
 これではもう異教徒と言う概念自体に意味がないのです。

 勿論日本でもキリスト教徒の迫害のように、仏教国でも宗教の迫害はありました。

 しかしそれはキリスト教徒が日本女性を奴隷にして売ったり、更にはスペイン王の力を背景に日本制服を企てたりしたからです。
 
 つまりオウム真理教と同様、完全な反社会勢力だから禁止するしかなかったのです。
 幾ら宗教の自由を尊重しても、テロを企てるような宗教は放置できるわけがないのです。

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 因みにワタシは最も宗教に寛容だったのは、古代ローマ帝国だったと思います。
 勿論古代ローマ帝国の時代には、まだイスラム教は存在しなかったんですが。

 ローマ人は30万の神々がいると信じていました。
 30万と言うのは日本の八百万の神々と同様で、数えきれないほど多数の神様がいるという意味です。

 そんなに沢山の神様がいると、全部を知る事はできません。
 それでローマ人は自分達が日頃崇拝しているジュピターやアポロンなど神々以外にも、自分達の知らない神様が沢山いると考えていたのです。

 だからローマ人は新しい領土を得ると、その地の神々もまたローマの神々と同様に祀りました。

 ローマ最高の神殿はカピトリーノの丘にあるジュピター神殿でした。
 ローマ皇帝が、この神殿の運営の最高責任者、日本の神社で言えば氏子総代を務めていました。

 ローマ人は新しい属州を得ると、このカピトリーノの丘のジュピター神殿に並べて、その属州の神の神殿を作ったのです。
 
 その為ローマが属州を増やすにつれてカピトリーノの丘には、沢山の神殿が並ぶようになりました。

 しかしユダヤ教の神殿は作られませんでいた。 
 なぜならユダヤ人達が拒否したからです。

 ユダヤ人は自分達の神がローマの神々と平等の扱いを受ける事が許せませんでした。
 なぜならユダヤ教の神は唯一絶対なのですから、他の神々の最高位に置かれても満足できないのです。
 ローマの神々も、他の属州の神々もすべて否定して、ユダヤ教の神だけを祀らない事が許せないのです。

 ローマのユダヤ統治は常識的に考えたら、至って公正な物で、ユダヤ人はローマの平和で多くの利益を得たはずです。
 しかしそれでも唯一絶対の神に執着する限り、ローマの支配を受け入れる事はできないのです。

 ユダヤ人は反乱を繰り返した挙句、ブチ切れたハドリアヌス帝が彼等をエルサレムから追放したのです。
 それで漸くユダヤ人の反乱は終わりました。

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 寛容って一方通行では意味がないんですよね?
 
 こういうの見ていると、ワタシは一神教って人類最悪の発明だと思います。

 自分が信じる神様を信仰するのは良いよ。
 でもそれで他の人達が信じる神様を否定するってダメでしょう?

 自分の神を信じる為に、他の人々の神を否定するのでは、信仰が諍いや憎悪の原因にしかならないのです。

 そしてその一神教の中でも最悪の一神教がイスラム教だと思うのです。

 こちらが幾ら寛容に迎え入れる気になっても、「多神教徒は見つけ次第殺せ」なんて教理を信じる人達が満足する事はないでしょう。
 だって彼等の神は、仏教や神道を信じるワタシ達を「見つけ次第殺せ」と言っているのですから、神様に従えば、幾ら親切にされても多神教徒は殺さなくちゃならないのですから。 

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2019-04-27 00:00

一体一路は東インド会社?

 中国の一帯一路政策は、イギリスの東インド会社と同様の植民地政策だそうです。
 つまり相手国の支配層を金で誑し込んで、植民地化するというのです。

 

 なるほどね。
 それでわかりました。

 ワタシは随分前ですが「マハラジャ歓楽と陰謀の日々、インド裏面史」と言う本を読みました。 
 それは植民地時代のインドのマハラジャの途方もない奢侈と、藩王国内での意味不明の権力闘争を描いた本でした。

 しかし何で植民地支配を受けている状態で、そんな途方もない奢侈に耽る事ができたのでしょうか?

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 ムガール帝国はサマルカンド出身の豪族バブールが、インドを征服して作った王朝です。
 バブールはチンギス・ハーンの後継者であったティムールの子孫であると名乗っていたので、その帝国はムガール、つまりモンゴル帝国を名乗ったのです。

 バブールがサマルカンドを後にしたのは、実はサマルカンド周辺での豪族同志の争いに敗れたからです。

 当時のインドは統一国家ではなく、小王国が群雄割拠している状態でした。
 しかしこうしたインド小王国の軍事技術は、サマルカンド周辺のそれに比べて格段に劣っていました。
 
 それでバブールはこうした小王国を難なく個別撃破していき、彼の存命中に現在のインドとパキスタンにあたる領域を、全て支配下に置き、ムガール帝国を成立させました。

 これは小王国の上にムガール帝国皇帝が乗っかるという形で、小王国の王様、つまりマハラジャはそのまま自分の王国を支配し続ていました。 
 これって日本の幕府と同じような形態なのですが、但し皇帝の支配力は江戸幕府は勿論、室町幕府に比べても弱体だったようです。

 だってムガール帝国皇帝には、全然権威がありません。
 ヒンズー教徒のマハラジャ達からすれば、異教徒でしかも外来の皇帝など、権威どころか本来ならアウトカーストなのです。
 しかも軍事的に絶対的に優越しているわけでもないのです。

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 だからイギリスが入り込む前、ムガール帝国の最盛期でも、マハラジャ達は皇帝への反乱を繰り返しました。
 またムガール帝国がモンゴル系遊牧民の特徴で、長子相続ではなく兄弟の中の実力主義での相続制を取っていた事から、皇帝が死ぬと殆ど必ず皇位継承をめぐって兄弟間の内戦を繰り返す事になりました。

 だから皇帝は常にモグラたたきのように、反乱や内戦を戦い続けました。

 東インド会社は、こういう世界に入り込んだのです。
 こういう世界であれば、商人が私兵を養うのも全然問題にされないでしょう?

 でもその私兵は次第に強大化して、インド最強の軍団となり、気がつけばムガール帝国皇帝の軍隊も全く敵わなくなるのです。
 
 でもこうしてみると、外国人が入り込んで、軍事力でインドを支配するというのは、イギリスもムガール帝国も同じでしょう?

 但しイギリスはムガール帝国より狡猾で、それに金を持っていたので、直接戦うよりマハラジャ達を金で抱き込む事にしたのです。

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 イギリスはマハラジャ達に地位と収入を保障してやり、その代わりに彼等の王国を完全にイギリスが支配して、搾取を恣にできるようにしたのです。
 イギリスからすればその搾取の上りを一部マハラジャに与えておく方が、反乱など起こされるより安上がりと言う計算だったのでしょうね。

 しかしそれで与えられた収入は、それまでの君主としてマハラジャの生活費をはるかに超える物でした。
 そして君主としての仕事、つまり統治や防衛に関する仕事も経費も、全部イギリスが抱えているわけですから、マハラジャ達は何もする事がなく、ただもう痴呆のような奢侈に耽るだけの存在になっていくのです。

 イギリスに抱え込まれる前のマハラジャ達は、日本の戦国大名のような状態だったのですから、収入を全部自分の奢侈に使い、歓楽に溺れて暮らす事などできませんでした。
 しかしイギリスが身分と収入を保障してからは、もう現実的な権力は全て喪い、遊んで暮らすより他にどうしようもなくなったのです。。
 
 そうなるともうマハラジャの反乱なんか全く起きなくなってしまいました。
 一方インドの民衆はひたすらイギリスに搾取され続けたのです。

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 イギリス賢い!!!

 だったら我もこれでくアル!!
 
 中国はこう思ったのでしょうね。
 中国と言う国は、元来戦争は余り強くないのです。 
 でも賄賂に関しては、まず間違いなく世界一と言える程の伝統があります。
 
 考えてみると中国は黄河文明発祥の時代から、何度も王朝が変わり、実は民族だって完全に入れ替わっているのだけれど、どの王朝でも絶対に絶えた事がないのが贈収賄です。

 中国の官僚制度など、官僚が賄賂を貰う事を前提に成り立っているぐらいです。
 それも廉官三代と言うレベルです。
 つまり清廉は官僚は、その3任中に得た賄賂で暮らせるのは3代目までと言う話なのです。

 そういう国であれば賄賂を相手国の支配層を抱き込むというのは、イギリス東インド会社ではなく「我が本家アル」と言いたいぐらいでしょう?

 実際、マレーシアのナジブ政権から鳩山由紀夫まで、親中派って皆中国の金で動いている人達なんですよね。

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 で、これで上手くいくんでしょうか?

 ワタシは無理だと思うのです。

 イギリスがマハラジャを金で抱き込む事でインドを支配できたのは、藩王国は民主制ではなく、王族を抱き込んでしまえば、それに反対する勢力などできよもなかったからです。

 でもマレーシアを見ればわかるけれど、賄賂でナジブ政権を抱え込んだら、国民がそれに怒って、マハティール首相が返り咲いてしまったのです。

 そしてイギリスのインド支配には、横槍を入れる第三国はありませんでした。
 イギリスは周到な国で、侵略政策を進める時には、邪魔をしそうな国々とは先に話をつけて、邪魔をさせないようにしておくのです。
 
 また常に良い同盟国を作っておいて、同盟関係にある間は、その同盟国をそれなりに大切にして、国家としての信用を確保しておくのです。

 イギリスはインド始め広大な植民を持ち、日の没する事のない大国だった時代でも、こうやって外交を駆使して自国の権益を守っていたのです。

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 しかし中国はどうでしょうか?

 中国には同盟国などないのです。
 それどころか国家としての中国を信用する国さへありません。

 それなのにアメリカに喧嘩を売ってしまったのです。 
 だから一帯一路にはアメリカとその同盟国が一斉に横槍を入れ始めたのです。

 実際、マハティール政権が対中政策を転換すると言ったら、日本は大歓迎です。
 
 アメリカは中国がこれまで大枚を貢いできたマドロゥ政権転覆を応援しています。

 そしてスーダンの親中政権も崩壊しそうです。
 こうなると中国はいつまでこの「東インド会社」を続けられるのでしょうか?

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 だからワタシは中国の一帯一路政策は遠からず破綻するんじゃないかと思います。
 でも油断してはいけません。

 一帯一路政策が破綻する前に日本がそれに呑み込まれて、大量の中国人が入り込んでしまえば、その後どうしようもなくなります。
 
 イギリスはインドを400年支配しましたが、しかし総人口4億人のインドに入り込んだイギリス人はたったの4万人でした。
 
 だからインド独立後、インドは簡単にイギリス人を排除できたのです。

 しかし今の日本に在留する中国人は、既にこの10倍を超えているでしょう?

 これが更に増えたら中国共産党が崩壊しても、排除は不可能だし、残り続ければその人数だけで日本の主権を脅かします。

 だから日本は中国共産党政権が崩壊するまで、絶対に油断してはいけないのです。
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