2017-07-26 14:08

ローマ皇帝マクシミヌス・トラクス 加計騒動で思い出す

  昨日買い物に出た時に、唐突にローマ皇帝マクシミヌス・トラクスの事を思い出しました。

 ローマ皇帝マクシミヌス・トラクスはAD2世紀末、ローマの辺境に生まれました。 両親は共に蛮族でした。

 しかしローマ軍に志願して兵士と働くようになると、抜群の才能を示し、セプティミウス・セウェルス帝に見いだされた事を皮切りに順調に軍歴を重ねました。
 
 彼は心身共に抜群に強壮で、しかも兵士達には絶大な人望がありました。

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 当時ローマの辺境ではゲルマン人の侵攻が常態化しており、ローマ国境周辺全体がベトナム戦争のような状況になっていました。
 
 その為皇帝は対ゲルマン防衛の指揮の為、辺境に貼りついて離れないられない状態になっていました。

 またローマ市民権を持った兵士だけによる正規軍だけでは兵力が足りず、国境周辺の蛮族出身の補充兵士も多数ローマ軍に加わっていました。

 こうした蛮族出身者も一定期間ローマ軍で戦えばローマ市民権を得られました。 マクシミヌス・トラクスの父親もこうした補充兵だったのでしょう。

 だからマクシミヌスは出自は蛮族でも、ローマ市民権があり、ローマ正規軍に入る事ができたのです。
 マクシミヌス同様、蛮族出身のローマ市民は、当時のローマの正規軍に多数いました。

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 このような中、AD235年、マインツで対ゲルマン防衛の前線指揮をしていた、時の皇帝アレクサンデル・セウェルスが暗殺されました。

 すると兵士達はただちにマクシミヌス・トラクスを皇帝に推挙しました。
 そしてこれを元老院も追認しました。 
 
 なぜなら前線で戦う軍隊にとって、指揮官の不在は、極めて危険です。 だから指揮官が死ねば一刻も早く替りの指揮官が必要なのです。

 そしてこの時、兵士達にとって最も信頼できる指揮官と思えたのがマクシミヌス・トラクスだったのです。 そこで彼等はマクシミヌスを皇帝に推挙したのです。

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 こうして皇帝となったマクシミヌスはこれまで対ゲルマン防衛政策を一転させます。 それまでの防戦一辺倒を止めて、積極的に敵地に入り込み、徹底的に攻撃するようになったのです。

 そしてこの作戦はマクシミヌスの抜群の軍事的才能により大成功しました。

 首都ローマには続々と戦勝の報せが届きます。
 
 ローマ軍のこのような華々しい戦果を聞かなくなって半世紀も経った後の快挙でした。

 後の歴史家は書いています。
 このままマクシミヌスが戦い続ければ、ローマ帝国と蛮族の力関係は激変し、ゲルマンの脅威を一層する事も可能だっただろうと。

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 このような連戦連勝の大戦果には、ローマの元老院と市民は熱狂するはず・・・・。
 
 しかし現実は違いました。

 ローマの元老院はマクシミヌス・トラクスに対する嫌悪と不満を募らせていくのです。

 で、何が不満?
 
 マクシミヌスは蛮族の生まれで辺境に育った卑賤の身で、教養もありません。
 
 塩野七生さんによると彼が元老院に送った報告書などを読んでも、いかにも無教養丸出し文書なのだそうです。

 門地を誇り教養に溢れた元老院議員達は、こんな人間が皇帝として自分達の上に立つのが我慢できなくなってきたのです。

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 そしてマクシミヌスが戦費増額の為の増税を要求した時、遂にこの不満が爆発します。

 こうした中アフリカ属州総督ゴルディアヌスが反乱を起こすと、元老院は直ちに彼とその息子を皇帝に推挙し、マクシミヌスを国家の敵と決議したのです。
 
 この事態に驚いたマクシミヌスはゴルディアヌスと戦うべく、対ゲルマン戦線を離れ首都ローマに向かいました。 そしてゴルディアヌスを倒しました。

 しかし元老院は別な皇帝を立ててマクシミヌスに対抗しました。

 このような状況でマクシミヌスに着いてきた兵士達は動揺し、結局マクシミヌスは彼等に殺害されてしまいました。

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 これで元老院はマクシミヌスを葬る事に成功したのですが、問題はその後です。

 マクシミヌスを殺害して元老院に従った兵士達は、直ぐに元老院が推挙していた皇帝の無能に気付いてに憤り、これを殺害してしまいます。
 そして兵士達は元老院に新しい皇帝を選ぶように要求しました。

 そこで元老院が選んだのは当時13歳のゴルディアヌス3世でした。
 
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 エッ? この国難に13歳のガキが皇帝に?
 何で元老院がちゃんとした大人を皇帝に推挙しないの?
 ガキに皇帝が務まるの?

 でもね、元老院議員は皆皇帝になるのイヤなんだよね。
 ハリウッド史観では、皇帝になりたいと言う野心に燃えた人間達が大勢いて、彼等が血みどろの権力闘争を続けたと言う事になっているけど、現実にはそう言う人間は殆どいないのよ。
 
 だって皇帝って暗殺とか多くて危険すぎるし、何よりこれに先立つ100年程の間、皇帝は殆ど国境に貼りついて蛮族との戦線を指揮しなくちゃならくなっているの。

 だから皇帝に成ったらローマでの快適な生活は諦めなくちゃならないの。 
 そして戦死と暗殺のリスク覚悟で、辺境で戦い続けなくちゃならないの。

 皇帝ってあんまり割の良い商売じゃないんだよね。

 だから皇帝には不満は言うけど、自分が皇帝になるのなんか絶対にイヤ!!と言うのが元老院議員の本心なの。

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 皇帝が後継者を決めないまま急死したような場合は、新しい皇帝はマクシミヌス・トラクスの即位のように前線の兵士達が勝手に推挙するか、元老院が自分達の中から新しい皇帝を選出する事になります。
 
 しかし上記のような有様ですから、元老院に皇帝選出のお鉢が回ってくると議員同士で「貴方どうぞ。」「イエイエ、ワタクシのような浅学菲才にはとてもとても・・・・。 貴方こそどうぞ。」と麗しい譲り合いの精神を発揮する事になります。

 だから前皇帝に息子や兄弟など男性の近親者がいる場合は、子供でも何でもいいからソイツに押し付けちゃう事になります。
 それがいない場合は、最高齢の元老院議員に押し付けます。

 それで未成年の皇帝とか、超高齢の皇帝とかが結構でてくるのです。

 マクシミヌス・トラクス帝が殺害された後も、散々この手のスッタモンダを続けて、ローマの政治と防衛はボロボロになりました。 その間にマクシミヌスが残した戦果も喪われていきました。

 イヤ、君達こんな馬鹿げたスッタモンダをするぐらいなら何でマクシミヌスを降ろしたの?

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 教養がない?
 生まれ育ちが悪い?

 そんなこと我慢しろよ!!

 そもそも皇帝の最大の仕事はローマの防衛なんだよ。 だから生まれ育ちの良い皇帝が欲しかったら、君達元老院議員が若い時から積極的に軍務に就いて、軍人として能力を養うべきだろう?

 それがイヤで、辺境の防衛を全部蛮族出身の兵士達に任せちゃっている以上、生まれ育ちが良くて教養があって、軍務の精通して兵士達の人望のある人材なんか生まれるわけはないんだよ。

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 勿論歴史上にはユリウス・カエサルみたいに抜群の知性と教養に溢れ、名門出身で、しかも軍事的能力は最高と言う人だっていました。

 しかし彼だって青年時代から長期の軍務経験があるのです。 いかに天才カエサルと雖も、何の経験もなしに優れた指揮官になれたわけではないのです。

 元々共和政時代からローマでは政治の最大の課題は、国防でした。 だから執政官始め重要な公職に就くには、軍務経験が絶対必要な条件だったのです。

 その為、元老院階級に生まれたら、青年時代に一度は軍務に就くのが常識でした。

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 けれども時代が下がるにつれてこれが段々うやむやになって行きました。

 そして遂には元老院階級の人間が軍務に就くことは禁止されてしまいます。
 
 これは後にローマ帝国滅亡の要因の一つとされるのですが、明確な理由は示されていません。 でも何となくわかります。

 辺境で厳しい軍務を続ける兵士達にしてみれば、履歴書に軍務経験を書きたいだけの為にローマから来る坊ちゃんなんか迷惑。
 そしてそもそも元老院階級の若者にすれば、軍務なんかホントは大嫌い。

 これで双方の利害が一致するのです。

 こうなるともうユリウス・カエサルのように生まれ育ちが良くて、教養のある軍人なんて出てくるわけもないのです。

 そして前線で皇帝が急死した時に、次に皇帝になるのはマクシミヌス・トラクスのような辺境生まれの叩き上げの軍人しかいなくなるのです。

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 それでも感情的には出自が悪く教養のない人間が皇帝になるのは我慢できない。  
 だからと言って、自分達が皇帝として軍を指揮する能力は全くない。 それを養う努力をする意思もない。

 自分にはできない、やる気もない事でも、人のやる事には文句を言いたいのは、人情の常だから仕方ありません。

 しかし元老院議員と言う重職にありながら、それでホントに有能な皇帝の抹殺までやってしまうのではどうしようもありません。

 けれども結局、元老院もローマ市民達もこれを反省する事もなかったのです。

 ゲルマン人相手にマクシミヌスのような戦果を挙げる皇帝は二度と現れませんでした。

 こうしてマクシミヌスの戦果が喪われた後、ゲルマンの脅威は更に深刻化し、ローマは衰亡の一途をたどる事になります。

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 塩野七生さんの「ローマ人の物語」は五賢帝時代以降は、帝国崩壊の無残な物語になって行きます。

 で、何で無残かといえば、結局こういうローマ人の堕落の話だから無残なのです。
 実につまらない理由で、自分で自分のチャンスを潰していくのです。

 マクシミヌスの出自が悪く教養がなくても、これほどの大戦果を挙げなければ、元老院議員達も彼等の自尊心を刺激する事はなかったでしょう。

 しかし愚劣な自尊心を国益に優先してしまう。 そして彼等の中には、仲間にそれを自制させようとする人間はいなかったのです。

 五賢帝時代以降のローマ帝国はにこのように弛緩し堕落した国家になっていたと言う事でしょう。

 支配階級がこんな人達ばっかりになっては、滅亡に向かうのは仕方ありません。

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 で、何でこんな話を思い出したかと言うと、ワタシがこの数日連続で加計騒動をエントリーしていたからでしょう。

 マスゴミや反安倍野党、そして自民党の一部までが安倍おろしに狂奔するのは、憲法改正反対など理由は色々あると思います。

 しかしあの愚劣なイチャモンその物のカケ・モリ騒動をみていると、彼等を動かしている物の本質は、実はこのマクシミヌスを降ろした元老院議員達と同じで物はないかと思えて仕方ないからです。

 
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2017-07-19 13:45

歴史から見る日本とイスラム

 カカシさんの所へこんなコメントをしている方がいました。

アラブ人というよりイスラム教徒とは日本は明治の頃から仲良くしていた。イスラム教やコーランに関する訳書や著書も結構あったと聞く。
日本文化は欧米文化とは、似てはいるが、ほかの神の存在を許さないキリスト教ではなくあらゆる神の並列した存在を許容する思想を根幹としているという点で根本的に違う。
見かけ上はかなり欧米化されているとは言っても実際には欧米の文化と日本文化とは異質なものである。

このような点から日本におけるイスラムの許容はかなり穏やかなものであった。

現在のイスラム諸国の様相を作り出したのはキリスト教国家であることを忘れては困る。


 これって日本の右派が伝統的に持ってきた典型的なイスラム観です。

 大アジア主義の流れを汲む日本右派のイスラム観をあんまり見事に表しているので、チョッと借りてきました。


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 こういうイスラム観ができた理由は、明治に遡ります。


 1908年、一人のイスラム教徒が敦賀港に降り立ちました。


 このイスラム教徒アブデュルレシト・イブラヒムはロシア国籍のタタール人でイスラム教のウラマー(教導師)でした。


 当時、ロシア国内のイスラム教徒の間では、ロシア政府の強硬なイスラム政策に対する不満が高まり、これに対する弾圧もまた強まりました。


 イブラヒムもまたこうした状況下でロシア脱出を余儀なくされてたのです。 


 彼はこれを期に大旅行を行うのですが、その時彼の心を最もひきつけたのは日露戦争でロシアに勝利した日本でした。


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 ロシアはそもそも建国以前からイスラム教徒とは対立していた歴史があります。


 ロシアの建国は10世紀末のキエフ大公のキリスト教化を起源とするのですが、それ以前から周辺のイスラム化した遊牧民の侵攻を防ぐ事が国家最大の課題でした。


 そしてモンゴルが世界を征服した頃、ロシアもイスラム化したモンゴルに征服支配されました。 このモンゴルの支配を受けた13~15世紀の間をロシア人は「タタールのくびき」と呼び、ロシア史上最大の屈辱と捉えています。


 しかしロシアがタタールのくびきから逃れ、ロマノフ家による中央集権体制を確立し以降、ロシアとイスラムの力関係は、徐々にロシア優位に変わって行きます。


 そして18世紀、ロシアが近代的な軍隊を持つようになって以降は、ロシア側から積極的に周辺のイスラム地域に侵攻し支配するようになりました。


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 当然ですがイブラヒム等、ロシアのイスラム教徒達は、このようなロシア政府に反発し強烈に憎悪しました。

 そしてロシアからの独立を要求する運動を始めたのです。


 ロシア政府は勿論こうしたイスラム教徒を厳しく弾圧したのです。


 また同時期、イギリスやフランスなどのヨーロッパ列強は、中東や北アフリカなどのイスラム地域の植民地化を着々と進行していました。

 

 ここでもイスラム教徒達はヨーロッパ人に反感を募らせて抵抗するのですが、近代国家を持たない彼等にはどうする事もできませんでした。

 

 どんな事をしても白人には勝てない・・・・・・。

 

 彼等はこうした無力感に苛まれるようになりました。


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 しかし突然、奇跡が起きたのです。


 日露戦争、日本勝利


 白人の大国ロシアがアジアの小国に負けた!!

 アジア人が白人に勝った!!

 白人は無敵ではなかった!!

 アジア人でも白人に勝てる!!


 イスラム諸国で日本への期待と憧れが爆発しました。


 だからエジプト人の詩人が日本の少女を称える詩を書いたり(実はこの詩人は日本人なんか見た事もなかったけれど)、トルコ人が息子をノギやオオヤマやトーゴーと名付けたりしました。


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 アブデュルレシト・イブラヒムもまた、このような感動の中で日本を訪問しました。


 そして日本に半年程滞在して、後にその時の体験記「ジャポンヤ」を出版しました。 


 元々こういう感動状態で日本を訪問した事もあるせいか、このジャンポンヤで描かれる日本はホントに素晴らしい、明治日本の理想図そのモノです。


 彼は日本滞在中、伊藤博文始め多くの政府要人から、一般庶民まで多くの日本人と交際し、また工場や学校から刑務所まで幅広く見学して、実に積極的日本を知ろうと努力しました。

 

 日本人の体格が貧相なのは、日本女性の乳房が小さいからだなんてトンチンカンな話も書いていますが、しかし全体から言えば大変合理的で正しい日本理解をしています。


 そして日本社会の秩序の正しさ、清廉さ、能率の良さ、教育レベルの高さに驚きます。


 また日本人の清潔さ、正直さ、勤勉さに感動しています。 

 

 そこで彼は考えたのです。


 「日本人をイスラム教化できる。 日本人こそイスラム化するのに最も相応しい民族だ。 日本人をイスラム化しなければならない。」と・・・・・。


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 ??

 なんか聞いた事がありますね?

 以前にも同じ事考えた人がいましたよね?


 ハイ、この人です。


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 聖フランシスコ・ザビエルもまた日本で布教をしたとき、「日本人は勤勉で正直で知的だから、キリスト教化できる。 だからキリスト教化しなければならない。」と考えたのです。


 か、勝手な事を言うな!!


 一神教の狂信者は皆同じですね。

 キリスト教やイスラム教なんか信じなくても、人は正直で勤勉であり、清潔で美しい国を作れるのなら、論理的にはそんな宗教は必要はないと言う事になります。

 

 イブラヒムに至っては自身の知るイスラム諸国の何処よりも、日本が優れていると思ったのですから、日本の宗教の方がイスラム教より優れていると言えるはずです。


 しかし一神教の狂信者は絶対にそういう結論は出せないようです。


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 ともあれこのようなイブラヒムに対して、日本人は極めて寛大に対応しました。


 特にアジア諸国が団結してヨーロッパと対決すべきと言う大アジア主義者達がイブラヒムを持ち上げました。

 

 そしてイブラヒムの訪日が契機になって、日本でのイスラム研究が始まりました。 またイスラムに改宗しメッカに巡礼する日本人も生まれました。


 一方このイブラヒムの著書「ジャポンヤ」は、イスラム世界で広く読まれて、ここに描かれた日本が、後にイスラム世界での日本観の基本になっていきました。


 イスラム世界のインテリは皆アラビア語ができますから、アラビア語で出版された本は、そのまま全イスラム世界で読まれるのです。


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 つまり最初に紹介したカカシさんの所へのコメントは、当にこの明治に生まれた日本の大アジア主義者のイスラムのイメージそのままなのです。

 

 実は現在に至っても、この明治のイスラム観をアップデートしてない人は大変多いのです。


 一方イスラム世界にもまだこのイブラヒムの作った日本観をアップデイトしてない人達もいるようです。


 なぜなら日本とイスラム世界の交流は近年まで非常に希薄で、敵対する事はなかった替りに、関係が親密化する事も全くなかったからです。


 関係が希薄だから敵対する理由が生まれないのです。 


 滅多に会う事のない相手なら、初対面の時の印象だけが残り続けるのと同じです。

 しかしこれはつまり、初対面以降相手への理解が一切深まっていないと言う話です。


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 ではこの麗しい日本のイスラム観、イスラムの日本観は、今後も守り続ける事ができるでしょうか?


 ワタシはこれは根源的に無理だと思います。


>日本文化は欧米文化とは、似てはいるが、ほかの神の存在を許さないキリスト教ではなくあらゆる神の並列した存在を許容する思想を根幹としているという点で根本的に違う。
>見かけ上はかなり欧米化されているとは言っても実際には欧米の文化と日本文化とは異質なものである。

このような点から日本におけるイスラムの許容はかなり穏やかなものであった。


 と言うのは全く事実ですが、しかしイブラヒムの意図を見ても明らかですが、日本がいくらイスラムを許容しても、イスラム側には日本の宗教を許容する意思は全くないからです。


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 日本は普通にイスラムの神アッラーの存在は認めますが、しかしイスラムは日本の神々を認める意思はありません。

 異教の神を認めたら、イスラムを全否定してしまいますから、絶対に認める事はできないのです。


 それどころかコーランには「多神教徒は見つけ次第殺せ!」とまで明記されているのです。


 それにしても「見つけ次第殺せ!」って凄すぎますよね? でもこれはムハンマドの言葉です。 そしてイスラム教ではムハンマドの言葉=神の言葉ですから、これは絶対に否定できません。


 イスラム原理主義が進行している事を考えると、イスラムが日本に牙を剥くのは時間の問題でしょう。

 実際、バングラディッシュのテロなどではすでに日本人が犠牲になっています。


 そして池内恵などは、これについて「日本の援助の仕方が悪いから現地の人の反感を買ったなんて議論は全く非論理的。 このテロは原因はイスラムにある。 だからどんな援助をしようと日本人はテロの対象になる。」と明言しているのです。


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 では現在の現実の日本のイスラム教徒達は、日本でどのように振る舞っているのでしょうか?


 日本のイスラム教徒の行動で一番わかりやすいのが富山コーラン事件です。

 

 富山県で在日パキスタン人の中古車販売店の近所に切り刻まれたコーランが捨てられていたことから、在日パキスタン人を中心にイスラム教徒が集まって騒乱状態になったのです。


 これについてこういう事を書いているブロガーがいます。


 在日パキスタン人は、このコーラン破棄を奇貨として、それを最大限に利用し、自分達への同情を集め、自分達の商業的利益の擁護と拡大を図り、日本国民を恫喝(筑波大学助教授殺人事件-後述)しているのである。あろうことか、よその国に来て、イスラム教徒であることをあたかも特権のようにふりかざし、イスラム教徒の立場を守れと主張している。思い上がりもはなはだしい。


 イスラム教徒は、自分達の宗教的不寛容さに気がついていない。むしろそれを棚に上げて、異教徒の寛容さにつけ込んで勢力を拡大してきた。今もし、反対に、日本人がカラチで鳥居を立てたり、仏像を作ったりしたらどういうことになるか。在留日本人が寺社の建設を求めてイスラマバードでデモをしたら、いったい、どういうことになるか。


 全くその通りです。


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 一方だけが幾ら寛容になっても、もう一方が完全に不寛容であれば、寛容を示した側が追い込まれるだけなのです。


 ところが大アジア主義のイスラム観をアップデートできない人々は、これを理解していないのです。

 そもそも彼等は実はイスラム教の教理などには一切関心はないのです。 これってイスラム教徒からすれば神への冒涜そのモノなのですが、彼等はそんなことは夢にも考えていません。

 

 彼等に限らず「寛容」を振り回す人々は、そもそも自分達が寛容であることへの自己満足に浸るばかりで、相手を見て理解しようとしないのです。


 しかし本当に相手を見手理解しようと言う努力を放棄した上で示す寛容が本当の寛容と言えるのでしょうか?


 勝手に相手を善人と盲信しての寛容なんて、結婚詐欺師の言葉を信じて金を貢ぐのと同じではありませんか?

 これを本当の愛情と言えますか?


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 そして日本人のイスラムへのシンパシーの根源は実は、欧米への敵意でしょう。

 最初に紹介したコメントでもこう述べられています。


>現在のイスラム諸国の様相を作り出したのはキリスト教国家であることを忘れては困る。


 しかしこれホントですか?

 

 この手の発想をする人が良く持ち出すのは、サイクス・ピコ条約です。 つまり第一次大戦後オスマントルコ帝国が崩壊した時、現在のシリア・ヨルダン・イラク等の国境を、フランス・イギリス・ロシアなどが、民族や宗教に関係なく自分達の利権確保の為だけを考えて引いた事が、この地域の混乱の原因だと言う説です。


 ええ、ヨーロッパ諸国が、確かにサイクス・ピコ条約で勝手にオスマン帝国を解体して分け取りした事は、事実です。


 サイクス・ピコ条約だけではなく、アフリカ諸国の直線で引かれた国境なども、当にヨーロッパの植民地主義の遺物です。


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 でもそれならそう言う人々に聞きたいけれど、例えば中東にどういう風に国境線を引いたら、民族問題が起きないのでしょうか?


 この地域はチグリス・ユーフラテス文明発祥の地を含み、人類で最も古い歴史を持つ地域です。

  

 しかしこの地域の歴史を見る限り、紀元前3000年まで遡っても、一つの民族だけが一つの地域を占めると言う安定した民族国家が存在した事はありません。


 多数の民族が入り混じり蝟集して住み、それを時々アレキサンドロス大王、古代ローマ帝国、十字軍やモンゴルやトルコような侵略者が掻きまわし、更に民族構成を複雑化すると言う歴史しかないのです。


 それを思えば近代になってのヨーロッパの侵攻も、こういう歴史の一部でしかなく、それで中東問題の全てが生まれたような発想は全くナンセンスなのです。


 これはアフリカ諸国も同様です。


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 ついでに言えば黒人奴隷狩りとか、十字軍のような宗教戦争とか、侵略戦争とか、白人の悪徳のように言われる事って、実はイスラム側も白人以上に熱心にやっています。


 そもそもイスラム世界が広がった最大の原因は、イスラム教成立以降にサラセン帝国が行ったジハード、つまり異教徒の征服戦争によるのです。


 ISISの目標はこのサラセン帝国の復活でした。


 彼等がやった異教徒の奴隷化なんて、サラセン帝国建国以降イスラム教徒が普通にやり続けてきた事で、イスラム教の教理には全く反しません。

 

 その奴隷制はヨーロッパの植民地支配で初めて禁止されたのです。


 イスラム教徒が奴隷制を非人道的だと反省して辞めたのではないのです。

 

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 このようなイスラム史を見る限り、白人悪、イスラム善、悪い事は全て白人キリスト教徒の責任なんて言うのはオカシイとしか思えません。


 こう言う反欧米主義って結局単なる白人差別でしょう?


 白人は悪い事をするからイスラム教徒やアフリカ人に憎まれる。 でも日本人は悪い事はしないから、上手くやれる。


 それって自惚れですよ。

 こういう自惚れの代償は大きいですよ。


 イヤ、ヨーロッパが現在、この自惚れの代償に苦しんでいるのです。


 オレタチはアジア人なんか違って寛容で善良な文明人だから、難民を受け入れて上手くやって行けるんだ。

 イスラム教徒とも共存できるぜ。

 オレタチのやり方だけが文明人のやり方だ!!

 日本はオレタチを見習えよ!!


 と思って難民を受け入れた結果、無残な事になっているではありませんか? 

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2017-07-03 16:00

ペリクレス一強 ギリシャ人の物語

 古代ギリシャ、アテネの黄金時代と言うのは、ペリクレスの時代です。
 彼こそはアテネの民主制を最高レベルにまで高めた人物であり、またアテネの経済・軍事力を最大限に拡張した人物でもあるのです。

 しかし一方でペリクレスを独裁者と言う評価もあります。
 ツゥキディテスは「戦史」の中で、ペリクレスの時代を「民主制と言いながら実は一人の男が支配した時代」と言っています。

 それではペリクレスの「独裁」とはどういうモノだったのでしょうか?

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 まずペリクレスの地位ですが、これはアテネの行政を仕切る10人の行政官ストラテゴスの一人でした。

 アテネは全部で10の選挙区に分けられており、この選挙区ごとに毎年選挙でそれぞれ一人ずつストラテゴスを選びます。

 アテネの行政はこの10人のストラテゴスが合議制で行います。

 ストラテゴス10人は全員平等な立場で、また日本の閣僚のように防衛大臣、厚生大臣、文科大臣などと言った仕事の守備範囲が決まっているわけでもありません。

  また戦争をする場合、ストラテゴスの中から指揮官が選ばれます。

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 因みにこの時代職業軍人と言うモノは、概念としてさえも存在していないので、シビリアンコントロールとかそういう発想はないです。
 
 ペリクレスも何度か軍の指揮官として戦場に赴いた事はありますが、しかし軍指揮官として能力は、「そこそこできる」程度でした。 

 親友で古代ギリシャを代表する悲劇作家ソフォクレスも同様にストラテゴスになり、軍を率いて戦った事もあるのですが、ペリクレスはソフォクレスよりは少しマシだったようです。

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 軍事的には特に才能はない。
 政治家としては10人のストラテゴスの一人にすぎない。

 それでは何でペリクレスが「一人の男が支配する時代」を作れたのでしょうか?

 まずペリクレスはストラテゴスに何と連続30回当選しています。

 34歳で初当選してから64歳で死ぬまで、延々と30年連続当選し続けたのです。
 このようなストラテゴスは他に居ませんでした。

 だから他のストラテゴスに比べて圧倒的な政治経験を持つ事になりました。 

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 またストラテゴス同志の意見が分かれた場合、また開戦やその他重要課題では、市民集会で採決します。

 この時、それぞれストラテゴスやまた一般市民が自分の意見述べる演説をするのですが、ペリクレスの演説は非常に説得力があって、殆どの場合ペリクレスの意見が通ったのです。

 つまり「一人の男が支配する」と言っても、ペリクレスの場合は完全にアテネの民主制を守り、その結果としてペリクレスの意見が通ると言う形での「支配」なのです。

 軍人としての能力は今一だし、そもそも支配権を持つ地位にいるわけでもない。
 しかし政治家としては他のストラテゴスを圧倒する能力と実績がああるので、結局皆ペリクレスの言う事に皆従う嵌めになる。

 これがペリクレスの独裁なのです。

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 ところでそのペリクレス当人は一切独裁的に振る舞わないばかりか、その真逆で保守派の人達の顰蹙を買う程、アテネの民主化に邁進します。

 ペリクレスがストラテゴスになった当時からアテネでは、所得や門地に関係なく全市民が参政権を持っていました。 

 しかし当時は公職には給与は出ませんでした。 それどころか職務遂行に必要な経費も出なかったようです。

 これだと幾ら被選挙権があっても、日々の生活の為に働かなければならない人々は、公職に就くことはできませんでした。 そこでペリクレスは一部の公職には給与を支給し、その生涯を通じて範囲を広げていきました。 これにより出来る限り多くの市民に政治参加の機会を与えようとしました。

 議員を無給にしろと言う意見は日本でも盛んですが、現実にはそんなことをすると議員に立候補できるのは富裕層か、或いは後ろに怪しげな支援者がいる人間だけになってしまいます。 

 しかしペリクレスの時代には、公職に給与を支払うと言う考えには相当な抵抗を持つ人が多かったようです。 例えばペリクレスの死後四半世紀余経ってから生まれたプラトンでも、これを「市民を物乞いにした」と非難しているのです。

 その意味でもペリクレスは当時としては、驚くほど民主的な政治家だったと言えます。

 唯しこれは穿った見方をすれば、ペリクレスはこのような政策で一般有権者を味方につけて、他のライバルの優位に立ったとも言えます。

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 ともあれこのように極めて民主化に熱心だったペリクレスですが、彼自身はアテネ一の名門で大富豪の生まれです。

 以前も少し紹介した事があるけれど、ペリクレスの提言で始まったパルテノン神殿の建設に反対意見が出た時、ペリクレスは「それなら今後神殿建設は私の自費で続ける。 その代り、完成したら『ペリクレスが建設した』と言う碑文を置く事にするが、それで良いか?」と言い返したのです。
 
 反対派はこれに負けてパルテノン神殿の建設はアテネの国費で続けられる事になりました。

 しかしこれで反対派が負けるのは、つまりはペリクレスにはその気になればパルテノン神殿の建設費を自費で賄う財力があったからでしょう。

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 現実を見るとペリクレスが民主化に励んだとは言え、アテネと言うのは大変な格差社会で、ストラテゴスのような最高クラスの公職に就けるのは大富豪だけでした。

 アテネの民主制が確立してからストラテゴスに就いた人間で、大富豪でなかったのはテミストクレスぐらいです。 

 テミストクレスはアテネ海軍を創設し、更にサラミスの海戦でペルシャ軍を破りアテネを防衛し、エーゲ海の制海権を確保してその後のアテネ繁栄の基礎を築いた人ですが、彼はソクラテスなどと同様の中産階級出身でした。

 このテミストクレスと言う人は、政治でも軍事でも人間離れした天才としか言えないんですよね。

 逆に言えば幾ら有能でも普通の人間である限り、資産なしにストラテゴスになる事は不可能な社会だったのです。

 だって給与が出ないばかりか政党助成金その他の経費も一切でないのです。 それどころか情報収集や海外首脳の交際に必要な経費なども全部自腹になるような制度ですから、到底貧乏人に勤まる仕事ではないのです。

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 因みにペリクレスは国内には民主化のチャンピオンとして振る舞うと共に、海外の首脳とはアテネ一の名門の当主であり、富豪として交友重ねました。 特にスパルタ王アルキモダスとは親友になり、アルキモダスは毎年ペリクレスの別荘に滞在すると言う関係でした。

 ペリクレスは外交ではこうした個人的縁故をフルに使って、アテネの国益を追求しています。

 そして曲芸のような凄い外交をやってアテネの植民地を拡大していったのです。
 
 アテネ市民はこのようなペリクレスの能力を評価して、30年連続当選、そして10人ストラテゴスの一人であるはずのペリクレスによる「一人の男の支配」と言う体制を支持していたのです。

204

 しかしこのペリクレスも最晩年に市民集会でストラテゴスを解任される事になります。

 ペリクレスの死ぬ二年前にペロポネソス戦争が始まりました。
 この戦争に着いて書き始めるときりがないので、原因等はここでは触れません。

 ともかくアテネが盟主であるデロス同盟と、スパルタが盟主であるペロポネソス同盟が全面戦争になったのです。
 
 そしてスパルタ軍がアテネ近郊の農村地帯を荒すようになりました。
 
 そこでペリクレスは安全の為に農村地域在住の市民を全員、アテネ市内の城壁の内側に避難させました。 アテネは実はこの時代から食料は自給不能で黒海沿岸やエジプトからの輸入に頼っていました。 
 
 海軍力で圧倒的なアテネは、全市民が市内に避難しても食料は幾らでも輸入できるのです。 しかし過密化した市内では公衆衛生が劣悪になり、疫病が発生しました。

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 ツゥキディテスはこの悲惨な有様を克明に描いているのですが、実は彼自身この疫病に罹ったのです。 
 ペリクレスはこの疫病で二人の息子と妹を喪いました。

 最富裕層でもこのような状態ですから、生活環境の悪い下層階級の市民からはどのぐらい犠牲者が出たか想像もつきません。

 余りにも死者が多かった為、火葬も埋葬も間に合わず、街中のそこここに遺体が放置されていたと言います。

 この悲惨さに耐えかねた市民達が、怒りにまかせてペリクレスを弾劾したのです。 「全てはペロポネソス戦争の開戦を提言したペリクレスの責任だ!!」と。

 ペリクレスはこの弾劾を一度は、いつものように冷静で見事な演説で跳ね返しましたが、しかし結局はストラテゴスを解任されて、しかも罰金まで課せられました。

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 こういうのを見ると思うのです、結局人間の忍耐には限界があり、幾ら理屈でわかっていても忍耐を超える悲惨な状態に追い込まれると理性なんか吹き飛ぶのだと。

 それまでペリクレスの見事な政治が評価されてきたのは、市民生活が安定しており、市民が冷静を喪うような状況に陥らなかったからだと。

 そうですよね。 街を歩いたらそこここに死体が放置されているような生活では、冷静でなんかいられるわけはないのです。

 因みにこの疫病はこの後も何度か繰り返してアテネを襲いました。

 そしてアテネがこの疫病による人口減その他のダメージから立ち直るのには15~16年を要したのです。 但しその間もペロポネソス戦争は続いていました。

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 けれども翌年、ペリクレスの選挙区は再度ペリクレスをストラテゴスの選出しました。 そしてその後、アテネ軍の勝利で罰金刑の方も有耶無耶になりました。

 しかしペリクレスここでペリクレスの命が尽きました。 病名はわかりませんが間違いなく病死でした。
 享年64歳でした。

 こうしてアテネのペリクレス一強時代は終わりました。
 
 その後、アテネにはペリクレスのような強力なリーダーは現れませんでした。 

 リーダー不在となったアテネはペロポネソス戦争を終結させる事ができなくなりました。 スパルタ側から何度か和平の申し入れはあったのですが、しかしその度に感情論から反対意見が出て和平案を蹴とばしてしまうのです。

 こうして延々と戦い続けた挙句に最後にスパルタに無条件降伏する事になってしまうのです。

 これが30年間アテネを支配した一人の男の物語です。

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 民主主義って何だ?

 しみじみ考え込んでしまいます。
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2017-06-09 23:01

辻褄が合わない 手塚治虫と在日コリアンの漫画

 手塚治虫が在日朝鮮人を主人公にした漫画を描いていたそうです。

 手塚治虫が描いた「在日」

 ワタシはこれは読んだ事がないので、このリンク先の依るしかないのですが、しかしこれ凄く違和感があるのです。

 ワタシが在特会の会員で、在日コリアンに好意を持っていないと言うのは事実ですが、しかしそもそも話しの辻褄が全然合わないとしか思えないのです。

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 この主人公は在日コリアンですが、帰化しており、それを隠して日本の大企業の重役になっています。
 
 まずこれが不思議です。
 大企業でなくても、一定規模の会社に就職するには、戸籍謄本を提出を求められます。 特に昔は絶対必要でした。

 戸籍謄本には、帰化した事実が明記されています。(蓮舫は戸籍謄本を公表できないw)
 だから朝鮮人だったことを隠して大企業に就職する事など不可能です。

 それとも彼はシン・ガンスのように日本人の戸籍を乗っ取ったのでしょうか?

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 またこの主人公は「第二次世界大戦中、日本軍により岐阜県瑞浪の戸狩山に強制連行され、地下壕(ながい窖)を掘らされていた」とのことです。

 つまり日本で生まれ育ったのではなく、朝鮮で生まれほぼ成人してから日本に来たのです。

 こういう人は日本語の発音で独特の朝鮮なまりがあって、簡単に朝鮮人だとわかってしまいます。
 こういう人達が日本人を装うのは絶対不可能です。

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 今は在日コリアンの一世は殆どが80代以上の高齢者です。 しかしこの漫画が出版された1970年代には、こうした強い朝鮮なまりの発音をする現役世代在日コリアンの一世が大勢いました。

 手塚治虫だってこういう在日一世の人達には、会った事はあるでしょうに。
 
 それなのに手塚治虫は、「朝鮮人であることを完全に隠して、日本の大企業の重役になった」などと言う設定を不自然だと思わなかったのでしょうか?

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 ストーリーも無茶苦茶です。

 主人公の娘が北朝鮮からの不法入国者の青年と一緒に、トラックにはねられて死んでしまいます。

 しかし警察に身元確認を求められた主人公は自分が朝鮮人であることを知られたくないばかりに、「友人の娘さんです。」と言ってしまいます。

 こ、こんな事で警察を誤魔化せるのでしょうか?
 
 「友人の娘さん」と言えば当然警察はその友人を探しますよね?
 だって人が一人死んでいるのです。
 身元確認をしない訳に行かないでしょう?

 こんな口から出まかせで誤魔化せるわけがないでしょう?

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 またこれに反発した息子は、父親の反対を押し切って朝鮮学校に行くと言う事になっています。 でも朝鮮学校の授業料って凄い高額なのです。

 息子は一体どこから授業料を工面したのでしょうか?

 こんな風に突っ込んでるときりがないのです。
 
 よくもまあこれだけ荒唐無稽な話しを・・・・・。
 
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 ワタシは1954年生まれなので、手塚治虫の鉄腕アトムが初めてテレビ放映された頃、子供としてそれを楽しみました。
 
 鉄腕アトムならどんなに荒唐無稽な話が出てきても構いません。 だって「空想」科学漫画ですから。

 しかし現実の社会を舞台にしているなら、こんなに出鱈目なご都合主義とつぎはぎで「在日コリアンの差別は不当!」と言われても、まずその話の出鱈目振りが目に着いて、ドンドン白けてしまいます。

 でも在日コリアン絡みの話って皆この類です。 言っている事は全く辻褄が合わないのですが、しかしとにかく「差別されてカワイソウ」と言う結論を出すのです。

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 ワタシが子供の頃は、実際在日コリアンへの露骨な嫌悪や差別がありました。 ワタシはその頃はそれを「酷い」と思っていました。

 そのワタシ自身が在日コリアンへ嫌悪と侮蔑を感じるようになったのは、実は30過ぎてからです。

 ワタシは30過ぎになって難病と診断されて、体調管理の為にも勤務時間の短い学習塾の講師になりました。

 学習塾の講師と言うのは、夜の仕事なので、午前中はひまです。 朝寝をした後、9~10時過ぎぐらいまでノンビリとテレビを見るのが日課になりました。

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 ところでその時間にNHKを見ると、やたらに在日コリアンに関する特集が多いのです。

 しかし彼等の話は全然辻褄が合わないのです。 一番不可解なのが「強制連行」の話です。

 だって奴隷狩りのように狩られて日本に連れてこられて、差別に苦しむと言いながら何で帰国しないのでしょうか?

 排除の思想でも何でもありません。 だって故郷には大切な家族がいるのです。 自由になれば何が何でも家族の元に帰りたいと思うはずではありませんか?

 しかしNHKの特集はこうした根源的な疑問には一切突っ込まず、辻褄の合わない強制連行の話を繰り返し放映するのです。

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 一方、非常に不愉快なのは、戦後に不法入国をした連中です。 不法入国は犯罪です。

 ところが彼等はその犯罪行為への反省はなく、「差別された」と日本と日本人を恨むのです。
 
 マルハンの社長などが典型です。
 
 苦労して大学を出たのに朝鮮人だから教師になれなかった。 差別だ!!

 馬鹿!!
 オマエは犯罪者だ!!
 何処の世界に犯罪者を教師にする国があるか?

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 こういう番組を見ていて、ワタシはだんだん在日コリアンに嫌悪と不信と侮蔑を抱くようになりました。

 因みに呉智英と言う人は手塚治虫の創造姿勢を「すべての価値観への不信」と評したのだそうです。
 
 ワタシは子供の時から、手塚漫画は結構読んでいますが、しかし全然そうは思えません。
 
 だって全ての価値観への不信を持つほど冷徹なら、「強制連行」なんて信用できるわけないでしょう?

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 ワタシはこの「強制連行」が喧伝されてから、在日コリアンと在日差別されてカワイソウを煽るマスコミを一切信用できなくなったのです。

 だって話しの辻褄が合わないんだもの!!

 朝鮮半島の総人口が2500万人だった時代に、240~840万人もの人間を、奴隷狩りのように狩って、日本へ連行した!!

 そんなことをしながら戦後一切問題になって来なかった!!

 こんな荒唐無稽な話を信じられるわけはないでしょう?

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 こんな話しを信じたのは、要するにその時代の空気に乗ったからではありませんか?(強制連行の空気

 こういう空気に乗りやすい事が、売れっ子になる理由でもあるのでしょう。 しかしそれはまた「全ての価値観を疑う」どころか、「流行の価値観は何も考えずに信じる」事でもあるのです。

 実際、手塚治虫の漫画って、当時の反体制絶対正義の価値観で貫かれているのです。

 だから彼は大人気だったのではありませんか?

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 しかしワタシはへそ曲がりなので、こういう感覚にはついていけませんでした。

 辻褄の合わない事は合わないとしか思えないからです。 でもこれじゃ漫画やアニメを楽しめませんよね?

 ワザワザこんなエントリーをしたのも、とにかくこういう辻褄の合わない話しを見ると気持ちが悪いので、どうしてもその辻褄の合わない事を説明したくなるからです。

 だからワタシは実は漫画もアニメも小学生で卒業しました。
 テレビドラマも好きじゃないです。

 こういう性質は損かもしれませんが・・・・・。
 
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2017-05-27 14:59

あるソマリア女性の半生 神との戦い

 昨日のエントリー「中世に生きる人々 イスラム」に、エピキュリアンさんが下さったコメントには「神殺し」の話が出ていました。

 ヨーロッパの近代化の過程とは、神殺しの過程であり、イスラム世界も近代化するのはこの神殺しが必要だと仰るのです。

 「中世に生きる人々 イスラム」のエントリーでも触れましたが、アヤー・ヒルシ・アリは個人でこの神殺しをやったのです。

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 アヤーン・ヒルシ・アリは1969年にソマリアで生まれました。
 ソマリアはイスラム教の国ですから、アヤーンも当然イスラム教徒として育てられました。

 そして自身も敬虔なイスラム教徒でした。

 しかし1992年、父親から意に沿わない結婚を強制されたことで、オランダへ逃げて難民申請をして、オランダで自活し始めました。

 そしてオランダの価値観を身に着ける過程で、神殺しをしたのです。

193

 彼女の自伝「もう、服従しない」は実は、神に服従しないと言う決意です。

 この自伝で非常に興味深いのが、彼女が神への服従を辞める=無神論者になるまでの自身の心理を描いた部分です。

 この為に彼女は必死で、ヴォルテールから始まって、スピノザなどヨーロッパの啓蒙思想や近代哲学を学び続けたのです。

 それは当にヨーロッパが近代以降、続けた神殺しの葛藤を個人で数年間の間に体験すると言う苛酷な物でした。

 こうした葛藤の末に彼女は遂に「もう 服従しない」と決意し、「自分は無神論者だ」と宣言したのです。

 しかしこの為に彼女は親族の全てから絶縁され、イスラム教徒達から、暗殺の危険に晒されるようになりました。 そして現在は暗殺の危険を逃れる為、完全に所在不明状態です。

195

 この神との戦いには、誰も勝てるわけではありませんでした。

 彼女の妹は、神との戦いに負けて狂死してしまいます。
 
 彼女の妹は、幼少時からアヤーンより遥かに奔放で、頭が良く、厳しい母親に反抗して自分のやりたい事は何でもやるタイプでした。

 アヤーンは母親に逆らう事ができず、家事を全て押し付けられて、一人でそれをやり続けるのですが、妹は完全に拒否し通すのです。

 しかしその奔放さの挙句に、キリスト教徒の男性の婚外子を妊娠してしまいます。 そして中絶した後、アヤーンの居るオランダに来て、アヤーン同様難民申請をして、オランダで暮らす事になるのです。

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 本来ならオランダでの自由な生活は、彼女のような奔放な女性にとっては願ってもない物のはずでした。 いや、本人もまた姉であるアヤーンもそう信じていたのです。

 ところがオランダに来てほどなく妹は精神状態がオカシクなります。

 難民収容所でまた妊娠して中絶するハメになります。 更に難民申請が認められて姉のアヤーンと暮らし始めると、今度は完全な無気力状態に陥ります。

 彼女はオランダに着てから、自由に生きられる事を喜ぶよりも、中絶をしたことで、神が自分を許さないのではと言う恐怖に苛まれるようになったのです。

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 それでも一旦は回復して、オランダの大学に入学しました。 実はアヤーンもオランダの大学に入学したのですが、しかしアヤーンは知能検査の結果、入学申請は直ぐに認められなかったので、専門学校へ行くと言う回り道をしなければなりませんでした。
 
 ところが妹は一発で入学を認められたのですから、知能検査の結果だけなら、アヤーンより遥かに優秀だったのでしょう。

 アヤーンは、妹は子供の時からアヤーンより遥かに学業成績が優秀だった、自分は妹の何倍も勉強したのに、妹程良い成績は取れなかったと書いています。

 アヤーンはこのような妹の大学入学を喜び、これで妹の将来への不安も消えました。

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 ところが入学後半年程したある日、大学から妹が精神病院に送られたと言う連絡が来ます。
 
 アヤーンが精神病院に駆けつけると、妹は全身打撲で顔は人相が変わる程腫れあがった姿になって、壁をクッションで覆った部屋に監禁されていました。

 妹は大学の寮で「アッラー アクバル」と叫びながら、全身を壁や床に打ち付け続けていたのです。

 そしてこれ以降、妹が正気に戻る事はありませんでした。

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 アヤーンは何んとか妹をオランダに置いて、オランダで精神病の治療を受けさせようとしました。 その為に献身的に妹の看護を続けました。

 親族達はこのようなアヤーンに感動し、父親はアヤーンへの勘当を解きました。 父の薦める結婚を拒否してオランダへ逃げた事で、アヤーンは父親から勘当され、部族全部からも放逐されていたのです。

 しかし一方で親族達は皆、妹は母親の居るケニアに戻し、親族達で介護するべきだと言い出しました。 妹がこのような状態になったのは、つまりは「不信心者たちのせいだから」と言うのです。
 
 そして結局妹は母親の下に帰りました。

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 しかし母親の家での生活でも症状は改善しません。 更にまたどうしてか妊娠してしまいます。

 妊娠が外見からもわかるようになった頃、ある嵐の夜に妹は、「神が自分を捕まえようとしている」と叫び母親の家を飛び出してしまいました。

 母親は人を集めて必死に娘を探しました。
 
 そして翌朝、下半身を血まみれにして倒れている彼女を発見しました。 嵐の中を走り回っている間に流産したのです。

 妹はその後、数日で死にました。
 
 アヤーンがケニアに駆けつけた時には、葬儀は終わり妹は埋葬された後でした。

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 この妹の狂死は、当に神との戦いの象徴でしょう。
 
 実は中世ヨーロッパの話を読んでいて、非常に不思議なのは、大凡敬虔とも信心深いとも思えないような生活をしている人々が、しかし絶対にキリスト教を棄教しない事です。

 例えばイスラムの海賊に捕まって奴隷にされた人々の殆どが、イスラム教に改宗して自由を得るよりも、キリスト教を守って苛酷な奴隷生活を選ぶのです。

 それでは彼等がそれまでキリスト教の教えを守って、正しく清らかな生活をしていたかと言えば全然そんなことはありません。
 女は買うのは当然、船乗りなら機会があれば自分達も海賊をやるぐらいは平気な人達なのです。

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 大体中世では、修道士や娼婦を買うなんて全然問題にもされなかったし、それどころか法皇が女を囲うのだって普通、本来なら絶対禁止のはずの男色を楽しむ法皇だっていたのです。

 中世の人々って現代人からすれば、恐ろしく暴力的で、短絡的で、嘘吐きで、しかも非常に利己的です。
 
 どう考えても現代の不信心な一般人の方が遥かに善良で寛容で思いやりがあり、キリスト教精神に適う生活をしているのです。

 しかしそれでも信仰はどんな事があっても捨てられないのが中世に生きる人々なのです。

 大凡イスラム女性らしからぬ奔放な生活を楽しんでいたアヤーンの妹が、最後まで神を捨てられず、挙句に狂死した事を見れば、こうした中世キリスト教徒の心理も何がしか理解できます。

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 それではアヤーン・ヒルシ・アリがなぜ神に勝てたのか?

 それは彼女が元来非常に真面目で真摯な性格で、少女時代から常に真正面から神と対峙してきたからだと思うのです。

 彼女の性格が見事に顕れるのがオランダへ来てからの生活態度です。

 彼女はオランダで難民申請が通り生活保護が支給されても、「自分には手も足もある」と働き始めました。 オランダの生活保護も日本と同様で、仕事をして収入を得るとその分支給額を減額されます。 

 一方オランダ語が不自由な人間ができる仕事は、単純労働で最低賃金程度の賃金しか得られません。 しかもパートタイムが殆どです。 だから殆ど難民はそのまま働かず生活保護に頼り続けるのです。

 しかしアヤーンはそれでも掃除婦や工場のパートタイムなどをして働くことを選んだのです。
 
 けれども彼女はこれによりオランダ語に習熟する共にオランダの社会を深く知るようになりました。
 
 またこれでオランダ語が完璧になった事で、後にソマリア語の通訳の仕事を得るようになり、これで収入が激増しました。

 このような真摯さと誠実さが彼女の特性なのです。

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 アヤーンはこのように真面目な人ですから、親やコーラン学校で教えられた事は真面目に信じました。 しかし真面目に信じれば、真面目な疑問が出てくるのです。

 例えばアヤーンがまだ9歳の頃、一家は父親の都合でサウジアラビアに移住します。 そこでアヤーン姉妹はメッカのコーラン学校に入るのですが、ところがそのコーラン学校の女性教師は、アヤーン姉妹を黒人としてあからさまに侮蔑するのです。

 また11歳からケニアに移り、思春期にはそこでイスラム原理主義に傾倒するようになります。 しかしそれで真面目にイスラム教の教理を学ぶと解るのは、イスラム教での女性の地位の低さです。

 更にイスラム原理主義者の若者達の集会に参加すると、彼等もまた女性をマトモに人間扱いする意思がない事を思い知らされます。

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 一方ケニアで彼女が通っていた学校の授業は英語だったので、彼女は英語の小説を楽しむようになっており、女性が一人前に扱われ、自由に恋愛をできる世界がある事も知っていたのです。

 またケニアでソマリア人達は難民として暮らしているのに、ソマリア人達はキリスト教徒のケニア人を「不信心者」として侮蔑している事にも違和感を持ち続けていました。

 そして一番決定的なのは、彼女の母親との葛藤でしょう。

 アヤーンの母親は実はソマリア人では稀なアラブ式のイスラム教を頑なに信じていました。

 しかしそれは彼女の家庭と人生を破壊してしまいます。

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 アラブ式に厳格にイスラム教の戒律を守れば、女性は働く事は勿論、親族の男性に付き添いなしには、外出もできません。 だからイスラム教徒の夫は、常に妻の傍にいて面倒を見てやらなくてはなりません。
 
 彼女はこれを夫に要求するのですが、しかし夫つまりアヤーンの父親は、当時のソマリアの独裁政権を相手に反政府活動をしている大物活動家でした。

 彼はその為の投獄されたのですが、同じ部族の出身で彼を尊敬する刑務所長が脱獄させてくれたのです。 しかしその為にこの刑務所長は広場で銃殺されました。

 アヤーンの父親を慕い、そして彼の為に命を捨てるソマリア人は他にも多数いたのです。

 アヤーンの幼少時に一家がサウジアラビア・エチオピア・ケニアなどと次々と転居するのは、こうした父親の政治活動の為です。

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 こんな大物活動家、ソマリアの国士が妻に付き添って毎日買い物の面倒なんか見てやれるわけないでしょう?

 けれども妻はイスラム教を盾にこの要求を絶対に譲らず、ことある毎に夫を責めたてるのです。 
 妻にすればイスラムと言う絶対正義を背負っているので、夫の政治活動など構うどころではないのです。

 結局、夫は家を出てしまいました。

 この夫婦生活の破綻の影響を一番蒙ったのが、アヤーンでした。
 
 母親は夫に捨てられた絶望感から、子供達を虐待するのですが、長男は男子故に溺愛し甘やかし、気の強い妹には徹底的に反抗されるので、結局アヤーンに全ての絶望をぶつけるようになるのです。

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 こうした家庭に育った事が、アヤーンの神殺しの原点だったのかもしれません。
 
 良くも悪くもリベラリスト・革新派には、伝統的な家庭に育ち、てしかもその家庭の内実が不幸だった人が多いようです。

 ともあれこうした生育歴から、アヤーンは幼少期から神への信仰を育てると共に、神への疑念もまた同時に育ていていたのでしょう。

 そしてその為に正面から神と対峙する覚悟ができていたのです。

 しかしアヤーンの妹にはそのような覚悟はなかったのです。

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 オランダへ来て間もなく、「自分は神に背いた」と言う不安を口にする妹に、アヤーンは驚いて聞いたのです。
 
 「だって貴方は、今まで一度だって敬虔なイスラム教徒だった事なんかないじゃない?」

 そうなのです。
 一度だって敬虔イスラム教徒だった事が無かった故に、一度も神と正面から対峙して来なかった。 
 神の何たるかを考えて来なかった。

 そういう妹に神は不意打ちを食らわせて、狂死と言う無残な最期を遂げさせたのです。

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 ワタシはこの姉妹の神と葛藤は、当にヨーロッパが近世以降行ったきた神殺しの為の戦いを個人に凝縮した物だと思うのです。

 そして妹の狂死を想うと、欧米に移住したイスラム教徒の中で、神との戦いに勝ち、神殺しをして欧米式の価値観を得られる人間は本当に極僅かではないかと思うのです。

 圧倒的多数のイスラム教徒は欧米に移民しても、尚中世に生きる人々のまま生き続けるでしょう。
 
 だから今後イスラム教徒の増加につれて、欧米社会は混乱に陥って行かざるを得ないでしょう。
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