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2019-08-21 10:16

ムーミンパパは凄腕スパイ?

  少し前ですが「バルト海のほとりにて」と言う本を読みました。
 著者は小野寺百合子は、ムーミンシリーズや「長靴下のピッピ」など北欧の児童文学の翻訳で有名な人です。

 彼女はこの他にも、夫と共にスウェーデンの女性運動家エレン・ケイの「恋愛と結婚」始め、スウェーデンの思想や哲学に関する本や論文を多数翻訳しています。

 「バルト海のほとりにて」には彼女がスウェーデンと更にバルト海を挟んで対岸にあるラトビアに暮らした頃の話が描かれています。

 こう書くと完全なお花畑パヨク本のようなイメージですよね?
 でもここで描かれているのは、第二次大戦前から戦中に至る日本軍の北欧での情報収集活動です。

 このころ世界中で活躍したスパイの中でも最も優秀と言われたのが、1935~1936年までラトビアの
、そして1940年から終戦までスウェーデンの駐在武官を務めていた小野寺信でした。

 その妻がムーミンの翻訳をした小野寺百合子なのです。

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 駐在武官が集めた情報やそれに関する本国から指令など秘密情報は、当然ですが皆暗号化されます。
 
 ドイツやアメリカなど複数の武官が駐在する国では、報告書の暗号化や指令書の暗号解読を専門に行う暗号要員も駐在します。

 しかし駐在武官が一人しかいない国では、妻がこの仕事を行うのです。
 
 その為、百合子は夫の報告書や日本から指令書を精読する事になり、夫の情報収集活動の全容を知る事になりました。
 それだけでなく百合子はまた信が情報源とした人々の多くとも、夫と共に交際していました。 その為彼等の人となりもまたよく知る事になりました。

 前記のように小野寺信は当時のスパイの中でも最優秀と言われる程優れた情報収集活動をしていたので、戦後彼に当時の事を書き残してほしいという依頼は多数ありました。
 しかしなぜか彼はなぜか自身がそれを書く事は好まず、結局妻の百合子がこれを書き残す事になったのです。
 それが「バルト海のほとりにて」なのです。

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 暗号処理と共に駐在武官の妻としての重要な仕事は、在留国の上流階級や他国の駐在武官や外交官との交際です。
 だから駐在武官や外交官は、ヨーロッパの上流階級の生活様式で暮らす事になります。

 その為、ラトビアでもスウェーデンでも百合子は、秘書、女中、料理人、子供の家庭教師な度の家事使用人を使い、家事から完全に開放されていました。

 こうして百合子は、昼間は各国外交官や駐在武官の夫人達が集まるティーパーティーに、夜は夫同伴晩餐会や舞踏会に出席し、自身もまた再々晩餐会やティーパーティーを主催するという華やかな日々を送る事になりました。

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 実は小野寺信の情報の多くは、在留国の軍部や情報機関や各国駐在武官を通じて得た物でした。
 これには相手との強い信頼関係が必要ですが、しかしこうした信頼関係を築くには、まず多くの人々と幅広い交際をする事が不可欠なのです。

 例えば小野寺はラトビア勤務中にエストニア駐在武官と信頼を得て彼を通じて、エストニアの情報機関からソ連情報を得られる体制を作りました。
 エストニアはソ連と国境を接している事から、多数の情報員を越境させてソ連に送り込んでいました。
 
 彼等はソ連軍内部にまで入り込み、ソ連軍内部情報まで得ていたのです。
 
 そしてソ連がバルト三国に侵攻して、日本の外交官や駐在武官が撤退したのちも、エストニア人達は小野寺に重要情報を与え続けてくれました。

 このような体制を作るには、相手との強い信頼関係が必要ですが、しかしその信頼関係を築くには、まず多くの人々と幅広い交際をする事が不可欠なのです。

 スウェーデンでは勤務期間が長かった事もあって、スウェーデン王族や民間人までさらに広い人々と交際しました。
 
 彼はこれを通じてスウェーデン側から多くの便宜を図ってもらう事が出来ました。

 また最新式の暗号解読機の入手に成功し、これがアメリカ軍の暗号解読を可能にしました。

 そして最後にはスウェーデン王族から終戦工作を提案されます。
 スウェーデン国王が昭和天皇と連合国の間に入り、終戦に持ち込むという案でした。

 これが実現していれば原爆が落とされる事も、北方領土を喪う事もなかったでしょう。

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 このような小野寺信の交際を支えるのが妻の役目なのです。

 因みに駐在武官や外交官の家事使用人には、必ずスパイが入り込むのと言うのが常識です。
 そこで夫婦で長時間外出する時には、暗号解読書のような重要書類は、半分は信が腹巻に入れて、残りの半分は百合子が帯芯に入れて持ち歩きました。

 その為、百合子は舞踏会もすべて和服で通しました。
 
 しかし夫婦揃って腹に暗号解読書を仕込んで出席する舞踏会とは・・・・・。 

 しかしこれは神経を使うでしょう? 
 サラリーマンの妻でも夫の上司夫人との交際なんか真っ平と言うのが普通なのに、国家機密に関わる情報収集に関わる交際に巻き込まれるなんて・・・・・。

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 そもそも小野寺信子は質実剛健な軍人家庭に育ち、夫と子供為に尽くすのが女性の役目と信じる古典的な良妻賢母その物のような人でした。
 
 小野寺夫妻には4人の子供がいました。 
 信がスウェーデンに赴任した時は、信だけが先に出発し、百合子は家の始末をしてから出発する事になっていました。
 この時夫婦は学齢期の上の子3人を信の妹に預けて、末っ子だけを連れて行く事に決めていたのですが、百合子は子供達と別れるのが辛く、出発を一日伸ばしに伸ばし続けて、遂に信の友人から「奥さん、いつまでグズグズしているんですか!!」と叱咤されてしまいました。

 彼女はヨーロッパの上流階級夫人としての華やか生活より、味噌臭い女房として子供達と一緒に暮らす方が遥かに幸せな人なのです。

 ともかくそれで出発する事になった百合子は子供達に「お父さんだけでなく、私もお国為に奉公しなければならなくなったのだから仕方がない。」と言い残しました。
 そしてこの言葉は戦時下に両親と離れて暮らす子供達の心を支えたのです。

 もう、馬鹿フェミが見たら、怒り狂うような古典的な日本女性その者ですよね。

 しかしそれでも「お国の為に奉公する」と覚悟を決めた百合子は、スウェーデンでも暗号処理と社交生活に励みます。

 そして百合子はこれを通じて、多くのスウェーデン人と知り合い、彼等との親交を深めて行きました。 またこうしたスウェーデン人との親交を通じて、スウェーデンの文化の理解するようになりました。
 これにより百合子は後に、北欧児童文学や思想哲学の翻訳家となる事ができたのです。

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 小野寺夫妻はこうしてスウェーデン人達と築いた友情は、終生続きました。
 またスウェーデンへの愛着も続き、夫妻は日本スウェーデン協会を設立し、スウェーデン文化の日本への紹介や、日本文化のスウェーデンへの紹介、日本スウェーデンの友好に尽くしました。

 小野寺夫妻はまた武官在任中に情報を提供してくれた人達とも、終生交際し続けました。

 その中の一人がポーランド人リビコフスキーです。
 彼は元々ポーランド軍参謀本部付情報将校でしたが、ドイツ軍のポーランド侵攻でポーランドが崩壊するとラトビアに逃れました。
 
 そこで小野寺の前任者だった日本の駐在武官に拾われて、武官事務員として勤務していました。
 しかし彼は元のポーランド情報部の持つネットワークから、ドイツ、ソ連について膨大な情報を得る事ができる男でした。

 このリビコフスキーを通じて、小野寺はドイツ軍のソ連侵攻の意図を知る事ができました。
 しかし当時の日本側はこれを信用しませんでした。
 
 当時日本の軍部は、ドイツがいつイギリスの上陸するかだけを知りたがっており、ソ連に侵攻する事など全く考えていなかったのです。
 
 なぜなら当時のドイツ駐在大使は、ヒトラーやリッペンドロップといつでも直接ヒトラーと話しができる程親密だったのです。
 そのヒトラーが彼に「イギリスの上陸する」と明言していたので、日本側はそれを信じきっていたのです。

 なんのことはない駐独大使は、ヒトラーとリッペンドロップにまんまと騙されていたのです。

 一度騙されたら騙した相手を二度と信用してはいけないのに、日本はドイツのソ連侵攻後間もなくドイツの日独伊三国同盟を締結してしまいました。 

 リビコフスキー自身は亡命ポーランド軍人達がポーランド国外に作った自由ポーランド軍に所属していたのですが、日本が三国同盟に加盟し、ドイツと同盟関係になってからも続きました。

 しかしドイツの駐在武官がリビコフスキーの存在に気づき、小野寺に彼の引き渡しを要求し始めました。 小野寺はしかし彼をイギリスに逃がしてやりました。

 リビコフスキーはイギリスに渡ってからも、別のポーランド人を通じて、小野寺に情報を送り続けてくれました。

 第二次大戦が終わりポーランドが共産圏に組み込まれると、多くのポーランド人が祖国を追われました。
 リビコフスキーも祖国に戻る事ができなくなり、カナダに移住しました。

 彼はカナダで貧しいポーランド移民を支援し、更にはカナダ政府を動かしてポーランド人のみならず貧し老人達の為のスウェーデン式の老人ホームを設立させることに成功したのでしたのです。

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 小野寺夫妻にとって悲しいのは、ラトビアの運命です。
 ソ連の侵攻で、ラトビアの指導層の殆どが殺害されました。
 またラトビアの総人口の20~30%が、ソ連に抑留されて過酷な生活を強いられた挙句、その殆どが衰弱死しました。
 そしてソ連崩壊までラトビアは完全に閉ざされてしまったのです。

 ラトビアだけでなくバルト三国は全て同様の運命をたどりました。
 こうしてみると共産主義国家に侵略されるとはどういう事かがわかり慄然とします。

 だから小野寺夫妻がラトビアで交際した人々の殆どは、ソ連に殺されたでしょう。
 しかしそれでもソ連の手を逃れて亡命した人々は、祖国の解放を求めて活動を続けました。

 小野寺夫妻は彼等の活動も支援し続けました。

 このような小野寺夫妻の戦後を見ると、小野寺信の情報収集活動とは、当に彼の誠意その物であったと思えます。
 そして妻百合子も誠意に置いて、また知性に置いても夫に勝るとも劣らない人だったと言わざるをえないのです。

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 因みに小野寺百合子の翻訳の中で最も有名なのは、やはりムーミンシリーズですが、しかしムーミンの作者トウベ・ヤンソンはレズビアンでした。

 彼女はムーミン一家の居住地そっくりの孤島の、ムーミン屋敷とそっくりの家で、パートナーの女性と二人で暮らしながらこの作品を書いたのです。

 でもムーミン一家ってLGBTが目の敵にする古典的な家族その物でしょう?
 小野寺百合子はムーミンを単なる児童書ではなく、深い哲学を含む本だと言います。 
 
 ムーミンママは夫を愛し、息子を愛し、そしてスナフキン始め、一家を取り巻く人々を愛し、彼等の喜びを自分の幸福とする専業主婦です。

 妻として母として生きた環境は全く違うけれど、百合子はムーミンママの生き方に深く共感したのかもしれません。

 それではムーミンパパは?
 ムーミンパパは若いころには大冒険をしたこともあるのですが、しかしママと結婚してからは職業不詳です。

 でもムーミンママが小野寺百合子の分身なら、ムーミンパパは百合子の夫のような凄腕スパイかも?

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 追記

 ワタシが「バルト海のほとりにて」を読んだのは、チャンネルクララでこの動画を見たからです。
 大変面白い動画だし、そう長くもないので、見ていない方はぜひご覧ください。


https://www.youtube.com/watch?v=1Y8kgTNijVI

 
https://www.youtube.com/watch?v=n2WjtHkli80

 
https://www.youtube.com/watch?v=hYC2OB4tGts

  1. 古本
  2. TB(0)
  3. CM(4)

2019-07-16 14:59

イスラム寛容論への反論

 「イスラムは寛容である」と言う説は、よく聞きます。
 こうしたイスラム寛容論の典型は、オスマントルコ帝国とヨーロッパの一部の国の中世を比較して、イスラムが寛容であったというのです。

 しかし本当にイスラムは寛容なのでしょうか?
 ワタシは以前からイスラム寛容論は、そもそも論理の立て方自体がオカシイのではないかと思っていました。
 
 実は夕べナスタチウムさんの所で、こんな記事を拾いました。
 これが当にオスマントルコ帝国を例にとってのイスラム寛容論の典型でした。
 
 だからこれを例にとって、イスラム寛容論に反論していきたいと思います。

 この記事は非常に長大なので、全部は貼れませんが、とりあえずこの記事の著者が「イスラムは寛容」と言う論理のメインになる部分だけを貼ります。

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 オスマン帝国がキリスト教と共存できた理由

 征服される側の人々にも理由がありました。当時のシリアやエジプトには、合成論派のキリスト教徒が居住していましたが、彼らはビザンツ帝国本国からは異端とされ、迫害されていま

 神の言葉による「共存」の保障

 これに対してムスリムは、クルアーンやハディースの規定に則って、キリスト教徒やユダヤ教徒を同じ一神教を奉じる「啓典の民」とみなし、彼らの自治と信仰を認めていました。そのため、当地のキリスト教徒は、ビザンツ帝国の支配よりもムスリムの征服をむしろ歓迎したのです。
 もちろん、ムスリムは、単なる善意で、キリスト教徒の権利を認めたわけではありません。まず、キリスト教徒は、ムスリム政府に人頭税(ジズヤ)と呼ばれる税金を納める必要がありました。政治参加が制限されたり、教会の新築に制限があったり、裁判での証言能力がムスリムより劣るなど、さまざまな条件も課されていました。
 この制度は、オスマン帝国にも受け継がれました。非ムスリム(オスマン帝国の場合は、正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒が主要な非ムスリム共同体でした)は、こうした制限を受けいれつつ、帝国政府の庇護のもとで商業や学芸に従事したのです。

 スペイン――1492年に完遂したレコンキスタで完全にキリスト教世界となった――において迫害されたユダヤ教徒の集団を、オスマン帝国が受け入れたことは有名です。ユダヤ教徒たちは、その才能を帝国のために存分に発揮し、帝国に富や知識をもたらしました。

 自らの領域に異教徒の集団が集住し、共存を実現させた地域は、イスラム世界以外にも存在します。キリスト教世界で有名なのは、シチリア島でしょう。
 12世紀に成立したキリスト教国であるシチリア王国のもとでは、アラブ人ムスリムが多数、居住していました。これは、シチリア島を一時期ムスリムが征服していたゆえです。
 しかし13世紀にはいると、国王フリードリヒ2世はムスリム共同体を強制移住させ、これを契機としてムスリムは消滅してしまいます。シチリア王国での「共存」は、パワーバランスが崩れるとあっというまに崩壊するという歴史をたどったのです。

 これが、イスラム世界との大きな違いです。すなわち、イスラム世界では、非ムスリムの宗教共同体の存在が神の言葉によって保証されているので、共同体の消滅に至るような決定的な弾圧が起きにくいのです。
 こうした施策は、マイノリティに一定の権利を保障する点で、現代のアファーマティヴ・アクションと似ています。ただし、現代のアファーマティヴ・アクションは、マイノリティに、マジョリティ以上のポジティヴな評価を与えるわけですから、この点は逆になります。

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 つまりビザンチン帝国内のキリスト教徒同志の宗派争い、スペインのレコンキスタ後のユダヤ人迫害、そしてフリードリッヒ二世のシチリア王国を引き合いに出してイスラムは神の言葉によって非イスラムの共同体の存在が保障されているので、寛容と言うのです。

 しかしこれまず比較の対象がオカシイのです。

 この記事はまずビザンツ帝国内のキリスト教徒同志の宗派争いと、イスラム国家の政策を比較して「イスラムは寛容」と言います。

 確かにキリスト教の宗派争いは熾烈で、近世ヨーロッパでは血みどろの宗教戦争が続いたぐらいです。
 こうしたキリスト教内の宗派争いの熾烈さを見れば、キリスト教の不寛容さが際立ちますし、欧米のリベラリストもこれを強調したがります。

 けれども「異端は異教より憎し」と言うのは全ての宗教の問題で、宗派争いの熾烈さはイスラム教のシーア派とスンニー派でも同様です。
 更にアラウィー派などイスラム少数派への迫害は現在も酸鼻を極めており、それがシリア内戦の原因の一つになっているぐらいです。

 宗派争いを根拠にキリスト教の不寛容を問題にするなら、当然比較の対象とするべきなのはイスラム教の宗派争いであるべきです。

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 次にこの記事はスペインのレコンキスタ後のユダヤ人の迫害を例に挙げて、その迫害でスペインを逃れたユダヤ教徒を受け入れたイスラムは寛容と言います。

 しかしスペインのレコンキスタは、イスラム教のジハードと同じ宗教を理由にした制服戦争です。
 戦争の最中や戦争直後には、どんな場合でも虐殺や迫害は起きるのです。

 それまで殺し合いをしていた相手に、直ぐに寛容になれるわけもないから当然なのです。
 それでも征服戦争後に統治が安定すれば、そうした迫害は減少し寛容な統治へ移行するのが普通です。

 十字軍でさえもエルサレムを征服後、エルサレム王国を建国し、その統治が安定化して以降は、イスラム教徒の迫害などしていません。
 十字軍の騎士達の中には、自分の領地のイスラム教徒の女性と結婚した者も多数いたぐらいです。

 尤もスペインのレコンキスタの場合は、その直後からヨーロッパ全土を巻き込んでの宗教戦争に突入したので、寛容な統治への移行は非常に遅れる事になってしまいました。

 因みにスペインを追われたユダヤ人はイスラム世界だけでなく、ヴェネツィアやフランスなどにも移住しました。
 
 ヴェネツィアのユダヤ人政策など極めて寛容でした。 その為、ヴェネツィアのユダヤ人コミュニティーはその後ヨーロッパ最大になります。 
 しかし余りに寛大だったため、ユダヤ人のコミュニティーは間もなく消滅しました。 

 だって差別も迫害も殆どないのなら、ユダヤ人街に籠って暮らす必要がないからです。 そしてヴェネツィア人と一緒に暮らすようになれば、結局そのまま同化してしまうからです。

 征服戦争の直後の不安定期の迫害を理由に「不寛容」を問題にするなら、比較するべきはイスラム教徒による征服戦争後の政策でしょう?
 
 例えばオスマン帝国がコンスタンチノポリスを陥落させた時は、三日三晩の略奪が続き、その後生き残った市民は全て奴隷に売られました。
 戦勝地での三日間の略奪ってオスマントルコ帝国の兵士の権利なのです。
 そして敗戦国の国民もその略奪品として扱う事は、コーランが保障しているのです。

 軍隊の在り方がこれですから、オスマントルコ帝国の侵略や支配を受けた、ハンガリーなど東欧諸国やバルカン諸国ではオスマントルコは当に恐怖その物として認識されています。

 この恐怖支配に反抗すると、オスマントルコは更なる恐怖で応じました。

 兵士達の頭蓋骨が埋め込まれた不気味な石造りの塔。 セルビアにある「チェレ・クラ」

 こんな事をやっていて「寛容」な支配と言われても困りますよね?

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 少し脱線しますが、現在、シリア難民などイスラム諸国からの「難民」受け入れに対して、東欧諸国は激しく拒否していますが、これは歴史的にこれら東欧諸国にとって、イスラムが恐怖その物だったからです。

 フランスなど西欧のリベラリスト達は、近世イスラム諸国を植民地化した歴史から、その贖罪としての難民受け入れに熱心なのです。

 しかし東欧諸国は対外植民地など持ったこともなく、オスマントルコ帝国崩壊まで、イスラムの脅威にさらされ続けたのです。

 だから西欧の贖罪に付き合えと言われても、真っ平御免としか言いようがないでしょう?

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 そして最後にフリードリッヒ二世によるシチリアのイスラム教徒の強制移住ですが、これもそもそもこの記事の著者が悪意で曲解しているのではないかと思える話です。

 強制移住なんて言うとまるでスターリンのよるクリミアタタールやボルガドイツ人の中央アジアへの強制移住のようなイメージですが、しかしフリードリッヒ二世による強制移住は全く違います。

 まずこれらのイスラム教徒は総勢1万人程で、シチリア王国のイスラム教徒のごく一部でした。 
 そして彼等は山賊をしていたのです。

 フリードリッヒ二世この山賊を制圧した後、彼等に農地を与えて移住させたのです。
 彼等はフリードリッヒ二世の措置に感謝して、その後弓兵としてフリードリッヒの軍隊で活躍しますした。
 
 これはシチリア王国では何の違和感も持たれませんでした。
 フリードリッヒ二世の臣下には、元々多数のイスラム教徒がいたからです。
 
 記事にある通り、シチリア王国は元々イスラム教徒の支配下にあった南イタリアとシチリアを、ノルマン人の騎士達が制服して作った王朝です。
 このシチリアノルマン王朝は、支配下のイスラム教徒には極めて寛大でした。

 フリードリッヒ二世はその歴代ノルマン王朝の王の中でも、特に寛大でしかも非常に開明的な人でした。
 
 この余りに開明的な政策と、そしてフリードリッヒ二世がローマ法王領の北部にまで支配域を広げようとしたことで、ローマ法王と対立し続ける事になりました。
 それでもフリードリッヒ二世が存命中は、この対立はフリードリッヒ優位で終始します。
 しかし法王側はフリードリッヒの死後もその息子達に敵対し続けて、最後にフリードリッヒの息子達は全て倒されてノルマン王朝は終わりるのです。

 その後、この王国はフランスのアンジュー家に支配されるようになるのですが、この支配は過酷で直ぐに反乱が起きます。
 こうしてシチリア王国は混乱状態に陥りながら、衰退していきました。
 
 こうした混乱の中でシチリアのイスラムコミュニティーは消滅していったのです。
 
 しかし混乱状態の中で、マイノリティーへの迫害や虐殺が起きるのは、現在も同様です。
 オスマントルコ帝国崩壊の過程では、トルコ人によるアルメニア人の大虐殺も起きています。

 国家権力が安定している間は、国家権力が民族や宗教間の暴力を抑止しますが、国家権力が不安定になるとそういう事がちゃんとできなくなるので、こような虐殺も防止できなくなるのです。

 国家の政策と国家が機能が破綻して起きた暴力を同等比較されても困るのです。

 だからシチリアでのイスラムコミュニティーの消滅を、キリスト教の不寛容に結び付けるのは、間違っています。

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 そもそもオスマントルコ帝国の統治を元に、イスラムの寛容性を論じるのであれば、比較するべきはオスマントルコ帝国同様の多数の民族や宗教を抱えていた非イスラムの帝国でしょう?
 
 つまりロシアのロマノフ王朝やオーストリア・ハンガリー帝国、そして中国歴歴代王朝と、オスマントルコ帝国やムガール帝国を比較しなければ意味がないのです。 

 ロシアのロマノフ王朝やオーストリア・ハンガリー帝国も、多数のイスラム教徒が居住していました。
 
 しかしどちらの王朝も、イスラム教を差別も迫害もしていません。
 イスラム諸国がやっていたように、非イスラムにだけ人頭税を掛けるとか、イスラム教徒の優位を基本として生存を許すなどと言う政策はとっていないのです。

 勿論どちらも封建制の国ですから、階級による差別はありました。 また国家の政策ではなく民衆の個人レベルでの異教徒への忌避はありました。
 しかし国家としてキリスト教徒優位などと言う政策はとっていません。

 例えばカルムイクコサックと言われるコサックがいました。
 コサックはロシア皇帝の騎兵として活躍する事を条件に、様々な特権を持つ集団です。 このコサックの多くはウクライナ人の東方正教徒でした。
 
 しかしカルムイクコサックはモンゴル系の遊牧民族であるカルムイク人で、ラマ教徒でした。
 けれども彼等もまた他のコサック同様の特権を与えられていたのです。

 ロシアも歴史的には、東欧諸国同様、イスラム教徒の侵略に晒されてきた国です。 だからロシアは近代化して軍事的に優位を確立すると、隣接するイスラム教徒の居住域を征服支配するようになっていったのです。
 しかしそれでもイスラム教徒を迫害するような政策はとりませんでした。

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 またイスラム教が成立して以降の歴代中国王朝にも、多数のイスラム教徒が居住していました。
 しかしこうした王朝のどれ一つとして、イスラム始め宗教に対する差別政策や迫害政策はとっていません。

 清朝支配下のウィグルでは、宗教や言語などの民族アイデンティティは完全に保護されていたのです。
 清朝は支配下の主要民族の言語を公用語として認め、そうした言語で公文書を作成していたのです。
 ウィグル語もそうした公用語の一つでした。

 もう寛大さのレベルがオスマン帝国などとは全然違うのです。

 だってイスラム教ではコーランの中で、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対するイスラム教徒の優位が明記されています。
 そしてこのイスラム教徒の優位をいかに確保するかについては、イスラム法で事細かに定められています。
 イスラム法はコーランやハディースと同様、イスラム教では「神が定めた物」としされていますから、イスラム諸国ではこの法が施行されるのです。

 現在のイランなどこのイスラム法学者が、イスラム法に基づいて統治しているのです。

 更にコーランには「多神教徒は見つけ次第殺せ」と明記されているのです。
 これではカルムイクコサックなど皆殺しにされてしまいます。

 ここまで完璧に異教徒への差別と敵視が教理に規定されているのでは、異教徒への寛容と言うは、結局「イスラム教徒に従うなら生かしてい置いてやる」と言う話にしかならないのです。

 だからこの記事の後半で書かれているように、全て国民を宗教によって差別せず平等に扱う事は、イスラム教の教理に反するのです。
 そこで国民国家を作る上で、いかにこの教理を胡麻化すかに苦慮する事になるのです。

 一方キリスト教は唯一絶対の神を信仰する事ではイスラム教と同じですが、しかし聖書には異教徒との敵対や異教徒への差別を認めるような記述はないのです。 
 十字軍のような異教徒への敵対は、唯当時のキリスト教徒による解釈の一つでしかないのです。

 だからローマ法王が十字軍を反省する声明を出す事もできるのです。
 そしてキリスト教が近代国家の「法の下の平等」の障害になる事もあり得ないのです。
 
 まして仏教は他宗教の神さへ否定しません。
 これではもう異教徒と言う概念自体に意味がないのです。

 勿論日本でもキリスト教徒の迫害のように、仏教国でも宗教の迫害はありました。

 しかしそれはキリスト教徒が日本女性を奴隷にして売ったり、更にはスペイン王の力を背景に日本制服を企てたりしたからです。
 
 つまりオウム真理教と同様、完全な反社会勢力だから禁止するしかなかったのです。
 幾ら宗教の自由を尊重しても、テロを企てるような宗教は放置できるわけがないのです。

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 因みにワタシは最も宗教に寛容だったのは、古代ローマ帝国だったと思います。
 勿論古代ローマ帝国の時代には、まだイスラム教は存在しなかったんですが。

 ローマ人は30万の神々がいると信じていました。
 30万と言うのは日本の八百万の神々と同様で、数えきれないほど多数の神様がいるという意味です。

 そんなに沢山の神様がいると、全部を知る事はできません。
 それでローマ人は自分達が日頃崇拝しているジュピターやアポロンなど神々以外にも、自分達の知らない神様が沢山いると考えていたのです。

 だからローマ人は新しい領土を得ると、その地の神々もまたローマの神々と同様に祀りました。

 ローマ最高の神殿はカピトリーノの丘にあるジュピター神殿でした。
 ローマ皇帝が、この神殿の運営の最高責任者、日本の神社で言えば氏子総代を務めていました。

 ローマ人は新しい属州を得ると、このカピトリーノの丘のジュピター神殿に並べて、その属州の神の神殿を作ったのです。
 
 その為ローマが属州を増やすにつれてカピトリーノの丘には、沢山の神殿が並ぶようになりました。

 しかしユダヤ教の神殿は作られませんでいた。 
 なぜならユダヤ人達が拒否したからです。

 ユダヤ人は自分達の神がローマの神々と平等の扱いを受ける事が許せませんでした。
 なぜならユダヤ教の神は唯一絶対なのですから、他の神々の最高位に置かれても満足できないのです。
 ローマの神々も、他の属州の神々もすべて否定して、ユダヤ教の神だけを祀らない事が許せないのです。

 ローマのユダヤ統治は常識的に考えたら、至って公正な物で、ユダヤ人はローマの平和で多くの利益を得たはずです。
 しかしそれでも唯一絶対の神に執着する限り、ローマの支配を受け入れる事はできないのです。

 ユダヤ人は反乱を繰り返した挙句、ブチ切れたハドリアヌス帝が彼等をエルサレムから追放したのです。
 それで漸くユダヤ人の反乱は終わりました。

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 寛容って一方通行では意味がないんですよね?
 
 こういうの見ていると、ワタシは一神教って人類最悪の発明だと思います。

 自分が信じる神様を信仰するのは良いよ。
 でもそれで他の人達が信じる神様を否定するってダメでしょう?

 自分の神を信じる為に、他の人々の神を否定するのでは、信仰が諍いや憎悪の原因にしかならないのです。

 そしてその一神教の中でも最悪の一神教がイスラム教だと思うのです。

 こちらが幾ら寛容に迎え入れる気になっても、「多神教徒は見つけ次第殺せ」なんて教理を信じる人達が満足する事はないでしょう。
 だって彼等の神は、仏教や神道を信じるワタシ達を「見つけ次第殺せ」と言っているのですから、神様に従えば、幾ら親切にされても多神教徒は殺さなくちゃならないのですから。 

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2019-04-27 00:00

一体一路は東インド会社?

 中国の一帯一路政策は、イギリスの東インド会社と同様の植民地政策だそうです。
 つまり相手国の支配層を金で誑し込んで、植民地化するというのです。

 

 なるほどね。
 それでわかりました。

 ワタシは随分前ですが「マハラジャ歓楽と陰謀の日々、インド裏面史」と言う本を読みました。 
 それは植民地時代のインドのマハラジャの途方もない奢侈と、藩王国内での意味不明の権力闘争を描いた本でした。

 しかし何で植民地支配を受けている状態で、そんな途方もない奢侈に耽る事ができたのでしょうか?

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 ムガール帝国はサマルカンド出身の豪族バブールが、インドを征服して作った王朝です。
 バブールはチンギス・ハーンの後継者であったティムールの子孫であると名乗っていたので、その帝国はムガール、つまりモンゴル帝国を名乗ったのです。

 バブールがサマルカンドを後にしたのは、実はサマルカンド周辺での豪族同志の争いに敗れたからです。

 当時のインドは統一国家ではなく、小王国が群雄割拠している状態でした。
 しかしこうしたインド小王国の軍事技術は、サマルカンド周辺のそれに比べて格段に劣っていました。
 
 それでバブールはこうした小王国を難なく個別撃破していき、彼の存命中に現在のインドとパキスタンにあたる領域を、全て支配下に置き、ムガール帝国を成立させました。

 これは小王国の上にムガール帝国皇帝が乗っかるという形で、小王国の王様、つまりマハラジャはそのまま自分の王国を支配し続ていました。 
 これって日本の幕府と同じような形態なのですが、但し皇帝の支配力は江戸幕府は勿論、室町幕府に比べても弱体だったようです。

 だってムガール帝国皇帝には、全然権威がありません。
 ヒンズー教徒のマハラジャ達からすれば、異教徒でしかも外来の皇帝など、権威どころか本来ならアウトカーストなのです。
 しかも軍事的に絶対的に優越しているわけでもないのです。

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 だからイギリスが入り込む前、ムガール帝国の最盛期でも、マハラジャ達は皇帝への反乱を繰り返しました。
 またムガール帝国がモンゴル系遊牧民の特徴で、長子相続ではなく兄弟の中の実力主義での相続制を取っていた事から、皇帝が死ぬと殆ど必ず皇位継承をめぐって兄弟間の内戦を繰り返す事になりました。

 だから皇帝は常にモグラたたきのように、反乱や内戦を戦い続けました。

 東インド会社は、こういう世界に入り込んだのです。
 こういう世界であれば、商人が私兵を養うのも全然問題にされないでしょう?

 でもその私兵は次第に強大化して、インド最強の軍団となり、気がつけばムガール帝国皇帝の軍隊も全く敵わなくなるのです。
 
 でもこうしてみると、外国人が入り込んで、軍事力でインドを支配するというのは、イギリスもムガール帝国も同じでしょう?

 但しイギリスはムガール帝国より狡猾で、それに金を持っていたので、直接戦うよりマハラジャ達を金で抱き込む事にしたのです。

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 イギリスはマハラジャ達に地位と収入を保障してやり、その代わりに彼等の王国を完全にイギリスが支配して、搾取を恣にできるようにしたのです。
 イギリスからすればその搾取の上りを一部マハラジャに与えておく方が、反乱など起こされるより安上がりと言う計算だったのでしょうね。

 しかしそれで与えられた収入は、それまでの君主としてマハラジャの生活費をはるかに超える物でした。
 そして君主としての仕事、つまり統治や防衛に関する仕事も経費も、全部イギリスが抱えているわけですから、マハラジャ達は何もする事がなく、ただもう痴呆のような奢侈に耽るだけの存在になっていくのです。

 イギリスに抱え込まれる前のマハラジャ達は、日本の戦国大名のような状態だったのですから、収入を全部自分の奢侈に使い、歓楽に溺れて暮らす事などできませんでした。
 しかしイギリスが身分と収入を保障してからは、もう現実的な権力は全て喪い、遊んで暮らすより他にどうしようもなくなったのです。。
 
 そうなるともうマハラジャの反乱なんか全く起きなくなってしまいました。
 一方インドの民衆はひたすらイギリスに搾取され続けたのです。

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 イギリス賢い!!!

 だったら我もこれでくアル!!
 
 中国はこう思ったのでしょうね。
 中国と言う国は、元来戦争は余り強くないのです。 
 でも賄賂に関しては、まず間違いなく世界一と言える程の伝統があります。
 
 考えてみると中国は黄河文明発祥の時代から、何度も王朝が変わり、実は民族だって完全に入れ替わっているのだけれど、どの王朝でも絶対に絶えた事がないのが贈収賄です。

 中国の官僚制度など、官僚が賄賂を貰う事を前提に成り立っているぐらいです。
 それも廉官三代と言うレベルです。
 つまり清廉は官僚は、その3任中に得た賄賂で暮らせるのは3代目までと言う話なのです。

 そういう国であれば賄賂を相手国の支配層を抱き込むというのは、イギリス東インド会社ではなく「我が本家アル」と言いたいぐらいでしょう?

 実際、マレーシアのナジブ政権から鳩山由紀夫まで、親中派って皆中国の金で動いている人達なんですよね。

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 で、これで上手くいくんでしょうか?

 ワタシは無理だと思うのです。

 イギリスがマハラジャを金で抱き込む事でインドを支配できたのは、藩王国は民主制ではなく、王族を抱き込んでしまえば、それに反対する勢力などできよもなかったからです。

 でもマレーシアを見ればわかるけれど、賄賂でナジブ政権を抱え込んだら、国民がそれに怒って、マハティール首相が返り咲いてしまったのです。

 そしてイギリスのインド支配には、横槍を入れる第三国はありませんでした。
 イギリスは周到な国で、侵略政策を進める時には、邪魔をしそうな国々とは先に話をつけて、邪魔をさせないようにしておくのです。
 
 また常に良い同盟国を作っておいて、同盟関係にある間は、その同盟国をそれなりに大切にして、国家としての信用を確保しておくのです。

 イギリスはインド始め広大な植民を持ち、日の没する事のない大国だった時代でも、こうやって外交を駆使して自国の権益を守っていたのです。

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 しかし中国はどうでしょうか?

 中国には同盟国などないのです。
 それどころか国家としての中国を信用する国さへありません。

 それなのにアメリカに喧嘩を売ってしまったのです。 
 だから一帯一路にはアメリカとその同盟国が一斉に横槍を入れ始めたのです。

 実際、マハティール政権が対中政策を転換すると言ったら、日本は大歓迎です。
 
 アメリカは中国がこれまで大枚を貢いできたマドロゥ政権転覆を応援しています。

 そしてスーダンの親中政権も崩壊しそうです。
 こうなると中国はいつまでこの「東インド会社」を続けられるのでしょうか?

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 だからワタシは中国の一帯一路政策は遠からず破綻するんじゃないかと思います。
 でも油断してはいけません。

 一帯一路政策が破綻する前に日本がそれに呑み込まれて、大量の中国人が入り込んでしまえば、その後どうしようもなくなります。
 
 イギリスはインドを400年支配しましたが、しかし総人口4億人のインドに入り込んだイギリス人はたったの4万人でした。
 
 だからインド独立後、インドは簡単にイギリス人を排除できたのです。

 しかし今の日本に在留する中国人は、既にこの10倍を超えているでしょう?

 これが更に増えたら中国共産党が崩壊しても、排除は不可能だし、残り続ければその人数だけで日本の主権を脅かします。

 だから日本は中国共産党政権が崩壊するまで、絶対に油断してはいけないのです。
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2019-04-19 12:43

フランスよお前もか!! ノートルダム寺院修復寄付金

 パリのノートルダム寺院の火災復興には、既に1000億もの寄付金が集まっているそうです。
 このような莫大な寄付金が早々と集まったのは、火災直後からフランスを代表する大富豪達が数百億単位での寄付を申し出たからのようです。

 ところがそれに対して奇妙な事を言う人達が出てきました。

 寄付と再建方法で論争 ノートルダム火災、仏社会結束ならず
 2019年4月19日 7時28分


 AFP=時事】「私は、この大惨事を結束の機会とする必要があると、強く信じている」──。エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)仏大統領は、パリのノートルダム大聖堂(Notre Dame Cathedral)で今週起きた大火災を受けたテレビ演説でこう表明したものの、この連帯感は2日と持たなかった。
 フランスでは15日夜に起きた火災を受け、各政党が欧州議会選に向けた選挙活動を停止した一方、大聖堂再建に向け集まった寄付をめぐる論争が17日までに勃発した。集まった寄付金8億5000万ユーロ(約1070億円)については、その一部が貧困層支援に使われるべきではないかとの声が上がっている。
 フランク・リーステール(Franck Riester)文化相は18日、仏ラジオ・モンテカルロ(RMC)に対し、「この無意味な議論は、『他に必要とされているところがある時に、ノートルダムに使うには多すぎる資金だ』というもの。社会システムや健康、気候変動対策のための資金が必要なのは当然だ」と指摘した上で、「だが、この並外れた寛大な行為の成り行きを見守ろう」と呼び掛けた。
 大聖堂の再建に対しては、フランソワ=アンリ・ピノー(Francois-Henri Pinault)氏やベルナール・アルノー(Bernard Arnault)氏をはじめとするフランスの大富豪や大企業がそれぞれ1億ユーロ(約130億円)を超える寄付を表明。しかし、「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト、gilets jaunes)」運動の抗議デモが5か月にわたり続くフランスでは、富の不平等と低所得者層の窮状に注目が集まっており、巨額の寄付は批判を呼んだ。
 寄付により大規模な税額控除を受けられることも反発の一因となっており、これを受けてピノー氏は、税額控除の権利を放棄すると表明。一方のアルノー氏は、18日の株主総会で寄付をめぐる論争について問われた際、「フランスでは(公益となる)何かをする時でさえ批判され、非常に悩ましい」と語った。
 また、保守派の政治家らは18日、大聖堂に近代的な建築物が加わる可能性に懸念を示した。政府はこれに先立ち、新しい屋根と尖塔(せんとう)のデザインを公募する計画を発表。マクロン氏は再建を5年で完了する目標を定め、「近代建築の要素も想像できる」と述べていた。
 極右政党「国民連合(National Rally)」のジョルダン・バルデラ(Jordan Bardella)氏は仏ニュース専門局LCIに、「この狂気の沙汰を止めよう。私たちはフランスの文化財を絶対的に尊重する必要がある」と述べ、「現代アートとやら」が加えられるかもしれないとの考えを一蹴した。

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その一部が貧困層支援に使われるべきではないかとの声が上がっている。

 多額のお金ですから、こうしたお金を欲しい団体や個人は多いと思います。
 そして寄付に対する税制に不満を持つのも自由です。

 でもこのお金は、ノートルダム寺院を修復するためと言う事で、寄付されたわけで、税収でも国家予算でもないのです。
 それを誰がどんな権限で他の目的に流用するのでしょうか?

 ノートルダム寺院の修復に一体どの程度の予算が必要かは、今のところ全く見当がつかない状況でしょう?
 
 現代の工法と素材を使って形だけ元通りにするなら、短期間に安上がりにできるでしょう。
 しかし消失した屋根と屋根組を、創建当時そのままの工法で、オーク材を使って組みなおし、さらに火災の熱で脆弱化した部分の石材もまた、中世そのままの工法で加工して、組み立てるなどと言う事にしたら、時間も費用もどれだけかかるかわかりません。 1000億でも全然足りなく可能性だってあるのです。

 いずれにせよ、他人がノートルダム寺院の修復の為に寄付したお金を、勝手に他所へ回せと言う発想も、また多額の寄付に腹を立てるという感覚にも呆れます。

 この人たちは他人のお金と自分のお金を区別できないのでしょうか?

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 でも文化財や美術品に関する寄付をすると、こういう目に遭う事が多いようです。
 日本でもこういう事はあったのです。

 山口県立美術館には日本で最高、世界有数の浮世をコレクションした浦上記念館と言うのがあります。
 これは山口県出身の浮世絵コレクターである浦上敏朗氏が、自身のコレクションと記念館の建設費を寄付して作られました。

 浮世絵は日本を代表する美術品なのですが、しかし元々が純然たる商業美術で、一般庶民が気楽に買う事ができるポスターやブロマイドのような物だったので、日本国内では大切にされる事はなく、幕末から明治初年にかけて、アッと言う間に西欧に流出しました。

 それで本格的な浮世絵コレクションを持っているのは、西欧人ばかりと言う状況でした。

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 それを私費を投じてせっせと買い集めて、日本では最高、世界有数のコレクションを作ったのが、浦上敏朗氏でした。
 
 浦上氏は元々は実業家で、一部上場企業の社長だったのですが、しかしそれで裕福になって絵画のコレクションを始めました。
 しかしそのうちそれにはまりプロの画商になってしまいました。

 こうして画商として様々な絵に接しているうちに、浮世絵の魅力に憑りつかれました。
 そしてその本格的なコレクションが日本にない事の問題に気付き、浮世絵のコレクションを始めたのです。

 海外に散逸した浮世絵を買い戻すのには、単にお金だけでなく、大変な労力がかかります。
 しかし彼はそれをライフワークとしてやり続けました。

 そして完成した自分のコレクションの散逸を防ぎ、長く日本の宝とするために、故郷の山口県の山口県立美術館に寄付する事にしたのです。
 その時、浮世絵の他にも陶磁器など浦上氏所有の美術品と、さらに美術品を展示収蔵するための、浦上記念館の建設費も寄付したのです。

 この経緯は浦上氏自身の著書「あるコレクターの生活」に書かれています。
 これは美術品のコレクションや価格に決定のメカニズムなどについても、色々書かれていて非常に面白い本です。

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 しかし驚いたのは、浦上記念館寄付の後に起きた事に関する顛末です。

 浦上氏としては、純粋に日本の宝である浮世絵を、日本で守り続ける事を意図して、この寄付をしたのです。

 少なくとも日本ではこうして寄付で、税金が大幅に控除されるとかそういう制度はないし、また浦上氏自身、浦上記念館と浮世絵のコレクションの価値に相当するような、税を払うほどの大富豪ではないのです。
 と言うより浦上コレクションは、浦上氏の資産の相当部分を占めるのです。

 そういう寄付であったにもかかわらず、この寄付が報道されて以降の社会の反応は、浦上氏にとって実に不愉快な物でした。

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 報道直後から浦上氏が聞いた事もない団体や個人から、寄付の依頼が相次ぎ、拒否すると激怒されました。

 そしてこのノートルダム寺院修復への寄付金騒動のように、「こんな事に使う金があるなら、もっと困った人を助けろ」と言う抗議の電話も多数来ました。

 中には「自分の息子が大学に合格したので、入学金を支払え」と言って、大学の口座番号を知らせた来た人間までいたそうです。

 そして遂には奥様が怯えて、警察に相談するような事態にまでなってしまいました。

 だから浦上氏もこの件については完全にブチ切れていて、「自分としては日本の為に、社会の為になると思って、かなり無理をして私財を寄付した心算だけれど、これで褒められた事も、良い思いしたことも一切ない」と書いていました。

 そうです。
 これじゃブチ切れて当然でしょう?

 ワタシとしては浦上氏の行為は、非常に立派な事で、100%称賛されるべきと思っていたので、この寄付に対する社会反応を書いた顛末は大変ショックでした。
 
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 しかしこれ日本だけじゃないんですね。

 「フランスよ、お前もか?!」

 「文化国家」フランスで、しかもフランス文化を象徴するノートルダム寺院修復への寄付に対する反応がこれですからね。

 この種の反応は、日本だけではなく世界共通なのでしょう。

 そしてこういう反応を見ると、文化事業だけではなく慈善事業に対する寄付でも、寄付をした人が匿名の望むのもわかります。
 高額の寄付をすると、同様の反応はいつでも起きるのでしょう。
 
 だから謙遜の為でも、また「右手で善行をしても、左手に言うな」と言うキリスト教の教えの為でもなく、寄付した人の安全を守る為には、こうした行為は匿名にするのです。

 哀しいですね。
 でもそれが人間なのです。

 そしてこうしてみると、金持ちが金を手放さない理由も、何となくわかります。
 だって寄付なんかしなければ、金がある事も目立たないし、そうなると文句も言われないのです。
 
 この世には、金を自分の為に使う分には、至って寛大だけれど、他人の為、公共の為に使うとなると、「それなら何でオレに寄こさないんだ!!」と思う人が多数いるという事でしょうか?

 或いは他人の金でも金を見てしまうと、それが自分の物と勘違いする人間が多いという事でしょうか? 

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 だったら「迂闊に金を手放す物じゃない」と思いますよね。

 金を手放せば金がある事が、可視化されてしまいます。
 そうなるとろくな目に遭わないのです。

 実際、このノートルダムの寄付金騒動でも、槍玉に上がるのは、高額の寄付をした人だけで、同じ金持ちでもそういう寄付をしない人達は、何も言われていないでしょう?

 それなら寄付なんかしない方が安全です。
  
 なるほどこれでは持てる者が善意を見せる事もできないのです。
 こういうのを見ると富の不均衡を産んでいるのは、持てる者の強欲ばかりではないのだと思わざるを得ません。


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2019-03-30 13:43

Mr.シンプソンの絶望 三角関数雑感

 前回学校と学校教育についてエントリーしたら、随分沢山のコメントをいただきました。

 それで直接関係があるかどうかはともかく、ワタシの愛読書ホーンブロワーシリーズを思い出したのです。

 これはナポレオン戦争時代のイギリス海軍軍人ホーンブロワーを主人公とした、海洋冒険小説です。 
 このシリーズは主人公ホーンブロワーが17歳で海軍士官候補生として、入隊するところから始まります。

 ホーンブロワーが海軍に入隊したのは、イギリスがナポレオンのフランスに対して大陸封鎖作戦を開始した頃ですから、19世紀の初頭です。

 この頃はイギリスでもまだ海軍兵学校と言う物はなく、士官になるには12歳前後から士官候補生として軍艦に乗船し士官の仕事を補助しながら、士官の仕事を覚えていき、そして一定の勤務経験を積むと、士官任官試験の受験資格が与えられます。
 そしてその試験に合格して初めて士官になれるのです。

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 因みに士官候補生は正規の士官ではなく、士官よりは下の階級ですが、しかし所謂下士官よりは上になります。

 例えば船の兵士の中の最高職務であるボースン(水夫長)は、操船には非常に重要な職務で、下士官の中でも最高の階級で、しかも最も有能で経験豊富な人が選ばれるのですが、しかし士官候補生の命令には従わなければなりません。

 士官候補生は艦内では、Mr.をつけて呼ばれます。

 正規の士官なら階級と姓で呼ばれるし、艦長始め艦内で役職に就けば、その役職と姓で呼ばれます。
 
 そして兵士は姓の呼び捨てですから、その兵士よりは上、しかし正規の階級も役職もないので、Mr.なのです。

 それにしてもこんなにも幼い頃から、人に命令して、自分自身と部下の生命にかかわるような仕事をやらされるというのは、大変厳しい話です。
 しかしこれが当時の軍隊の階級制と言う物なのです。

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 ともあれ彼等はこのような立場で士官に従って、その仕事を補助しながら、操船や砲術、兵士の扱い方を覚えていき、士官任官試験合格を目指すのです。
 
 つまり文字通り徹底した実地教育です。

 しかし士官の仕事で実地教育だけでは不可能な物が一つあります。
 それが航海術です。

 当時の航海術をマスターするには、三角関数始め少なくとも現在日本の高校数Ⅱ程度の数学の基礎知識が必要です。
 
 そこで艦長や航海士などが、勤務の暇を見て講義をしてくれます。
 
 しかし前記のように士官候補生と言うのは普通12歳前後で乗船するわけです。
 
 士官候補生と言うは、普通は中産階級程度の家庭の出身です。 
 例えばネルソン提督の父親は牧師だし、ホーンブロワーの父親は薬剤師です。

 そして艦長は自分の艦に乗せる士官候補生は、完全に自分の裁量で選べるのです。
 そこで普通、親がコネを使って艦長に我が子の採用を頼み込むのです。

 だから一定の教育を受ける事ができる環境で生まれた子が、本人と親の意思で士官候補生になるのです。

 でも12歳前後では、小学校算数以上は無理でしょう?
 イヤ、この時代は理系教育の体制は整っていないし、国民の関心も至って低いのです。

 だからラテン語に堪能で「ガリア戦記」を愛読していても、九九を知らないので掛け算はお手上げなんて人は普通にいました。
 勿論、分数や少数に至ってはその概念さへなかったでしょう。

 これでは高校数Ⅱどころか、小学校でも低学年のレベルです。

 こう言う教育環境で12歳前後まで育った子供が、その後正規の学校教育を受けないで航海術を学ばなくてはならないのです。

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 それで前記のように艦長や航海士が、暇を見て講義をしてくれるのですが、しかし士官候補生は年齢も勤続年数も様々なのです。 だから知識レベルも全然違うのですが、それに合わせて個別指導なんてしてくれるわけでありません。

 しかも一旦航海に出れば、参考書を買うとか、家庭教師を探すなんて不可能なのです。
 また勉強部屋など落ち着いて勉強する場所もありません。

 士官候補生はガンルームと呼ばれる、大砲のある部屋の一隅に、全員一緒に寝起きします。 そして交代制で夜昼なく、ワッチなどの勤務があります。
 凡そ落ち着いて勉強できる環境ではないのです。

 これで航海や戦闘の合間に、小学校3~4年レベルから最低でも高校数Ⅱぐらいまでの数学を理解して、それを応用した航海術を学ばなければならないのですから大変です。

 しかもこの時代はまだクロノメーター、つまり長期航海の間中正確に動き続けるような高性能の時計はありませんでした。
 その為太陽の南中時間から経度を出す事ができないのです。

 それで船の位置の測定には、現在より遥かに高度で複雑な計算法が必要でした。
 しかしそれでもどうしても出る誤差を予想して、それを修正するというこれまた大変な作業が必要だったのです。

 だからこの時代の航海術に要求される数学のレベルは、現代のそれより遥かに高度な物でした。

 ワタシは三流の工科大学の化学科卒で、趣味で数検1級を取ったので、数学は結構好きだし得意な方だとは思います。
 でもワタシはこの時代のイギリス海軍の士官候補生になっても、この状況で航海術をマスターする自信はありません。

 それでも航海術ができなければ、海軍士官の仕事はできません。
 だから士官候補生の内で、実際に士官任官試験に合格して、士官に任官できるのは、1~2割程度だったと言います。

 勿論、士官任官試験の受験資格を得る前に戦死や事故死や病死する場合も多いのですが。

 しかし何とか生き延びて士官任官試験を受け続けても、合格できないまま30過ぎ、40過ぎ、初老になる人も多かったのです。

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 ホーンブロワーシリーズの第一巻は、主人公ホーンブロワーが士官候補生として乗船するところから始まります。
 しかし彼は実は元々数学が好きで、乗船する前にかなり勉強していました。 それに17歳でしたから数Ⅱレベルなら十分クリアしていたのでしょう。

 それで彼は乗船直後から艦長の航海術の講義は、楽々と理解し、最初の講義でいきなり他の誰も解けない難問を一発で解いてしまいます。

 しかしそれを妬み憎悪したのが、先任候補生のMr.シンプソンでした。
 彼は既に30過ぎで、この艦の士官候補生の中では一番年かさでした。
 彼は度胸もあり、戦闘では勇敢で有能でした。 その上狡知にたけた凄みのある男で、しかもなかなかのイケメンだったのです。

 しかし如何せん数学は苦手だったのか、未だに艦長の航海術の講義には全くついていけないのです。
 だからいつまでたっても士官になれないのです。

 そこでホーンブロワーへの嫉妬と憎悪に燃えて、ありとあらゆる嫌がらせを行います。

 軍隊では同じ階級の場合は任官した順で上下関係になりますから、ホーンブロワーはひたすらこれに耐えるしかないのです。

 しかしそこは冒険小説の主人公ですから、それでもフランス軍相手の戦闘では手柄を立てて、洋々たる未来へと進んでいくのです。

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 でもね・・・・・ワタシはこのMr.シンプソンに心から同情しちゃうんですよね。

 彼自身も彼の両親も、息子を海軍士官候補生にしたときに、数学で苦労する事になるなんて全く想定外だったのでしょうね。 
 だってそもそも入隊するまで、数学の知識が必要になるなんて事さへ、考えてもいなかったのでしょう。

 前記のようにこの時代、上流階級でも理科系の教育はお粗末です。 そして教育を受けないという事は、そもそもその学問に才能があるかないかも、また何の為にそういう学問が必要かもわからないのです。
 
 だからこういう悲惨な事になってしまうのです。

 Mr.シンプソンは随分と陰険なやり方でホーンブロワーを虐めるのだけれど、でも彼の境遇とそういう境遇を産んだ原因を考えると、性格が歪んでしまう事にも同情せざるを得ないのです。

 一方この小説の作者であるセシル・スコット・フォレスターが主人公ホーンブロワーを17歳と言う当時の士官候補生としては例外的な年長で入隊させ、しかも数学が得意と言うキャラクターに設定したのは、自分の描くヒーローに数学なんかで苦労させたくなかったからでしょう。

 

 イギリスのこの種の小説はホントに面白いですね。
 
 冒険その物も面白いのですが、イギリス人には海軍マニア、歴史マニアが山のようにいます。
 それで単なる娯楽小説でも当時の海軍の状況や、当時の軍艦の構造や操船まで事細かに検証して、そういうマニアの鑑賞に堪えるように描かれているのです。

 だから歴史を学ぶ上でも最高の教材になります。
 そしてそれ故にこそ、元学習塾講師としては、Mr.シンプソンの絶望感も痛切に感じられるのです。

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