2017-06-09 23:01

辻褄が合わない 手塚治虫と在日コリアンの漫画

 手塚治虫が在日朝鮮人を主人公にした漫画を描いていたそうです。

 手塚治虫が描いた「在日」

 ワタシはこれは読んだ事がないので、このリンク先の依るしかないのですが、しかしこれ凄く違和感があるのです。

 ワタシが在特会の会員で、在日コリアンに好意を持っていないと言うのは事実ですが、しかしそもそも話しの辻褄が全然合わないとしか思えないのです。

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 この主人公は在日コリアンですが、帰化しており、それを隠して日本の大企業の重役になっています。
 
 まずこれが不思議です。
 大企業でなくても、一定規模の会社に就職するには、戸籍謄本を提出を求められます。 特に昔は絶対必要でした。

 戸籍謄本には、帰化した事実が明記されています。(蓮舫は戸籍謄本を公表できないw)
 だから朝鮮人だったことを隠して大企業に就職する事など不可能です。

 それとも彼はシン・ガンスのように日本人の戸籍を乗っ取ったのでしょうか?

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 またこの主人公は「第二次世界大戦中、日本軍により岐阜県瑞浪の戸狩山に強制連行され、地下壕(ながい窖)を掘らされていた」とのことです。

 つまり日本で生まれ育ったのではなく、朝鮮で生まれほぼ成人してから日本に来たのです。

 こういう人は日本語の発音で独特の朝鮮なまりがあって、簡単に朝鮮人だとわかってしまいます。
 こういう人達が日本人を装うのは絶対不可能です。

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 今は在日コリアンの一世は殆どが80代以上の高齢者です。 しかしこの漫画が出版された1970年代には、こうした強い朝鮮なまりの発音をする現役世代在日コリアンの一世が大勢いました。

 手塚治虫だってこういう在日一世の人達には、会った事はあるでしょうに。
 
 それなのに手塚治虫は、「朝鮮人であることを完全に隠して、日本の大企業の重役になった」などと言う設定を不自然だと思わなかったのでしょうか?

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 ストーリーも無茶苦茶です。

 主人公の娘が北朝鮮からの不法入国者の青年と一緒に、トラックにはねられて死んでしまいます。

 しかし警察に身元確認を求められた主人公は自分が朝鮮人であることを知られたくないばかりに、「友人の娘さんです。」と言ってしまいます。

 こ、こんな事で警察を誤魔化せるのでしょうか?
 
 「友人の娘さん」と言えば当然警察はその友人を探しますよね?
 だって人が一人死んでいるのです。
 身元確認をしない訳に行かないでしょう?

 こんな口から出まかせで誤魔化せるわけがないでしょう?

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 またこれに反発した息子は、父親の反対を押し切って朝鮮学校に行くと言う事になっています。 でも朝鮮学校の授業料って凄い高額なのです。

 息子は一体どこから授業料を工面したのでしょうか?

 こんな風に突っ込んでるときりがないのです。
 
 よくもまあこれだけ荒唐無稽な話しを・・・・・。
 
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 ワタシは1954年生まれなので、手塚治虫の鉄腕アトムが初めてテレビ放映された頃、子供としてそれを楽しみました。
 
 鉄腕アトムならどんなに荒唐無稽な話が出てきても構いません。 だって「空想」科学漫画ですから。

 しかし現実の社会を舞台にしているなら、こんなに出鱈目なご都合主義とつぎはぎで「在日コリアンの差別は不当!」と言われても、まずその話の出鱈目振りが目に着いて、ドンドン白けてしまいます。

 でも在日コリアン絡みの話って皆この類です。 言っている事は全く辻褄が合わないのですが、しかしとにかく「差別されてカワイソウ」と言う結論を出すのです。

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 ワタシが子供の頃は、実際在日コリアンへの露骨な嫌悪や差別がありました。 ワタシはその頃はそれを「酷い」と思っていました。

 そのワタシ自身が在日コリアンへ嫌悪と侮蔑を感じるようになったのは、実は30過ぎてからです。

 ワタシは30過ぎになって難病と診断されて、体調管理の為にも勤務時間の短い学習塾の講師になりました。

 学習塾の講師と言うのは、夜の仕事なので、午前中はひまです。 朝寝をした後、9~10時過ぎぐらいまでノンビリとテレビを見るのが日課になりました。

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 ところでその時間にNHKを見ると、やたらに在日コリアンに関する特集が多いのです。

 しかし彼等の話は全然辻褄が合わないのです。 一番不可解なのが「強制連行」の話です。

 だって奴隷狩りのように狩られて日本に連れてこられて、差別に苦しむと言いながら何で帰国しないのでしょうか?

 排除の思想でも何でもありません。 だって故郷には大切な家族がいるのです。 自由になれば何が何でも家族の元に帰りたいと思うはずではありませんか?

 しかしNHKの特集はこうした根源的な疑問には一切突っ込まず、辻褄の合わない強制連行の話を繰り返し放映するのです。

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 一方、非常に不愉快なのは、戦後に不法入国をした連中です。 不法入国は犯罪です。

 ところが彼等はその犯罪行為への反省はなく、「差別された」と日本と日本人を恨むのです。
 
 マルハンの社長などが典型です。
 
 苦労して大学を出たのに朝鮮人だから教師になれなかった。 差別だ!!

 馬鹿!!
 オマエは犯罪者だ!!
 何処の世界に犯罪者を教師にする国があるか?

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 こういう番組を見ていて、ワタシはだんだん在日コリアンに嫌悪と不信と侮蔑を抱くようになりました。

 因みに呉智英と言う人は手塚治虫の創造姿勢を「すべての価値観への不信」と評したのだそうです。
 
 ワタシは子供の時から、手塚漫画は結構読んでいますが、しかし全然そうは思えません。
 
 だって全ての価値観への不信を持つほど冷徹なら、「強制連行」なんて信用できるわけないでしょう?

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 ワタシはこの「強制連行」が喧伝されてから、在日コリアンと在日差別されてカワイソウを煽るマスコミを一切信用できなくなったのです。

 だって話しの辻褄が合わないんだもの!!

 朝鮮半島の総人口が2500万人だった時代に、240~840万人もの人間を、奴隷狩りのように狩って、日本へ連行した!!

 そんなことをしながら戦後一切問題になって来なかった!!

 こんな荒唐無稽な話を信じられるわけはないでしょう?

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 こんな話しを信じたのは、要するにその時代の空気に乗ったからではありませんか?(強制連行の空気

 こういう空気に乗りやすい事が、売れっ子になる理由でもあるのでしょう。 しかしそれはまた「全ての価値観を疑う」どころか、「流行の価値観は何も考えずに信じる」事でもあるのです。

 実際、手塚治虫の漫画って、当時の反体制絶対正義の価値観で貫かれているのです。

 だから彼は大人気だったのではありませんか?

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 しかしワタシはへそ曲がりなので、こういう感覚にはついていけませんでした。

 辻褄の合わない事は合わないとしか思えないからです。 でもこれじゃ漫画やアニメを楽しめませんよね?

 ワザワザこんなエントリーをしたのも、とにかくこういう辻褄の合わない話しを見ると気持ちが悪いので、どうしてもその辻褄の合わない事を説明したくなるからです。

 だからワタシは実は漫画もアニメも小学生で卒業しました。
 テレビドラマも好きじゃないです。

 こういう性質は損かもしれませんが・・・・・。
 
  1. 古本
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2017-05-27 14:59

あるソマリア女性の半生 神との戦い

 昨日のエントリー「中世に生きる人々 イスラム」に、エピキュリアンさんが下さったコメントには「神殺し」の話が出ていました。

 ヨーロッパの近代化の過程とは、神殺しの過程であり、イスラム世界も近代化するのはこの神殺しが必要だと仰るのです。

 「中世に生きる人々 イスラム」のエントリーでも触れましたが、アヤー・ヒルシ・アリは個人でこの神殺しをやったのです。

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 アヤーン・ヒルシ・アリは1969年にソマリアで生まれました。
 ソマリアはイスラム教の国ですから、アヤーンも当然イスラム教徒として育てられました。

 そして自身も敬虔なイスラム教徒でした。

 しかし1992年、父親から意に沿わない結婚を強制されたことで、オランダへ逃げて難民申請をして、オランダで自活し始めました。

 そしてオランダの価値観を身に着ける過程で、神殺しをしたのです。

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 彼女の自伝「もう、服従しない」は実は、神に服従しないと言う決意です。

 この自伝で非常に興味深いのが、彼女が神への服従を辞める=無神論者になるまでの自身の心理を描いた部分です。

 この為に彼女は必死で、ヴォルテールから始まって、スピノザなどヨーロッパの啓蒙思想や近代哲学を学び続けたのです。

 それは当にヨーロッパが近代以降、続けた神殺しの葛藤を個人で数年間の間に体験すると言う苛酷な物でした。

 こうした葛藤の末に彼女は遂に「もう 服従しない」と決意し、「自分は無神論者だ」と宣言したのです。

 しかしこの為に彼女は親族の全てから絶縁され、イスラム教徒達から、暗殺の危険に晒されるようになりました。 そして現在は暗殺の危険を逃れる為、完全に所在不明状態です。

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 この神との戦いには、誰も勝てるわけではありませんでした。

 彼女の妹は、神との戦いに負けて狂死してしまいます。
 
 彼女の妹は、幼少時からアヤーンより遥かに奔放で、頭が良く、厳しい母親に反抗して自分のやりたい事は何でもやるタイプでした。

 アヤーンは母親に逆らう事ができず、家事を全て押し付けられて、一人でそれをやり続けるのですが、妹は完全に拒否し通すのです。

 しかしその奔放さの挙句に、キリスト教徒の男性の婚外子を妊娠してしまいます。 そして中絶した後、アヤーンの居るオランダに来て、アヤーン同様難民申請をして、オランダで暮らす事になるのです。

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 本来ならオランダでの自由な生活は、彼女のような奔放な女性にとっては願ってもない物のはずでした。 いや、本人もまた姉であるアヤーンもそう信じていたのです。

 ところがオランダに来てほどなく妹は精神状態がオカシクなります。

 難民収容所でまた妊娠して中絶するハメになります。 更に難民申請が認められて姉のアヤーンと暮らし始めると、今度は完全な無気力状態に陥ります。

 彼女はオランダに着てから、自由に生きられる事を喜ぶよりも、中絶をしたことで、神が自分を許さないのではと言う恐怖に苛まれるようになったのです。

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 それでも一旦は回復して、オランダの大学に入学しました。 実はアヤーンもオランダの大学に入学したのですが、しかしアヤーンは知能検査の結果、入学申請は直ぐに認められなかったので、専門学校へ行くと言う回り道をしなければなりませんでした。
 
 ところが妹は一発で入学を認められたのですから、知能検査の結果だけなら、アヤーンより遥かに優秀だったのでしょう。

 アヤーンは、妹は子供の時からアヤーンより遥かに学業成績が優秀だった、自分は妹の何倍も勉強したのに、妹程良い成績は取れなかったと書いています。

 アヤーンはこのような妹の大学入学を喜び、これで妹の将来への不安も消えました。

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 ところが入学後半年程したある日、大学から妹が精神病院に送られたと言う連絡が来ます。
 
 アヤーンが精神病院に駆けつけると、妹は全身打撲で顔は人相が変わる程腫れあがった姿になって、壁をクッションで覆った部屋に監禁されていました。

 妹は大学の寮で「アッラー アクバル」と叫びながら、全身を壁や床に打ち付け続けていたのです。

 そしてこれ以降、妹が正気に戻る事はありませんでした。

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 アヤーンは何んとか妹をオランダに置いて、オランダで精神病の治療を受けさせようとしました。 その為に献身的に妹の看護を続けました。

 親族達はこのようなアヤーンに感動し、父親はアヤーンへの勘当を解きました。 父の薦める結婚を拒否してオランダへ逃げた事で、アヤーンは父親から勘当され、部族全部からも放逐されていたのです。

 しかし一方で親族達は皆、妹は母親の居るケニアに戻し、親族達で介護するべきだと言い出しました。 妹がこのような状態になったのは、つまりは「不信心者たちのせいだから」と言うのです。
 
 そして結局妹は母親の下に帰りました。

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 しかし母親の家での生活でも症状は改善しません。 更にまたどうしてか妊娠してしまいます。

 妊娠が外見からもわかるようになった頃、ある嵐の夜に妹は、「神が自分を捕まえようとしている」と叫び母親の家を飛び出してしまいました。

 母親は人を集めて必死に娘を探しました。
 
 そして翌朝、下半身を血まみれにして倒れている彼女を発見しました。 嵐の中を走り回っている間に流産したのです。

 妹はその後、数日で死にました。
 
 アヤーンがケニアに駆けつけた時には、葬儀は終わり妹は埋葬された後でした。

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 この妹の狂死は、当に神との戦いの象徴でしょう。
 
 実は中世ヨーロッパの話を読んでいて、非常に不思議なのは、大凡敬虔とも信心深いとも思えないような生活をしている人々が、しかし絶対にキリスト教を棄教しない事です。

 例えばイスラムの海賊に捕まって奴隷にされた人々の殆どが、イスラム教に改宗して自由を得るよりも、キリスト教を守って苛酷な奴隷生活を選ぶのです。

 それでは彼等がそれまでキリスト教の教えを守って、正しく清らかな生活をしていたかと言えば全然そんなことはありません。
 女は買うのは当然、船乗りなら機会があれば自分達も海賊をやるぐらいは平気な人達なのです。

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 大体中世では、修道士や娼婦を買うなんて全然問題にもされなかったし、それどころか法皇が女を囲うのだって普通、本来なら絶対禁止のはずの男色を楽しむ法皇だっていたのです。

 中世の人々って現代人からすれば、恐ろしく暴力的で、短絡的で、嘘吐きで、しかも非常に利己的です。
 
 どう考えても現代の不信心な一般人の方が遥かに善良で寛容で思いやりがあり、キリスト教精神に適う生活をしているのです。

 しかしそれでも信仰はどんな事があっても捨てられないのが中世に生きる人々なのです。

 大凡イスラム女性らしからぬ奔放な生活を楽しんでいたアヤーンの妹が、最後まで神を捨てられず、挙句に狂死した事を見れば、こうした中世キリスト教徒の心理も何がしか理解できます。

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 それではアヤーン・ヒルシ・アリがなぜ神に勝てたのか?

 それは彼女が元来非常に真面目で真摯な性格で、少女時代から常に真正面から神と対峙してきたからだと思うのです。

 彼女の性格が見事に顕れるのがオランダへ来てからの生活態度です。

 彼女はオランダで難民申請が通り生活保護が支給されても、「自分には手も足もある」と働き始めました。 オランダの生活保護も日本と同様で、仕事をして収入を得るとその分支給額を減額されます。 

 一方オランダ語が不自由な人間ができる仕事は、単純労働で最低賃金程度の賃金しか得られません。 しかもパートタイムが殆どです。 だから殆ど難民はそのまま働かず生活保護に頼り続けるのです。

 しかしアヤーンはそれでも掃除婦や工場のパートタイムなどをして働くことを選んだのです。
 
 けれども彼女はこれによりオランダ語に習熟する共にオランダの社会を深く知るようになりました。
 
 またこれでオランダ語が完璧になった事で、後にソマリア語の通訳の仕事を得るようになり、これで収入が激増しました。

 このような真摯さと誠実さが彼女の特性なのです。

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 アヤーンはこのように真面目な人ですから、親やコーラン学校で教えられた事は真面目に信じました。 しかし真面目に信じれば、真面目な疑問が出てくるのです。

 例えばアヤーンがまだ9歳の頃、一家は父親の都合でサウジアラビアに移住します。 そこでアヤーン姉妹はメッカのコーラン学校に入るのですが、ところがそのコーラン学校の女性教師は、アヤーン姉妹を黒人としてあからさまに侮蔑するのです。

 また11歳からケニアに移り、思春期にはそこでイスラム原理主義に傾倒するようになります。 しかしそれで真面目にイスラム教の教理を学ぶと解るのは、イスラム教での女性の地位の低さです。

 更にイスラム原理主義者の若者達の集会に参加すると、彼等もまた女性をマトモに人間扱いする意思がない事を思い知らされます。

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 一方ケニアで彼女が通っていた学校の授業は英語だったので、彼女は英語の小説を楽しむようになっており、女性が一人前に扱われ、自由に恋愛をできる世界がある事も知っていたのです。

 またケニアでソマリア人達は難民として暮らしているのに、ソマリア人達はキリスト教徒のケニア人を「不信心者」として侮蔑している事にも違和感を持ち続けていました。

 そして一番決定的なのは、彼女の母親との葛藤でしょう。

 アヤーンの母親は実はソマリア人では稀なアラブ式のイスラム教を頑なに信じていました。

 しかしそれは彼女の家庭と人生を破壊してしまいます。

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 アラブ式に厳格にイスラム教の戒律を守れば、女性は働く事は勿論、親族の男性に付き添いなしには、外出もできません。 だからイスラム教徒の夫は、常に妻の傍にいて面倒を見てやらなくてはなりません。
 
 彼女はこれを夫に要求するのですが、しかし夫つまりアヤーンの父親は、当時のソマリアの独裁政権を相手に反政府活動をしている大物活動家でした。

 彼はその為の投獄されたのですが、同じ部族の出身で彼を尊敬する刑務所長が脱獄させてくれたのです。 しかしその為にこの刑務所長は広場で銃殺されました。

 アヤーンの父親を慕い、そして彼の為に命を捨てるソマリア人は他にも多数いたのです。

 アヤーンの幼少時に一家がサウジアラビア・エチオピア・ケニアなどと次々と転居するのは、こうした父親の政治活動の為です。

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 こんな大物活動家、ソマリアの国士が妻に付き添って毎日買い物の面倒なんか見てやれるわけないでしょう?

 けれども妻はイスラム教を盾にこの要求を絶対に譲らず、ことある毎に夫を責めたてるのです。 
 妻にすればイスラムと言う絶対正義を背負っているので、夫の政治活動など構うどころではないのです。

 結局、夫は家を出てしまいました。

 この夫婦生活の破綻の影響を一番蒙ったのが、アヤーンでした。
 
 母親は夫に捨てられた絶望感から、子供達を虐待するのですが、長男は男子故に溺愛し甘やかし、気の強い妹には徹底的に反抗されるので、結局アヤーンに全ての絶望をぶつけるようになるのです。

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 こうした家庭に育った事が、アヤーンの神殺しの原点だったのかもしれません。
 
 良くも悪くもリベラリスト・革新派には、伝統的な家庭に育ち、てしかもその家庭の内実が不幸だった人が多いようです。

 ともあれこうした生育歴から、アヤーンは幼少期から神への信仰を育てると共に、神への疑念もまた同時に育ていていたのでしょう。

 そしてその為に正面から神と対峙する覚悟ができていたのです。

 しかしアヤーンの妹にはそのような覚悟はなかったのです。

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 オランダへ来て間もなく、「自分は神に背いた」と言う不安を口にする妹に、アヤーンは驚いて聞いたのです。
 
 「だって貴方は、今まで一度だって敬虔なイスラム教徒だった事なんかないじゃない?」

 そうなのです。
 一度だって敬虔イスラム教徒だった事が無かった故に、一度も神と正面から対峙して来なかった。 
 神の何たるかを考えて来なかった。

 そういう妹に神は不意打ちを食らわせて、狂死と言う無残な最期を遂げさせたのです。

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 ワタシはこの姉妹の神と葛藤は、当にヨーロッパが近世以降行ったきた神殺しの為の戦いを個人に凝縮した物だと思うのです。

 そして妹の狂死を想うと、欧米に移住したイスラム教徒の中で、神との戦いに勝ち、神殺しをして欧米式の価値観を得られる人間は本当に極僅かではないかと思うのです。

 圧倒的多数のイスラム教徒は欧米に移民しても、尚中世に生きる人々のまま生き続けるでしょう。
 
 だから今後イスラム教徒の増加につれて、欧米社会は混乱に陥って行かざるを得ないでしょう。
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2017-05-10 13:29

元祖軍国主義国家の一国平和主義 スパルタ

 塩野七生さんの「ギリシャ人の物語Ⅱ」で面白かったのは、スパルタと言う国の性格です。

 「ギリシャ人の物語」の主人公は、ⅠでもⅡでもアテネなのですが、しかしアテネの物語を描けば、ライバルスパルタを描かずにはいられないのです。

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 さてスパルタと言えば、スパルタ教育です。
 スパルタ市民の男子は、7歳から親元を離れて、厳しい集団生活で兵士として教育されました。

 そして20歳になると盾と槍だけを持って荒野に追われ、そこで一人で生き延び、そしてヘロットと言われるスパルタの隷属民・農奴の首を取って戻って初めて一人前の市民と認められたのです。

 しかしスパルタ市民はその後も、男性だけで共同の夕食を取る義務があるなど、個人生活に様々な制約を受けて、兵士としての練度と団結を保つ事に務めなければなりませんでした。

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 スパルタがこのような特異な制度を作ったのは、スパルタと言う国の成り立ちによります。

 スパルタは紀元前10世紀頃に、所謂スパルタ人が先住民を征服支配してできた国です。

 スパルタ人が商工業を行うペリオイコイ、そして前記の農奴であるヘイロットを隷属民として支配する国なのです。

 この人口比はスパルタ人:ペリオイコイ:ヘイロットで、1:7:16であったと言われます。
 つまりスパルタ人は常に23倍の隷属民を支配しなければらないのです。

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 しかしこれは容易ではありませんでした。 実際、先住民は何度も反乱を起こし、スパルタ人はその鎮圧に苦労しました。

 そして起源前8世紀頃、大反乱を鎮圧した後、リュクルコスと言う男が、二度と反乱を起こさせず、スパルタ人の支配を確立するための制度を造ります。

 それが所謂リュクルコス制と言われるの物で、スパルタ教育はこの一環です。

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 リュクルコスは市民の団結と兵士としての精強さを維持する事で、ヘイロットの反乱を強権的に鎮圧できる体制を確保したのでしょう。

 スパルタ教育の導入だけでなく、スパルタの市場経済を潰し、自給自足の農業国家にしました。
 
 つまり銀貨など高額貨幣を全て廃止して、鉄貨のみの流通させました。
 また土地を均等配分しました。
 
 そして夕食は男子だけが集まって共同で取る事を義務付けました。

 当然のことですが、これでスパルタの経済成長は完全に止まりました。

 スパルタ人は質実剛健と讃えられたのですが、しかしそもそもこんな社会制度では貧乏が定着しますから、贅沢なんかしようもなくなったのです。

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 このようなスパルタで政治を担うのは、市民から毎年5人ずつ選ばれるエフォロス(監察官)と呼ばれる人々です。

 実はスパルタには王様がいます。
 しかも二人も!!

 ところがこの王様は、スパルタ軍が遠征する時に、スパルタ軍の総指揮官を務めるだけです。
 
 しかし戦争をするとか遠征先を決めるとか言う事は、エフォロスと市民集会で決めるのでです。
 
 しかも王様が軍を率いて遠征する時には、エフォロスのうち二人が同行し、王様の指揮に対して一種の拒否権を持ちます。

 そして王様がこのエフォロス達の意思に反する行動をしたとみなされた場合は、王様が退位、或いは刑死に追い込まれる事もありました。

 だから王様がいるとは言え、王政と言うには程遠い制度です。

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 リュグルコスは、このような改革を成し遂げた後、「自分が帰ってくるまではこの制度を変えてはならぬ」と言って旅に出ました。

 そして二度と帰らなかったのです。 

 その為スパルタではこの制度が完全に定着し、そしてこれは単なる制度と言うより憲法、国是、国体となりました。

 スパルタ人にとっては、この制度を守る事が、自己目的化し、スパルタ人にとって国家を守るとは、即ちこの国体を守る事になったのです。

 エフォロス達は、この国体の護持に危険と思えば、国王だって容赦なく排除したのです。

 そしてこの制度を堅持して、国家が強固な団結と一貫性を持ち続けたお蔭で、その後、400年間スパルタはギリシャ最強の国家となりました。

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 但しスパルタの制度や歴史には今も良くわからない面が沢山あるようです。

 なぜならスパルタ人はスパルタ教育に徹した結果、歴史家も著述家もおらず、スパルタ人がスパルタの歴史や政治制度に関して書き遺した資料がないからです。

 スパルタについての記述は全てアテネなどスパルタ外の人々の記述によるしかないのです。
 
 しかもスパルタは閉鎖国家で、外国人の入国を嫌いました。

 このうなに状況では、著作家や歴史家だけではなく、芸術も文化も殆ど生まれていません。

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 スパルタのライバルアテネでは、ツゥキディテスのような史家の記録や、アリストパネスの喜劇などから、当時のアテネ市民の生活状況が克明に記録されました。

 アリストパネスなど当時の政治家や文化人を実名で風刺したので、その当時のアテネ市民に彼等に対する感覚が、現代のテレビでワイドショーでも見るようにわかるのです。(ワイドショー並みに偏向しているようですが)

 アリストパネスが生きた時代のアテネって、マキャベリが生きた時代のフィレンツェ同様、天才が山のように生まれました。

 我々がギリシャ文化と呼ぶ文化・芸術の大半が、この時代のアテネで生まれたのです。

 しかしスパルタはこうした文化とは一切無縁でした。

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 それどころかオリンピックの成績さへショボイのです。
 紀元前9世紀から始まった古代オリンピックで、スパルタの選手が優勝したのは一度だけです。

 だって古代でもオリンピックの選手は国家の英雄でした。 だからどのポリスもオリンピック選手には、生活支援などして練習の便宜を図ったのです。

 ところがスパルタはそういう事を一切しないのです。
  
 これじゃ体育学校なしの自衛隊と同じですから、オリンピックで優勝なんかできるわけはないのです。

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 そしてスパルタはこの制度のお蔭でスパルタは一国平和主義に徹するしかなくなりました。

 ペリクレスはアテネ市民に、対スパルタ戦争=ペロポネソス戦争開戦を提唱した時に言いました。
 
 「彼等は自作農であって、戦費の蓄えないない。 だから長途の遠征も、長期の戦争もできない。 また海軍を作る資力もない。 だからこの戦争はアテネの優位である。」と。

 実際リュグルコスの改革のお蔭で、貨幣経済が事実上崩壊したスパルタはヘロットの作る農作物と、ペリオイコイの作る武器や日用品だけに頼る自給自足の閉鎖経済になってしまいました。

 だから遠路遠征する戦費もなければ、海軍や騎兵などお金のかかる兵科も維持できず、スパルタ軍の強さはスパルタ教育で育ったスパルタ市民の練度だけに寄る事になります。

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 しかもこのスパルタ軍の兵士は、一旦戦死者が出たら、簡単に補充できません。

 だってスパルタ軍の兵士になるには、7歳から20歳までスパルタ教育を受けなければなりません。 しかもそのスパルタ教育を受けられるのは、両親共にスパルタ市民から生まれた純粋のスパルタ人と言う条件があります。

 こうなると未婚の若い兵士が戦死し、その家系が途絶えると、その後末代まで兵士の補充が不能になります。

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 このスパルタの兵士の総数はスパルタの歴史を通じて1万から1万5千人だったと言われますが、スパルタは何とかこの数を維持するのに苦労し続ける事になりました。

 と、言うのも兵士の数が減ったら、対外防衛が手薄になるだけではありません。

 隷属民の反乱が起きる可能性があるのです。

 リュグルコス制を確立してからも、ヘイロットの反乱はなくなりませんでした。

 第二次ペルシャ戦役が終わった20年以上も後、紀元前464年、スパルタを大地震が襲い、この混乱の乗じてヘイロットが大反乱を起こしました。

 この時ヘロット達はスパルタ軍に追われてスパルタ領内の岩山に逃げ込んだのですが、これをスパルタはどうしようもなくて、アテネに救援を求めました。

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 兵員が1万~1万5千人では、幾ら兵士練度が高く精強でも、攻城戦や山狩りなど、大人数を必要とする戦いはどうしようもないのです。

 だからスパルタはそれまで他国が都市を防衛する城壁を造ろうとする度に、干渉して建設を止めさせてきました。

 城壁建設に成功したのはアテネのみで、これはテミストクレスと言う稀代の戦略家がスパルタの隙を突くように電光石火作ってしまったのです。

 そして後にペリクレスがこれを改修補強しました。

 でもこんな事は他の都市には到底できませんでした。

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 因みにこの反乱も結局武力鎮圧はできず、アテネとややこしい政治取引をした末、反乱したヘロット達はアテネの植民地が受け入れる事にして何とか収めました。

 国内にこうした問題を抱えているのでは、幾ら兵士が精強でも、侵略戦争の為に大遠征するなんてことはできないのです。

 また完全な自給自足の閉鎖経済なのですから、アテネのように帝国主義的な権益を求めての戦争などする必要は全くないのです。

 だからスパルタは本当に対外戦争には抑制的です。

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 こんな苦労をするくらいなら、リュクルコス制を止めたら?
 ヘイロットへの支配を止めて、彼等の権利を認め、同じスパルタ人として団結したら?

 アテネは労働者階級まで全て市民権を与える事で、有権者は6万人になったのですが、それでスパルタと同数の重装歩兵に加えて、多数の騎兵と、ギリシャ最大最強の海軍を維持できるようになったのです。

 スパルタもそうすれば?

 しかしそれを絶対拒否し、国体の護持を選んだのがスパルタ人なのです。

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 スパルタが戦うのは、本当に自国が危うくなった場合、自国の国体にとって危険と判断した場合のみ、つまり専守防衛に徹するのです。

 だから第一次ペルシャ戦役では、アテネから散々に援軍を頼まても渋り続け、援軍が到着したのはマラトンの戦いが終わった後。

 第二次ペルシャ戦役では、アテネのテミストクレスが早目早目にスパルタを動かす処置を取ったので、スパルタ軍も勇猛に戦うのですが、ペルシャ軍の主力を撃退した後は、また直ぐに一国平和主義に徹します。

 アテネと27年に渡すペロポネソス戦争を戦った時も、途中何度か休戦を申し入れたのはスパルタ側でした。

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 それにしても面白いのは、アテネにはこのようなスパルタを大好きと言う人間が常にいたことです。

 リアリズムの立場から、スパルタとの友好を大切にするのはわかります。

 何しろギリシャ最強の陸軍国ですから、安易に敵対して良いわけはないのです。

 でもそういうリアリズムの立場ではなく、感情的スパルタ大好き派が沢山いたのです。

467

 別に彼等がスパルタに亡命したいとか、スパルタ人のように暮らしたいとか思っていたわけでありません。

 それでもやっぱり感情的に好意を持ってしまう。

 スパルタ人はスパルタ教育を受けてギリシャ最強の戦士!!
 スパルタ、カッコイイ!!
 スパルタ、憧れちゃう!!

 こういう親スパルタ派が結構いたのです。

 全般的に見ても、スパルタ市民がその貧乏故や無学故に侮蔑されたことはなく、むしろそれを質実剛健と賞賛する人々の方が多数派です。

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 そうですね。
 ワタシも何となくわかります。

 エドワード・ルトワックは「戦争のチャンスを与えよ」の中で戦士の文化を取り上げ「男は戦争を好み、女は戦士を好む」と書いていました。

 ワタシは女として「戦士を好む」かどうかは確信がないのですが、しかし男は戦士に憧れるのでしょう。

 実際このスパルタと言う国には、合理性を超えた気品のようなモノがあって憧れちゃうのです。

 しかし元祖軍国主義、純粋戦士国家が、純粋戦士国家であった故にこそ一国平和主義と専守防衛に徹するしかなったのです。
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2017-05-03 10:28

戦争の効用 ルトワック

 エドワード・ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」を読みました。
 この本はルトワックの有名な論文「戦争にチャンスを与えよ」を中心に戦略論から見た日本への提言など、色々と興味深い話しが掲載されています。

 本の題名にもなった「戦争にチャンスを与えよ」ですが、これ日本語的には奇妙な言い回しですが、英語の題名「Give war a chance」をそのまま訳したものです。

 で、中身から言えば「戦争の効用を認めよ」と言う事でしょう。

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 戦争と言うのは大変忌まわしい物、恐ろしい物、だから戦争は何としても止めなければならない。

 現在の国際社会の建て前や、或いは先進国一般世論は戦争をこのように認識しています。

 だから戦争が起きると直ぐに国連や英米仏などが介入して、とにかく戦争を止めます。

 また幾多のNGOが戦争難民の支援に出てきます。

 しかしルトワックに言わせると、このような形で外部の人間が戦争を無理矢理止めさせせて、更にNGOが難民を助けるような事をすると、それは結局戦争を長引かせて、結果的には被害を拡大すると言うのです。

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 もし外部の国々や機関が余計な介入をしなければ、当時車同志は戦争をするけれど、しかしやるだけやって勝負が着けば、それで戦争は終わる。

 勝った方が満足するのは勿論だけれど、負けた方も負けを受け入れるしかないので、負けた事を認めた戦後復興へと進み始める。

 ところが外部の力で、無理矢理戦争を止められると、双方憎しみを抱いたまま、睨み合いを続ける形になり、戦争状態の凍結になってしまい戦後復興へは進めくなる。

155

 またこうして力ずくで休戦を強いられている間に、双方が消耗した兵力や武器を補給し、戦闘態勢を更に強化して、次の衝突を激化させるような事にさへなる。

 ここでNGOが難民キャンプを用意すると、その難民キャンプが戦闘員の補給処の役割を持ってしまい、夜な夜な難民キャンプからゲリラが出撃していく事まで起きてしまう。

 更にパレスチナの難民キャンプのように、難民キャンプの生活れるがそれ以前の生活水準を上回るような設営になっていると、難民はもうそこから出て行かない。

165

 そこで難民達は二世代、三世代と無為徒食の難民生活を続けて、永遠に帰れぬ故郷を夢見続ける事になる。

 こうした難民キャンプにイスラム過激派が入り込むのは当然の帰結だ。 そこで無為徒食している若者達が過激派にリクルートされてゲリラ戦を始める。

 これでは戦争が終わるわけはない。
 
 もしこんな難民キャンプを造らなければ、難民はさっさと生活できる地域へ移動して新しい生活を始める。
 そうすればもう二度と戦争には関わらなくなるだろうに。

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 戦争には戦争の役割がある。
 それは戦う者同士を疲弊させて、戦う意欲を喪わせる事だ。

 戦争をやり尽くし疲弊し尽くせば、人々を戦争へと駆り立てた憎悪も欲望も消滅する。
 
 これこそが戦争の役割であり効用なのだ。

 しかし現在の国連や他国の介入と言う方法での戦争の停止は、取りあえず戦争を止める事はできるが、その原因である憎悪や欲望は取り除けないので、結果としてこうした停戦が戦争を慢性化させて事態を拗らせる事にしかならない。

190

 大体こんな話です。

 ルトワックがこの事例として挙げているのは、旧ユーゴ紛争やパレスチナ紛争です。

 ワタシはこれらの紛争の詳細は知らないので、この論文を読んでもルトワックの説が正しいかどうかは判定できません。

 しかし細かい事実の検証はできなくても、他の歴史的な戦争の事例から思い当たる話しもないではありません。

 少なくとも戦争をやり尽くす事で憎悪が、解消されると言うのはその通りだと思います。

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 けれどもこの論文について一番驚いた、或いは感動したと言うべきなのは、ルトワックがこのように戦争と言う物を、真正面から捕えて、肯定的に評価している事です。

 ワタシは戦後世代で、ベトナム反戦運動が盛り上がった頃に思春期を迎えて、反戦歌や反戦運動の渦巻く時代に青春を過ごしました。

 だから戦争は勿論、戦争をすると言う事で軍隊は悪、さらに軍隊を持つから国家も悪と言う価値観で育ちました。

 しかし現実に戦争と言うのはあるのです。

 人類は石器時代から戦争をしてきたのです。
 
 そして歴史を学べば明らかですが、我々の世代が絶対神聖な制度と崇める民主主義など、当に全て国民が戦争をするための制度なのです。

212

 勿論戦争は古代から悲惨で、その惨禍を嘆き戦争に反対する意見も古代からありました。

 しかしそれでも人類は戦争を止める事は出来ませんでした。

 だったら忌まわしくても、恐ろしくても、どんなに悲惨でも、戦争と言う物は現実に人類と共に常にある物、人類にとって一定の役割を持つ物と考えた上で、それをコントロールする方法を考えるべきではありませんか?
 
 少なくとも本当の意味で戦争の惨禍を減らしたいなら、「嫌だ」「怖い」、「だからとにかく力ずくで止める。」事だけに固執し続けるだけなく、その結果を考えてみるべきではありませんか?

222

 ワタシはこれで思い出したのはマキャベリです。 彼は「君主論」などの自著で、当時のキリスト教道徳に反する、現在の日本の一般道徳から言っても受け入れられないような事を沢山書いてます。

 そのマキャベリは「近代政治学の祖」と言う事になっています。

 不道徳な話を沢山書いた人が何で「近代政治学の祖)かと言えば、それは現実の政治は道徳だけではできないからです。 彼はその現実を率直に書いたのです。

 それは一見不道徳の薦めみたいにも思われるのですが、しかしそれをしなければ政治の現実を考える事はできないのです。

 だからルトワックの論文も同様で、ルトワックの論文が全部正しいかどうかは別として、戦争と言う物が現実にこの世にある以上、これを正面から見て行こうと言う態度は絶対に必要でしょう。

 これを見ない限り、戦争をする人類と言う現実の中で、生き延びる事も、また本当の意味で戦争の惨禍を防ぐ事もできないでしょう。

230

 因みにワタシは日本の大学は、絶対に軍事学を教えるべきだと思います。 
 
 少なくとも人文科学を学び高級官僚など国家のエリートを志す人達は絶対に学ぶべきだと思います。
 また学者として歴史や政治を専攻する人にも必須だと思います。

 だって現実に戦争はこの世にあるのです。
 そしてそれは実際に起きたら大変な厄災なのです。

 だったらそれがどういうモノか、また軍事とはどのようなメカニズムで動くかを学ばない限り、それに対する対応法を考える事はできないではありませんか?

225

 今の日本のパヨク学者達の姿勢、つまり「戦争は悪い事だ、だから戦争に関する学問は絶対拒否する」と言う姿勢は、「病気は忌まわしい事だから、病気について学ぶ事は絶対に拒否する」のと同じです。

 こんなのは完全に知性の放棄ではありませんか?

 怖いから、悪い事だから、絶対に学ぶ事を拒否すると言うのは、学問を仕事にする人の取るべき姿勢ではないでしょう?
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2017-03-07 22:27

マラトンの英雄の最後 民主主義の暗黒面

 紀元前490年、アテネ・プラタイア連合軍はアテネ近郊マラトンでペルシャ帝国の大軍を迎え撃ちました。

 アテネ軍9000人、プラタイア軍1000人、これに対してペルシャ軍は20000~26000人と言われます。

 スパルタに要請していた援軍は、ペルシャ軍の上陸に間に合いませんでした。

 この時アテネ・プラタイア連合軍の指揮を執ったのがミルティアディスです。
 彼は当時の歩兵戦の常識を破る布陣を用いて、味方の倍を超えるペルシャ軍を包囲殲滅したのです。

 戦闘が終わってから到着したスパルタ軍は、この戦場を視察して「これ以上はあり得ない完璧な勝利」と評しました。

 そしてこの時ミルティアディスの用いた布陣は、この後ギリシャだけでなくローマ軍に長く用いられる事になります。

 アテネ市民がこの勝利に歓喜した事は言うまでもありません。

156

 しかしアテネはそれでは満足せず、この勝利を確実な物にするために、エーゲ海に残るペルシャ勢力の掃討作戦を開始しました。

 翌489年、アテネ軍はペルシャの支配下にあったパロス島を攻略戦を開始します。 指揮官は勿論ミルティアディス。

 しかしアテネの要求が余りにも過大であったため、パロス島の抵抗は激しく、作戦は進行は捗々しくありませんでした。 そしてその最中、ミルティアディス自身が瀕死の重傷を負ってしまいました。

 その為、アテネ軍は遂に撤退したのです。

 こうして重症を負って帰国したミルティアディスを待ち受けていたのは、市民からの告発でした。

 アテネ市民は彼に「国民の期待を裏切った罪」で死刑を求刑したのです。

160

 ペルシャ帝国は元々はペルシャ、つまり現在のイランを中心とする帝国でした。 しかし紀元前500年頃から皇帝ダレイオス一世が近隣の侵略戦争を開始し、フェニキアやオリエント一円を征服しました。

 そしてアナトリア半島の内陸に進出し、更にギリシャ人の世界であったアナトリア半島の地中海岸とギリシャの北部までを支配下に置いたのです。

 こうして超大国になったルシャ帝国が、遂にアテネなどギリシャ中部の国々に服従を迫ってきたのです。

161

 一方当時のギリシャと言う統一国家はありませんでした。 ギリシャ語を話しギリシャの神々を信仰する人々は、自分達はペルシャ人など他の民族と違うと言う一体感はありましたが、アテネやスパルタ、コリント、テーベなど多数の全く独立した国家に分かれていて、その政体も様々でした。

 そしてお互いに戦争を繰り返していました。 ギリシャ人同士が戦争を止めるのは、4年に一度のオリンピックの期間だけでした。

 アテネもこうしたギリシャの都市国家の一つでしたが、ペルシャ軍のギリシャ侵攻が始まる少し前頃に民主制を確立していたのです。

164

 そのアテネの政界は対ペルシャ穏健派と主戦派にわかれて激しい抗争が始まりました。
 
 対ペルシャ穏健派は、ペルシャ帝国と何とか外交で折り合って行けば戦争は避けられる、イヤ避けなければならない、と考える人々です。

 一方主戦派は着々とギリシャ人の世界に侵攻するペルシャ帝国の状況から、ペルシャ帝国の侵略は避けられない、だからギリシャ諸国が団結して、ペルシャ帝国の侵略に対抗しようと言う人々でした。

 常識的に考えれば穏健派が正しいのです。 
 ペルシャ帝国はあまりに強大であり、一方ギリシャ諸国が団結した事など嘗てないのですから。
 
 しかし結局、ペルシャ帝国の侵攻は止まらず、アテネはマラトンでペルシャ軍を迎え撃って勝利したのです。

 これで一旦はペルシャ帝国の侵攻を止め、アテネは滅亡を免れました。

167

 けれども対ペルシャ穏健派の代表クサンティッポスが、パロス島攻略失敗について、ミルティアディスを告発し死刑を求刑したのです。

 これに対して主戦派の若手代表だったテミストクレスは、必死にミルティアディスを弁護しました。

 テミストクレスは後の第二次ペルシャ戦役で、サラミスの海戦を指揮して、ギリシャを完勝に導き、更にアテネの経済発展の基礎を築いたギリシャ史上最高の英雄になる人です。
 しかしこの時彼ができたのは、死刑を罰金刑まで減刑させることだけでした。

 けれどもこの罰金は実に50タレント!!

 1タレントあれば当時の標準的な軍船170人の漕ぎ手を要する三段櫂船を一隻建造できました。
 そして当時最大だったコリントの海軍が、三段櫂船50隻でした。
 
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 ミリティアディスはこの判決を受けた数日後に死亡しました。

 瀕死の重症を負って帰国した彼は、この裁判の最中も殆ど危篤状態で完全な欠席裁判でした。

 その彼がどのような思いでこの判決を聞いたのでしょう。
 
 彼に罰金が支払切れない場合は、遺族がその残りを支払を続けると言う条件までついていました。
 そして勿論ミルティアディスにはこのような莫大な罰金を支払える資力はなかったのです。

 これがマラトンの会戦で輝かしい勝利を収め、祖国を防衛した英雄の最後でした。

172

 もしマラトンで負けていればアテネは滅亡していたのです。
 
 そしてパロス島攻略作戦はミルティアディスが勝手にやったことでありません。 アテネ市民の総意であり、そしてミルティアディスを指揮官に選んだのもアテネ市民達なのです。

 パロス島攻略は失敗でしたが、しかし戦線が膠着しただけでアテネ軍がそれほどの損害を受けたわけでもないのです。 戦死者だって殆ど出ていないのです。
 
 またミルティアディスが臆病でも怯懦でもなかった事は、彼自身が重症を負った事でも明らかです。

 しかしアテネ市民はこの英雄に掛けた過大な期待が裏切られた事を許しませんでした。
 だから彼の死刑に賛成し、テミストクレスの懇願で何とか罰金刑で我慢したのです。

173

 勝手に期待し、その期待が裏切られると怒り狂う。

 このような民衆を扇動して政敵を葬ろうとする人間が出てくる。
 しかもこの扇動者クサンティッポスはアテネを代表する名門出身でした。
 このクサンティッポスの息子が後にアテネの黄金時代を築くペリクレスなのです。

 これを想うと後のアテネの衆愚制の種はこの時から既に芽生えていたのです。

 テミストクレスは第二次ペルシャ戦役を通じて活躍しましたが、自身でアテネ軍の指揮をしたのはサラミスの海戦一度です。
 
 サラミス海戦以降のアテネ軍の指揮は別人にやらせていました。 ミルティアディスの無残な最期を思えば当然かも知れません。

 そしてペロポネソス戦争が始まり、戦闘が増えるとこの種の理不尽な告発も頻発します。

178

 民主主義国家アテネでは、行政は全市民から選ばれたストラテゴラスと呼ばれる10人の行政官が司ります。 そして戦争になるとこのストラテゴラスの中から指揮官が選ばれ軍隊を指揮します。

 ストラテゴラスに選ばれる事も、まして軍隊を指揮する事もこの上もない名誉ではありますが、報酬はありません。

 しかしそれでストラテゴラスになり、軍を指揮して戦闘をして一度でも負けたら、良くてて追放、普通に死刑なのです。
 
 だから戦闘に負けたり、任務は失敗とわかればアテネに帰らずそのまま逃亡して行方をくらます人も出てきます。

 こんな事をしていてはドンドン人材が消滅していきます。 それは死刑や逃亡や追放で生物的に消滅するだけではないでしょう。

181

 ワタシがアテネの富裕層の妻なら、夫に懇願します。

 貴方お願いだからストラテゴラスにはならないで!!
 どんなに煽てられても引き受けちゃダメよ!!
 兵役は仕方がないわ。 
 兵役で死んだら名誉の戦死よ。
 でもストラテゴラスになって敗戦したら、罪人になるのよ。
 罪人になって貴方の名誉も、先祖伝来の資産も吹き飛ぶのよ。
 そうなったら子供達の将来はどうなるの?
 貴方が天才武将だったとしても、勝負は時の運、絶対に勝つと言う保障なんかないのよ。
 でも貴方に何の落ち度がなくても、負ければ市民は絶対に貴方を許さないわよ。
 あのマラトンの英雄がどんな最後を遂げたか、貴方だって知っているでしょう?

 歴史上のどんな名将でも、敗戦の経験のない人はいません。 幾多の戦闘を経験し、その中の大多数で勝てば名将なのであって、一度も負けず勝利しかしない人などいないのです。

 ところがアテネ市民はこの現実を絶対に見ようとはしませんでした。

191

 紀元前406年、アテネは海軍はエフェソス沖でスパルタ海軍と激突します。 戦闘は混乱を極めながらもアテネが辛勝し、アテネ艦隊はキオス島へとスパルタ艦隊を追撃しました。

 ところがその途中嵐がアテネ艦隊を襲い、多数の死者が出ました。

 するとアテネ市民はこれに激昂して、艦隊を指揮していた8人のストラテゴラス全員に死刑を求刑したのです。 そして逃亡した二人を除く6人が処刑されました。

 この頃既にアテネの国力は消耗し尽くしていました。 人材も尽きていました。
 なによりもアテネ艦隊が損害を受けたのは戦闘ではなく嵐のせいなのです。

 それでもアテネ市民達は、指揮官達を処刑したのです。

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 一方スパルタはその間に海軍を建て直し、翌紀元前405年ヘレポント海峡に面する都市を急襲占領しました。

 商工業都市アテネは食糧を黒海岸からの輸入に頼っていました。 ヘレポントス海峡は河のような細長い海峡で、黒海と地中海をつなぐアテネの生命線です。 

 ストラテゴラス達の処刑に熱中したアテネは、この海峡の防備を完全にお留守にしていたのです。 これにはスパルタ側も驚き呆れました。
 
 スパルタの急襲に仰天したアテネ市民達は慌ててヘレポントスに艦隊を送り出したのですが、しかし指揮官の人材は尽き果てていたのでしょう。

 実に何とも言いようもない程簡単にスパルタに撃破され、アテネ海軍は消滅しました。

 そして完全に制海権を喪ったアテネは翌紀元前405年スパルタに無条件降伏するのです。

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 歴史の中では暴君が、嫉妬や気まぐれから功臣や堅臣や英雄を誅殺すると言う話は良くあります。

 しかし民主主義国家アテネの市民達ほど執拗に英雄を誅殺し続けた例は知りません。
 
 市民と言うのはこの上もない暴君なのです。

 ミルティアディスの処刑はその暴君の暴挙の始まりでした。
 
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