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2020-12-26 12:48

珍種のパヨクとパヨクの本質 「イスラム教の論理と倫理」

 大分前ですが「イスラム教の論理と倫理」という本を読みました。
 著者は飯山陽さんと中田考さんで、二人の「書簡」という形のなっている本です。

 飯山陽さんの著書については以前「イスラム教の教理」と「イスラム2.0」を紹介しています。
 中田さんは何でも日本のイスラム研究の権威で、イスラム教徒で、しかもISの活動家だそうです。

 つまり二人のイスラム教の研究者が、イスラム圏で起きている物事に、イスラム教という視点から書簡という形で議論するという事になっている本なのです。
 しかし一読すればわかりますが、現実には議論になってないんですよね。

 飯山さんは具体的な問題について、具体的な話をするんですが、中田さんの方はなんかやたらに故事来歴を持ち出して、何とも難解な文章を延々と書き綴って、話を明後日の方向に持って行ってしまうのです。

 イヤ、実はね、ワタシがこの本を買って読む気になったのは、この本の最後の章、二人の最後の書簡が、ネットで公開されていて、それを読んだところ全文読みたくなったからです。
 何で全文を読みたくなったかというと、飯山さんの書簡は、これまで読んだ飯山さんの二冊の著書と同じ調子で、極めて論理的、具体的な文章だったので特にどうという事もなかったのですが、中田さんには驚きました。

 だってホントに難解で、とにかく次から次へと故事来歴や聖賢の書を引用しては、話を一般化、抽象化する方向に持って行くのですが、その抽象化や一般化の論理の根拠になる定理や法則はこの人の脳内にしか存在しない物らしくて、ワタシのような低学歴ネトウヨにはとてもついていけません。

 ヒョッとして飯山さんが、中田さんをあんまりボコボコにやっつけたので壊れちゃったのかも?

 実はこの最終書簡は、飯山さん、中田さんの順に出ていたのですが、この中で飯山さんは中田さんのこれまでの話を、前出の二著と同じ調子で、極めて具体的に論理的にボコボコにしていたのです。

 そりゃ、大権威の大先生が、こんな小娘からここまでボコボコにされたら、壊れるよね?

 しかしネットだけで読めるのは、この最終書簡だけですから、それまでのいきさつがわかるわけではありません。 だから全部読まないでそう結論するのはフェアではないのです。

 だから大枚2090円をはらってこの本を買って全部読む事にしたのです。
 それに丁度このころ、巷では菅総理の日本学術会議の会員任命拒否問題で、大騒ぎになっていました。 
 その任命拒否された大先生達と、中田さんのイメージが何かピッタリ重なったのです。
 
 それでワタシは文系の碩学ってどんなモンだろうか?という好奇心に駆られたのです。
 何しろワタシときたら、三流大学の工学部卒なもんで、文系の大碩学って実物を見た事がないのは勿論、著書だって読んだ事はないのです。

 それで2090円を費やして勉強することにしたのです。
 せめて著書から、文系の大権威というの方々を知ろうと思ったのです。

 で、全文を読む限りは、中田さんの書簡も全体では最終書簡ほど難解でもグチャグチャでもなかったです。
 しかし飯山さんの具体的な問題提起や問題の指摘に対して、中田さんの方がやたらに故事来歴や古今東西の名著やらを引っ張り出しては、意味不明の理論で話を抽象化、一般化しようとするというのは同じです。
 
 なるほど中田さんが大変博覧強記で教養に溢れているのはわかりました。
 この博覧強記振りはワタシが日ごろチャンネル桜で楽しみにしている内藤陽介先生と通じます。

 因み内藤陽介先生も実は東大のイスラム研究室の出身で、飯山さんや中田さんと同門です。 
 東大文系って皆すごい博覧強記なんですね。

 しかし内藤陽介先生と違って中田さんの話はすごく胡散臭くて信用できないのです。
 だって中田さんは実にお粗末な詭弁を繰り返すんです。

 最初に紹介した通り、この中田さんはただのイスラム研究者ではなく、イスラム教徒でしかもISの活動家なのです。

 だから飯山さんはイスラム教の問題として度々テロ、特にISのテロに言及するのですが、それに対して中田さんはドストエフスキーやニーチェを引っ張り出して「テロはニヒリズムから生まれる。 だから日本でもオウムや相模原事件が起きた。」と言うのです。

 或いは「ISが異教徒を殺せと扇動しているからテロが起きるというけれど、その扇動でテロが起きるなら扇動された人間はその場で手当たり次第、出会った異教徒を殺すはずだ。 しかしそんな事はしていない。 だからISがテロを扇動したとは言えない。」など言うんですね。
 
 しかし一方でISが繰り返し「異教徒を殺せ」と扇動している事や、実際のテロが起きた時にISが犯行声明を出してきた事は、完全にスルーしているのです。

 だから詭弁としても随分とお粗末です。
 この人は愚民なら、この程度の詭弁で誤魔化せると思っているのでしょうか?
 それとも自分自身、本気でこの詭弁を信じているのでしょうか?

 この人の文章を読んでいると、常に人を小馬鹿にした調子で、共著者の飯山さんや読者を見下しているのがわかります。
 極めつけは本の「あとがき」です。
 中田さんは読者に向かって「私が書いた文章を読んで読者が理解したことは、私がこの文章を書くに当たって私が意図した事とは全く違う」と書いているのです。

 だったらちゃんと自分の意図が伝わるように書けよ!!
 読者がオマイの意図を理解できないのは、オマイの文章力が欠如しているからだ!!

 でも中田さんはそう言われないように、その後延々と文章で真意を伝える事の難しさを説明するのです。
 なんかもうこれだけで中田さんのお人柄が想像できてしまいます。

 飯山さんは学生時代、こういう人達に囲まれて、散々なアカハラやパワハラを受けて苦労されたようですが、しかし中田さんの文章を読んでいると、なんで飯山さんが苛められかも、内藤陽介先生が東大をやめちゃっかもよくわかります。

 しかし中田さんの文章を読んでいて思ったのですが、この人ホントにイスラム教徒なんでしょうか?
 イヤ、ワタシはこの人が自身をイスラム教徒だと認識している事については全然疑っていません。 
 それどころかこの人は間違いなく御自分を非常に立派なイスラム教徒だと心から信じているでしょう。

 でもこの人の文章を読んでいると、信仰を持つ人、神を恐れ敬う人の真摯さとか敬虔さというモノが欠片も感じられないのです。
 尤もワタシは「人を見る目」というか、他人の気持ちを見抜く能力のようなモノは、非常にお粗末な人間なので、ワタシが直感で田中さんの信仰を語るのはフェアとは言えません。

 しかしやっぱり奇妙なのです。

 中田さんは安倍総理(この本は安倍さんが総理辞任前に出版されているので、本の中では安倍総理なのですが)や日本と日本人については、極めて否定的です。
 それでそれぞれの書簡の中に必ずと言ってよい程、安倍総理、日本、日本人を非難する文章が出てきます。

 勿論、それは構いません。
 日本も日本人もそして安倍前総理も、それぞれ色々な欠点や問題がありますから。

 しかしこの中田さんの安倍総理・日本・日本人の非難の内容が、100%パヨクなのです。
 朝日新聞や赤旗からのコピペそのものなのです。
 
 ISの活動家になるほど熱心なイスラム教徒であるなら、イスラム教徒の教理や価値観から日本を批判するのはわかります。
 けれどもイスラム教の教理やイスラム教徒としての価値観からの日本や日本人や安倍前総理への非難はないのです。
 この人の日本非難の理由は全て朝日新聞や赤旗の記事そのままなんです。
 だからこの人の日本批判を読んでいると、この人はISのメンバーじゃなくて日本共産党員じゃないかと思ってしまいます。

 この人は今60代で、ワタシと同世代です。
 だからワタシと同様な戦後民主主義の教育を受けて育ったのでしょう。
 ワタシ達の世代の人間の価値観は、学校で習った事と、新聞とテレビだけ信じていれば、中田さんと同じです。

 しかしイスラム教に入信するという、ワタシと同世代の日本人としては極めて特異な選択をしながら、実は中身は戦後民主主義そのまんまっていうのは何でしょうね?

 例えばこれは飯山さんがこの本の中でも散々指摘しているのですが、ISが再興しようとしているカリフ制など、実は民主主義とは全く違う価値観によるものです。
 それを信奉する人が、しかし現在自分が暮らす国、自分の同胞、自分の祖国についての問題について、口を開けば戦後民主主義の価値観でしか語らないというのは、実に奇妙です。

 でもこれは実は中田さんだけじゃないようです。
 中田さんの師匠筋に板垣雄三という文化功労者になった大先生がいますが、飯山さんによるとこの人は以下のような、板垣イデオロギーとでも言うべきモノを持っていました。

 日本の「植民地主義、人種主義、軍国主義、男性中心主義という世界史の中での悪性腫瘍的な展開は、ような展開は欧米中心主義と重なり合っており「敗戦後の天皇制もまた欧米を真似た欧米中心主義的な天皇制でしかない。」
 「日本は欧米と並ぶ近代世界の悪の元凶であり、イスラームによってのみそれを超克できる」

 で、この板垣イデオロギーが、日本のイスラム学者の多くに脈々と受け継がれているのだそうです。

 ?? 
 近代世界史上の悪性腫瘍的な展開が、植民地主義、人種主義、軍国主義、男性中心主義

 って?
 ヒョッとしてこの板垣大先生の神様って、実はアッラーじゃなくてGHQ? 
 GHQに沢山入り込んでいたという共産主義者?

 こういうの見ていると、この人達は実は中身は戦後民主主義の優等生そのものでです。
 それがイスラム研究を生業にしたので、イスラム教に媚びているだけかも?
 或いは愚民に対して自分の優位を保障してくれる権威であれば、何でも良いのかも?

 因みにこの人はISの活動家なので、ISがイラクを広範囲に占領した時には、仲間のISの人達からIS占領地への移住を薦められたそうです。
 でも結局行かなかったのです。 
 「あるべきイスラム」とかなんとか色々理屈をつけて、要するに理想のイスラム世界が実現したら移住するけれど、まだその段階じゃないから・・・・・って断ったのですね。

 これも共産主義者に似てますよね?
 日本や欧米の民主主義国家の共産主義者って、ソ連や北朝鮮や中国を散々礼賛したのだけれど結局自分達は、絶対に共産主義国家へ移住せずに、資本主義社会を非難しながら実は資本主義国家で優雅に暮らし続けているのです。
 で、日本や欧米で暮らす共産主義者達が、共産主義国家に行かない理由は「ソ連は(中国は、北朝鮮)は本物の共産主義社会ではないから。」というモノでした。

 彼等がどのぐらい本気で共産主義を信じているかはわかりません。
 でも彼等を見ているとわかります。
 共産主義を信じている事にすると、共産主義という権威を借りて、自分達の同胞や自分に優雅な生活をさせてくれる祖国を罵倒できるのです。

 中田さんのイスラム教も同じではありませんか?

 中田さんは共産主義の代わりに、イスラム教徒の立場で自分の祖国と同胞を侮蔑し罵倒しているわけですが、そもそも主目的が祖国と同胞の罵倒と侮蔑だから、罵倒の中身が朝日新聞の受け売りでも何でもよいわけです。

 ワタシはパヨクと言えば共産主義の発想が根っこにある連中だと思ってきました。
 これはワタシと同類のネトウヨ諸君も同様だと思います。

 しかしこうして中田さんを見ると、実はパヨクの根っこはそういうイデオロギーには関係ないのだとわかります。
 
 パヨクの根っこって実は、

 オレは低学歴の愚民とは違う!!
 低学歴の愚民共がオレを尊敬しないのはケシカラン!!
 オレが尊敬されない社会なんか滅んでしまえ!!

 こういう選民意識からくる憤懣じゃないですか?
 だから自分達を権威づけてくれるならGHQにでも毛沢東にでも、そしてアッラーにでもすがる連中じゃないですか?

 普通のパヨクは共産主義者なんですが、中田さんはイスラム教徒ですから、中田さんはパヨクとしては珍種です。 
 然し珍種でも中身が完全にパヨクなのです。

 だから逆にパヨクというモノの本質がよくわかりました。

 というわけで2090円出してこの本を買ったのは大正解でした。
 皆様もお正月の読書にいかがでしょうか?

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2020-07-16 14:28

「犬と中国人入るべからず」と香港雑感

 最近の香港情勢を見ていて昔見たテレビ番組を思い出しました。

 テレビ番組の中での魯迅とある日本人の学者との会話を覚えています。 

 番組のタイトルとかは全く覚えていないのです、この会話だけは覚えているのです。
 
 日本人の学者が魯迅に「中国人は商売は上手いが政治は下手だ。 政治は日本人に任せたらどうだろうか?」と聞くと、魯迅は「自分の店をドラ息子に譲るか、他人に取られるか、という話ですな。」と答えるのです。

 なるほどいくらドラ息子でも、自分の店なら息子に譲りたいでしょう?
 それを他人に奪われえる事など絶対に許せないでしょう。
 
 しかし店の従業員や取引先にすればどうでしょうか?
 
 ドラ息子が店主となった挙句、店が潰れて仕事を喪う、債務を踏み倒されるのは絶対に困るのです。
 だから従業員や取引先からすれば、店主との関係なんかどうでもよくて、店の経営をちゃんとやって雇用を守り、取引先との関係も良好に維持できる人が店主になってくれたらよいのです。

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 ワタシは1954年生まれですから、生まれてこの方ずうっと帝国主義は絶対悪、特に近代欧米列強や日本による中国「侵略」は一点の弁護の余地もない蛮行だと思ってきました。
 勿論これはワタシだけでなく、日本全体、いや現在世界全体の常識でしょう。
 
 アヘン戦争はそうした侵略の中でも最悪の例とされます。 
 
 しかし現実はどうでしょうか?

 イギリスという悪人は、アヘン戦争により香港という店を奪ったのです。
 その奪い方も人類史上あり得ない程没義道な物でした。

 けれども店の従業員、そしてその取引先、つまり香港の住民と香港と取引をする国々からみて、イギリスという悪人の経営は、清朝のドラ息子である中国国民党や中国共産党による支配とどちらが良かったのでしょうか?

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 アヘン戦争でイギリスが香港を奪った時、香港は現在のような大都市ではなく小さな漁村が散在するだけの荒蕪地でした。

 しかしイギリスが香港を支配するようになると、港湾始め都市インフラが整備されて、ほどなく大都市になりました。
 そうやって香港に集まった人々は、皆中国人なのです。

 彼等は別に香港に強制連行されたわけではないのです。
 貧しい人は職を求めて、そして裕福な人々はビジネスチャンスと、イギリス政府の保護を求めて、皆自らの意思で香港に移住したのです。

 イギリス政府は香港をその立地条件から東洋経済の中心地にするために、香港割譲を要求したのです。
 そしてそれに成功したので香港には職もビジネスチャンスもいくらでもあったのです。
 そればかりかそのビジネスチャンスを生かして得られた富は、イギリス政府が保護してくれました。

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 勿論、イギリスが支配する香港では中国人は二流市民でした。 しかしそれでも参政権がないぐらいで、私有財産権始め、人間が生きていくために必要な人権は、法により完全に保護されていたのです。

 一方、香港の域外での中国領ではそうはいきませんでした。
 
 例えば清朝末期から国民党政権時代、地方の権力者と警察が結託し、裕福な商人などをいきなり逮捕して拷問にかけ、無実の罪を自白させた挙句に財産を奪うようなことが普通に行われていました。
 しかし香港ではそういう心配はなかったのです。

 香港の司法権はイギリスが握っていたのですが、その司法はイギリスのそれに従い、私有財産権始め基本的人権は守られていたのです。

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 そして清朝滅亡、国民党政権の成立、国共内戦の混乱期も香港はイギリス政府により完全に平和が守られていたのです。
 だから戦争で難民化した人々がドンドン香港へ流れ込みました。
 それで香港の人口は、益々増えていきました。

 それでもその国共内戦も遂に終結し、中国共産党政権が成立しました。

 しかしそれこそ中国人にとっては大厄災でした。
 中国共産党政権下の中国は貧困と飢餓、大粛清が続きました。
 その為、共産党政権の厳しい監視にもかかわらず、更に多数の中国人が香港へ逃げ出しました。

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 香港の面積は実は東京都の半分ぐらいしかありません。 
 だから戦前に既に過密都市になっていたのです。 
 そこへ更にドンドン難民が流れ込むですから大変です。

 しかしイギリス政府はこれらの難民をすべて受け入れました。
 勿論これには中国共産党政府が猛反発しました。

 これはイギリスにとっては深刻な問題でした。 
 だってこのころにはイギリスはもう嘗ての「日の没する事のない大国」ではなく、経済的にも軍事的にも落ち目の小国でしかなくなっていたのです。

 けれどもイギリスは外交力を駆使してこの難民達を守りました。
 そしてそればかりでなく香港経済を発展させて、彼等がそれなりに生活できるようにしていたのです。

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 勿論それはイギリス人への対応とは違いました。 例えばイギリスは戦後長らく「ゆりかごから墓場まで」と言われる徹底した福祉政策をとっていたのですが、これは香港には無縁でした。 
 それどころか香港は、元来大変な格差社会でした。

 しかしそれでも香港では中国本土のような大量餓死など起きなかったし、香港経済は順調に発展をつづけたので、香港住民の生活レベルはシンガポールや韓国、台湾などと共に日本に続きアジアではトップレベルになっていたのです。

 中国共産党政権が改革開放へと舵を切ると、中国本土の経済も発展しました。
 そしてそれにより本土の中国人の生活レベルも上がりました。

 しかし私有財産権は勿論、その他の人権が全く保障されないというのは、実は清朝末期と同じです。
 勿論、参政権もないのです。
 
 これでは自分自身が統治される側に立てば「中国の統治とイギリスの統治のどちらを選ぶか?」と言われたら、誰だってイギリスの統治を選ぶでしょう?

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 だから香港返還が決まった時、香港人の多くが香港を去りました。

 香港を去ってカナダやオーストラリアなどに移民申請をして、そこの国籍を取るのです。
 当時、これらの国々は投資移民を歓迎したので、一定額の投資をしたり不動産を取得したりすると比較的簡単に永住権や国籍が取れたのです。

 そして一旦国籍を取ると、また香港に戻って仕事をするのです。
 だってこの当時はやはり香港は、カナダやオーストラリアよりも魅力的な経済圏だったのです。 
 それで彼等は、こうやってカナダ人やオーストラリア人になる事で、香港に戻っても不当逮捕や政変に怯えずに商売を続けようとしたのです。

 但しこの費用は当時の日本円で一人800万円程かかるので、これができるのは相当な富裕層だけでした。

 そして現在の香港を見ると、なるほど彼等は先見の明があったと言わざるを得ません。

 中国共産党政権が今回出してきた香港国家安全法というのは、国外に住む外国人の言論活動までも処罰しようというモノですが、しかし中国政府が一番問題にしている外国人とは、このような元香港住民かもしれません。
 だからこそカナダ政府も中国との犯人引き渡し条約を破棄したのでしょう。

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 一方、幾ら中国政府の統治に不安を感じても資産のない人は、香港から逃げる事はできませんでした。
 だから現在悲惨な状況になっているのです。

 香港がこうして中国共産党政権の支配下に落ちる事で、アジアの金融ハブとしての香港経済の繁栄は終わると言われています。
 それは全くその通りでしょう。

 しかしそれはそれとして香港に一般市民はどうなるのでしょうか?
 香港の繁栄が終わり、仕事がなくなり貧しくなるだけで済むのでしょうか?

 勿論、現在既に独立運動家など多くの香港人が逮捕されてしまいました。 
 それではそうした政治運動に関係しなかった一般香港人は無事で済むのでしょうか?

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 ワタシは無事では済まないと思います。

 だって中国共産党政権からすれば、彼等はイギリスの統治下で長く自由を謳歌して、自由の価値を知った厄介な存在です。 
 例え中国共産党政権に恐怖して沈黙を守っていても、内心は不平不満に思うのは確実でしょう?
 
 しかも香港住民なら多少教育のある者は、皆英語ができて英米始め海外とのコネもあるのです。
 
 そういう人間達の生存を中国共産党政府はいつまで認めのでしょうか?
 
 中国共産党政権はチベット人やウィグル人のように、まったく無害としか思えない少数民族だってジェノサイトしてきた政権なのです。

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 しかしこれ中国の統治です。
 魯迅のいうところの「ドラ息子」が店を継いだ結果です。

 民族自決の理想を達成しても独裁国家では、国民は個人商店の従業員と同じです。
 株式会社の株主ではないので、経営に口を出す権限はなく、ただ一方的に支配されるだけなのです。

 その支配者がイギリス人から中国人に変わっただけなのです。
 
 それどころか中国共産党政権では、共産党政権が国民の生殺与奪を恣にするので、それまでイギリス人の下従業員だった人々は、今度は中国共産党の奴隷になるのです。

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 ワタシは「租界」という言葉を中学時代に歴史で学んだと記憶しています。
 しかしその租界とは何かについては具体的には全く教えられた記憶がありません。 
 
 ただ

 日本や欧米列強が中国の弱体化に付け込んで、中国各地に「租界」を作った。
 これは中国の主権を侵害する侵略行為である。

 と、教えられたのです。
 そして租界内の公園では「犬と中国人入るべからず」という看板までたっていたと教わりました。

 だから「植民地支配は悪だ!!」「侵略戦争は悪だ!!」という話になるのです。

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 その租界とは何か?を知ったのは、実は中年過ぎてからです。
 そして現在更に香港問題を通じてそれを実感しています。

 なぜなら最後に残った「租界」こそが香港だからです。
 香港を見て「租界」の意味が分かったのです。
 
 つまり「租界」とは単なる借地ではなく、その租界内には中国の国家主権は及ばず、代わりに租界を所有する国の主権下に置かれるのです。
 だから租界の中には、だから租界には中国の警察権も及びませんでした。

 それで実は魯迅や孫文など、中国建国の英雄達も当時の中国政府に追われた時には、日本租界に逃げ込んだりしているのです。

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 そして日本や欧米列強が租界を得ようとしたのは、中国での経済活動の拠点を得る為でした。

 経済活動をするのに何で「租界」が必要だったのか?

 それはつまり現在の香港を見ればわかります。
 
 民主的なルールのない国では、正常な経済活動などできないのです。 
 経済活動には自由と私有財産権始め、そこで経済活動をする人々の人権の保障が必要なのです。

 ところが中国の統治にはそれがないのです。
 
 現在、中国本土に進出している企業は、皆中国地方政府等の出鱈目な対応で苦慮しいます。 それで中国から逃げ出そうとしても、社員を人質に取られて逃げる逃げられないという企業も多いです。
 
 だから「租界」が必要だったのです。

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 そしてこうした外国の支配は実は中国人にも歓迎されたのです。
 そりゃ二流市民として扱われ「犬と中国人入るべからず」なんて看板まであれば不愉快でしょう。

 でも中国で公園があったのは租界の中だけです。 中国にはそれまでの歴史上でも、一般国民が入れる公園なんか存在しなかったのです。
 だから公園に入れないからと言って、現実の生活で中国人が困るわけでもないでしょう?

 そして中国人観光客のマナーを考えたら「入るべからず」との看板を立てたくなる気持ちだってわかります。

 しかし租界の外にないのは公園だけじゃないです。
 職も法の保護も、電気やガスな水道などのインフラもないのです。
 
 そして二流紙民扱いも同じで、違うのは二流市民扱いするのが外国人か、それとも中国人の権力者化というだけの違いなのです。

 だったら租界に大量の中国人が移住して、たちまち大都市になったのも道理です。

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 ワタシは長く租界の獲得のような侵略行為、そしてこうした植民地支配を悪とだけ信じてきたのですが、しかし香港の現実を見て考え直さざるを得ません。

 勿論、民族自決により良い統治が実現するならそれが理想です。
 しかし哀しいけれどそうとばかりは限らないのです。

 それどころか歴史を学ぶとそもそも元々の統治者が良くないからこそ、外国の植民地支配に甘んじる事になった国も多いのです。
 その場合、独立して支配権を取り返しても、植民地支配以下になってしまう場合も少なくないんですね。

 つまり異民族の支配だから、植民地支配だから悪いわけでもないし、民族自決すればよい統治になるわけでもないのです。
 民族などに全く関係なく、良い統治者が良い統治をするとしか言えないのです。

 香港を見ていてそれを痛感しました。
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2019-10-07 15:42

読書の秋の辛い読書 「津波の霊たち 3.11死と生の物語」

 昨日は午後3時過ぎになってから、綺麗な快晴になりました。 
 一昨日と一昨昨日は雨で外出できなかったので、空の青さと光の明るさが、格別に感じられました。

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 しかし何となくアタマがぼんやりしていました。 一昨日の夜に読んだ「津波の霊たち 3.11死と生の物語」があまりに辛く重かったので、眠れなくなってしまったのです。
 この本の著者はイギリス人のジャーナリストです。
 彼はあの東日本大震災の後、大川小学校で子供を喪った両親をはじめ、津波の犠牲者の遺族や、津波の後被災者の支援を続けた僧侶などのインタビューを中心にあの津波を描いたのです。

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 ワタシも甥の一家が気仙沼にいるので、あの津波の時は連日、ネットが使える近所の地区センターに通って気仙沼と甥一家の情報を探しました。
 ワタシの契約しているプロバイダーは地震発生とともにダウンしてしまい、我が家のネットが使用不能になったし、NHKを始めテレビ情報は、おどろおどろしい映像を流すだけで、本当の意味での被害情報を得るには、何の役にも立たなかったからです。

 それでも幸い甥一家は、家は全壊したものの、家族は全員無事でした。 そして今では家も建て直し、全く元通りに暮らしています。
 だから我が家にとっては、あの津波はそれで終わりました。
 しかし家族を失った人たちは、そういうわけにはいかなかったようです。

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 この本を読んでいて「死」の重さ、とりわけ子供を喪った親の悲しみに圧倒されてしまいました。
 この本では大川小学校の悲劇が詳しく描かれていますが、親たちが我が子の遺体を探し続ける話は、胸が痛くなります。

 彼等は遺体安置所を巡り歩き、或いは重機のオペレーターの資格を取って学校周辺の地面を掘り返し、そして霊能者を頼って、ひたすら我が子の遺体を探し続けたのです。
 大川小学校で犠牲になった子供達の中で、まだ遺体が見つかっていない子が一人いるのですが、その子の父親は重機を使って今も息子の遺体を探しているのです。

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 こんなに親たちが苦しむのは、津波と言う天災で子供を喪い、遺体も戻らないからでしょうか?
 病気や交通事故など、平時に他の死に方をしたなら、ここまで苦しむ事はなかったのでしょうか?
 
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 平時に事故や病気で死ねば、遺体を探す必要などないし、直ぐにお葬式をして丁重に埋葬して、周りの人々から慰めてもらう事ができます。
 でもあの津波では地域社会全体が甚大な被害を受けた為に、犠牲者の親族たちも遺体を探しながら、それぞれの仕事を続けなければなりませんでした。

 例えば高校の教師だった父親は、勤務先の高校が地域の避難所になっていたので、そのまま勤務を続けて、避難者たちの世話に明け暮れ、休日には妻と遺体安置所を巡って、娘の遺体を探し続けたのです。
 そのような状況で我が子の死を迎えなければならなかったことは、その死をより辛いものにしたのか? それともむしろそれが救いになったのか? 何とも言いかねます。

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 この本の中では大川小学校の犠牲者の両親たちが起こした、訴訟についてもかなり詳しく描かれていました。
 大川小学校の悲劇が天災だったのか、それとも防災体制に不備による人災だったのか?
 この本を読んで、ワタシには何とも判断がつきかねます。
 しかし実は原告側も、本当の意味では判断はできなかったのではないでしょうか?

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 この本で知ったのですが、実はあの津波の犠牲者のうち、学齢期の子供達の割合は驚くほど少なかったのです。
 あの津波は平日の授業時間中に来たので、学齢期の子供達のほとんどは学校にいました。
 そして学校で死んだ子供は、大川小学校の犠牲者以外に、もう一人先生の引率で津波から避難中に溺死した中学生だけでした。

 被災地の学校が地震で倒壊した例は一例もなく、津波で水没した9校のうち、大川小学校を除く8校では、この一人を除く全員が無事に助かっているのです。
 教師達は見事に生徒を引率して、津波から脱出させたのです。
 小中学生の死者のほとんどは、実は病気などで学校を休んで家にいた子供達なのです。
 つまり大川小学校以外では学校の防災対策は完璧だったのです。

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 大川小学校の場合も防災訓練も、ヘルメット等の防災用品の準備もきっちりできていたのです。 また校舎は頑丈なコンクリート建築で、小高い丘の上にあり、地域の避難所に指定されていました。
 だから地震が起きた時は、生徒達はすぐにヘルメットをかぶり、即刻校舎を出てグラウンドで待機したのです。

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 しかし大川小学校の防災マニュアルには、津波に対する対応が全く整備されておらず、そもそも津波が来た時にどうするかを検討した節さへありませんでした。
 それでも避難しようと思えば、避難する事は十分可能でした。 
 地震の発生から津波の襲来までには、1時間弱の時間がありました。
  
 地震が起きたのは下級生の下校時間に当たっていたので、校門にはスクールバスが待機していまたし、地震を心配して車で子供を迎えにきた親達もいました。
 だから子供達をスクールバスや車の乗せて、高台に逃げてしまえばそれまでだったのです。

 また学校の裏には山があり、学校の脇からその山頂に通じる道がありました。 
 この道は子供の足でも楽々と歩ける道なので、子供達は野外学習でその山に登っていました。 
 そして津波が大川小学校を襲った時、この山に登る事が出来た子供達は皆助かったのです。
 だったら早めに子供達を連れて山に登っていれば、何の問題も起きなかったのです。
 
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 しかし結局、先生たちは地震発生から津波が来るまでの一時間弱を、子供達をそのまま校庭に留め置きました。
 子供達の中には「山へ逃げよう」と言った子もいたし、子供を迎えに来た母親の一人津波が来るから早く逃げるようにと教頭に言ったのです。
 けれども教頭は「奥さん、落ち着いて」と言って動きませんでした。
 そして彼もまた津波に呑まれたのです。

 なぜ教師達は避難を躊躇い、校庭に留まり続けたのでしょうか?

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 大川小学校には当時108人の生徒と11人の教職員がいました。 
 そして生徒74人と教職員10人が死亡しました。
 体力のある大人の方が、子供達よりも遥かに死亡率が高い所を見ると、津波が来た時、この教職員達は子供達を捨てて逃げるような事はしなかったと考えるべきでしょう?
 おそらく彼等は皆子供達を守ろうとして津波から逃げられずに死んだのです。

 そして唯一の生き残りである先生も、自身が脱臼しながらも、怪我をした生徒を助けて避難させています。
 ワタシは6月に脱臼したばかりなので、脱臼がどれほど辛いかがよくわかります。
 救急車の中でも痛みで泣きそうだったのです。
 そういう状態で子供を助けるなんて、尋常な責任感ではありません。

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 但し彼は裁判では完全に沈黙を守り証人としての出廷もしていません。
 彼はあの場にいた大人たちのうちで唯一の生き残りであり、当時の教師達の状況判断について知る唯一の人間なのにです。

 そもそも子供を喪った親達が、訴訟まで起こした最大の理由は、実はこの先生や石巻教育委員会など学校の管理の責任者たちが、ひたすら逃げの姿勢を取って、「なんで我が子は死ななければならなかったのか?」と言う親達の問いに答えなかったためなのです。

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 なるほどこれについては石巻市教育委員会もこの教師も非難されて当然でしょう。
 しかし彼等の立場を考えればこれも辛いものです。

 石巻市も津波で甚大な被害を受けています。
 だから石巻市教育委員会のメンバーだって多くが自身の家や家族を失っているのです。
 そういう状態でも当時の被災地の公務員達と同様、彼等もまた被災者の救援や災害復興の為に勤務を続けていたのです。

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 その上こうした訴訟に対応するというのは、完全に人間の限界を超えているでしょう?
 これが平時であれば、家族を喪ったり、自宅が破壊されたりした人は、生活が元に戻るまで休暇を取って当然だし、そういう状態の人を職務上の責任で攻め立てたら、責めた方が非難されるのです。
 でも石巻市ではそういうわけにはいかなかったのです。 
 だって市民皆が被災者なのだから、被災者だからと言って休暇なんか取れないからです。

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 そしてたった一人生き残った先生が、何も証言したくないのだって理解できます。
 そもそも自分自身が死にかけ、目の前で多数の同僚や子供達が死んだのですから、深刻なPTSDになって当然です。 
 また子供達を守ろうとして死んでいった同僚達を責める結果になるような証言は絶対にしたくないでしょう?

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 実はこの人は理科が専門で、大川小学校の前に勤務していた小学校で、その学校の津波の避難マニュアルを変更した実績があります。

 その小学校ではそれまで津波の時には、学校の屋上に避難する事になっていたのですが、でもこの先生は、その避難マニュアルを変えて、学校近くの高台にある神社の境内に避難する事にしたのです。

 東日本大震災ではこの小学校の校舎は津波で完全に水没しました。
 しかし神社の境内は津波の被害は受けませんでした。 それで生徒教職員全員が助かったのです。
 だから彼は前任の小学校の生徒教職員全員の生命を救った人なのです。

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 しかしそういう先生だからこそ・・・・。
 
 だったら先生はなんで、大川小学校の津波避難マニュアルを治してくれなかったのよ??!!
 先生がマニュアルを変えてくれていたら、うちの子は死ななくて済んだのに!!

 ワタシが大川小学校で命を失った生徒の親ならそう言って責めてしまいます。

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 彼は大川小学校については津波の心配はしなかったのでしょうか?
 それともそもそも、大川小学校の防災マニュアルについては無関心だったのでしょうか?
 提言したけれど、他の教員達に反対されてできなかったのでしょうか?
 或いはマニュアル変更を提言できないような何かがあったのでしょうか?
  
 これはいずれであってもこのの悲劇の原因になった大川小学校の危機管理体制の問題についての最も核心的証言になるはずです。
 でも彼は沈黙しています。
 それでもこのいずれであってもこの問題については彼自身が一番苦しんでいるという事は、容易に想像できます。

 あの時、自分がちゃんと調べていれば・・・・・。
 もっとちゃんと他の先生たちに言っていれば・・・・・。
 皆が反対しても、絶対に山に避難するべきだと主張していれば・・・・。

 彼はこれを一生後悔し苦しみ続けなければならないのです。

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 福島第一原発の事故もそうですが、この大川小学校の悲劇も、ほんのわずかの判断ミスから生まれました。
 もう少し用心していれば・・・・。
 
 もう少し用心して防波堤をかさ上げしてれば・・・・。 
 もう少し用心して津波の時の避難所を決めていれば・・・・・。
 
 あの津波は千年に一度の規模の津波でした。
 しかも千年前にあのレベルの津波が、東北地方を襲った事が地質学から証明されたのは、あの津波の半年ほど前の事でした。

 東日本大震災の津波の被災地は中世以前は人口希薄地だったので、文献資料にはこの津波は記載されていなかったのです。

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 そういう津波に対して一体どのように対応できるのでしょうか?

 大川小学校は海岸から6キロ余りの内陸にあり、北上川からも200メートル、つまりバス停一つ分も離れてた高台にありました。
 だから地元の人達の記憶を手繰っても過去にこの近隣が津波の被害を受けた話は出てきません。

 それで大川小学校近辺の住民の多くは、地震の後もそのまま自宅に留まり、津波で死亡しています。
 津波に襲われた地区で、助かったのは仕事等で自宅を離れていた人たちだけなのです。

 それでも半年前に科学的にこの規模の津波の襲来は証明されたのだから、やはりその為の対応はするべきだったのでは?

 そもそも教師として子供の安全を守る責務を負うのだから、用心をしてイケナイ理由はないのですから。 そして大川小学校の場合は、山に避難するのも、車で逃げるのも、何の問題もなければ、費用がかかるわけでもなかったのですから・・・・・・。

 そしてこの判断を誤った結果、大惨事になったのです。
 だからこそ生き延びた人々は苦しみ続けなければならないのです。

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 しかし死者もまた苦しみ続けているようです。
 「津波の霊たち」と言うタイトルの通り、この本には津波の死者たちの霊の話も随分書かれています。

 津波の後、被災地では幽霊を見た人、幽霊に憑りつかれて苦しむ人々が多数いました。
 
 また大川小学校の死者の親達は、霊能者に頼るようになりました。
 霊能者に口寄せをしてもらって、死後の世界にいる子供達と対話する事で、何とか精神の平衡を保ちました。

 更に遺体捜索に当たる警察からも「霊能者に相談しください」と言われました。
 警察が霊能者に頼るって?

 でも何か月も闇雲に地面を掘り返し続けるぐらいなら、霊能者でもなんでも頼れる何かがなければやっていられないでしょう?
 
 そして霊能者が示す場所で遺体が発見された例もあったそうです。

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 一方、津波で死んだ人々の多くが、自分の死を受け入れられず苦しんで他人に憑依しました。

 学校へ娘を迎えに行こうとする途中で車ごと津波に呑まれた父親の魂は、必死に娘の名を呼び続け、娘のところに行こうとしていました。

 被災地のお寺の僧侶たちは、このような霊に憑依された人々を救い、そしてこうした霊が成仏できるように助けました。

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 この本の著者はイギリス人です。
 イギリスの文化には、このような憑依や死者の口寄せと言うものはありません。
 しかし彼はこうした霊に苦しめられる人々に対応する僧侶の話を淡々と描いています。

 こういう霊は実在するのでしょうか?
 それともこれは未曽有の災害を生き延びたために苦しまなければならない人々の精神から生まれた幻想なのでしょうか?

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 散歩に出たのが3時過ぎだったので、直ぐに日は傾いてきました。
 そしてドンドン寒くなってきました。

 散歩中ずうっと寝ぼけたアタマで、いろいろな事を考え続けました。
 でもどんなに考えても答えの出ないでしょう。

 読書の秋の辛い読書になりました。 

 それでもこうしてブログに書くことで、少し気持ちが整理できます。
 そしてこれを読んでくださる方がいると思うと、凄く救われた気持ちになれます。
 だからワタシはこのブログにアクセスしてくださる皆様には、いつも心から感謝しているのです。


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2019-08-25 12:49

スカーレット・オハラは移民二世 移民と愛国心

 「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラは、移民二世です。

 彼女の父親ジェラルド・オハラは20歳でアイルランドからアメリカに移民した移民一世なのです。
 
 「風と共に去りぬ」は多くの方が読まれていると思いますが、それでもこの小説の中で描かれたジェラルド・オハラの人生を紹介したいと思います。

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 「風と共に去りぬ」の描写から推定すると、ジェラルド・オハラが生まれたのは1800年前後です。
 しかし彼の祖国アイルランドは1801年、完全に国家主権を喪い大英帝国に併合されました。

 イングランドのアイルランド支配は1167年のノルマンコンクェストに始まります。 しかし始めはイングランドもアイルランドも同様に異民族であるノルマン人の支配を受けるというだけの話でした。

 けれどもイングランドではノルマン人とサクソン人が次第に融合していきました。
 ノルマン人とサクソン人が合体してアングロ・サクソンになり、二つ民族の言語が合体して英語が生まれました。
 それと同時進行で国家統一と近代化が進んだのです。

 そして近代化と国家統一と同時進行で、イングランドは国家としてアイルランドへの支配を強めて行きました。
 これに対してアイルランド人達は、激しく抵抗しましたが、その度に弾圧されて、より厳しい支配を受けるようになりました。

 致命的だったのは、清教徒革命です。
 アイルランドは革命の混乱を機にイングランドの支配から脱するべく、国王側についてイングランドと戦いましたが、結果は惨敗でした。
 そしてこれ以降、アイルランド対イングランドの対立は、それまでの民族対立にカソリック対プロテスタントと言う宗教対立が加わり、より過激ですくいのない物になってしまいました。

 因みにこの時生まれた、宗教対立は今もそのまま続いており、IRAのテロやブレグジッド混乱の原因となっています。

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 しかもこの頃からイングランドは近代資本主義に突入しました。
 その為、アイルランドに対して帝国主義的な植民地支配を始め、搾取を恣にするようになりました。
 アイルランド人は以降、農地を奪われ、再々大量餓死が起きるようになりました。

 一方資本主義を確立したイギリスは、さらなる植民地の獲得を続け、日の没する事のない大帝国となって行ったのです。
 しかしアルランド史を見ていると、イギリスは植民地の獲得と支配、そして搾取の方法を、まずはアイルランドで学び実践したのがわかります。
 
 イギリスの植民地獲得が続く中で、前記のように1801年、完全に併合されて、アイルランドと言う国家は消滅したのです。
 
 しかしアイルランド人はそれでもイングランドに屈服せずに、抵抗を続けました。
 ジェラルド・オハラの一家もまたイングランドに抵抗を続けました。

 その為、ジェラルドが物心つく頃には、彼の長兄と次兄は既にイングランド官憲に追われて、アメリカに移民していました。
 
 そしてジェラルドも20歳になった時に、アイルランドを侮辱したスコットランド人を射殺してしました。
 そこで彼もまた、兄達を頼ってアメリカに逃亡する事になったのです。

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 ジェラルドの兄達は、ニューオリンズで商人になっていました。 だからジェラルドも渡米直後は、兄達の仕事を手伝っていました。
 しかしジェラルドは暫くすると、南部では商人の社会的地位はそれほどない事を知りました。 南部で最も尊敬されるのは農園主でした。
 だから彼は農園主になりたいと願うようになりました。
 
 そしてジェラルドは持ち前の才気と度胸、さらに幸運にも恵まれて、渡米20年程でジョージア州オーガスタのクレイトン群に、自身の農園を手に入れました。
 彼はそれを「タラ」と命名し、その経営に成功したのです。

 因みに「タラ」は、アイルランドの伝説でアイルランド建国の始まりとされる丘の名前です。

 勿論、南部の農園は黒人奴隷を使う奴隷農園です。 だからジェラルドも百人を超える黒人奴隷を所有していました。
 しかし彼は奴隷制度を疑問に思いませんでした。

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 因みにジェラルドが「タラ」を手に入れたころ、彼の祖国アイルランドでは、ジャガイモ飢饉が起きていました。
 これはアイルランド人の主食だったジャガイモが伝染病で全滅した事により起きた飢饉で、これによりアイルランドの総人口の3分の1が餓死したとも言われます。

 恐ろしいのはこの時期もアイルランドでは大麦やライムギなどの主要農産物は普通に収穫されていた事です。
 しかしこれらの農産物は殆どがイングランドに送られて馬の飼料になっていたのです。

 イギリスの支配下でアイルランドの農地の殆どはイギリス人の地主の物になりました。
 その小作料は収穫の9割ともいわれました。
 アイルランド人は小作人として小作人に貸し与えられる小屋に付属した菜園で取れるジャガイモで生き伸びていたのです。
 ところがそのジャガイモが伝染病で全滅したので、大飢饉に陥ったのです。

 しかしイギリス人の地主達は自分達の利益と、イングランドの馬の飼料を確保するために、アイルランド人の小作人を餓死させることを選んだのです。

 一方、ジェラルドも他の南部農園主達も、自分の黒人奴隷を飢えさせたりはしませんでした。 
 ジェラルドのような南部農園主達は、自分の奴隷には、プアーホワイトと呼ばれる貧しい白人達より豊かな生活を保障していました。
 
 イギリスはジェラルドの同胞であるアイルランド人を大量餓死に追い込んでも「紳士の国」として通るです。
 だったら黒人奴隷を食を保障している奴隷農園主達だって「紳士」を自負するのは当然でしょう?

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 こうして農園主となり、その経営が安定すると、ジェラルドは妻を欲するようになりました。
 農場経営にも、また近隣の農場主達との交際にも、妻が必要なのです。
 ところがジェラルドはこれにもまた素晴らしい幸運に恵まれ、ニューオリンズ有数の名門ロビヤール家の令嬢で15歳だったエレンと結婚する事ができたのです。

 そして翌年には長女スカーレットが誕生しました。 
 夫婦は更に二人の女の子に恵まれました。

 このようなジェラルドを近隣の農場主達は、自分達と同等の南部紳士として受け入れました。
 ジェラルド自身もまた自分を完全な南部紳士と認識していたのです。

 ジェラルドは生涯アイルランド訛りの英語しか話せなかったし、正確な読み書きと計算ができる以上の学歴はなかっし、そもそも「紳士」階級の出身でもなかったし、それどころか殺人犯だったのですが、それでも南部を愛し、南部農園主達を愛し、彼等の生活様式に完全に馴染んだジェラルドを、南部紳士達は完全に自分達の仲間と看做したのです。

 一方ジェラルドも完全に南部紳士の価値観を受け入れ、南部に対して近隣の南部紳士達と全く変わらない「愛国心」を持っていました。

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 ジェラルド・オハラが結婚する以前から、アメリカでは奴隷解放を巡って南部と北部の対立が深刻化していました。
 この時奴隷解放を唱えて北部を代表した政党が共和党であり、南部を代表して奴隷制度の維持を訴えたのが民主党です。

 そして奴隷解放に反対する南部諸州は、連合してアメリカ合衆国から独立するという方向に進みます。
 
 そしてオハラ夫婦の長女スカーレットが成長して、恋に目覚める頃には、南部全域で武力での独立が規定路線になり、独立戦争の為の軍隊の編成が本格化していたのです。
 
 南部の地主達はこれに呼応して、各地で騎兵隊を作り始めました。 こうした騎兵隊に参加するのは農園主の子弟達です。

 これらの騎兵隊は馬は勿論、従卒とその馬など、必要な物は全て騎兵自身が自分で用意する事が前提です。
 そして南部では従卒として騎兵に同伴するのは黒人奴隷でした。
 
 つまり二人分の馬(換え馬も必要なので二頭以上)と屈強な男性の奴隷一人と、その食料弾薬を全部騎兵が負担する事になるのです。
 だから富裕な農園主の子弟でもなければ、入隊できないのです。

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 少し脱線するけど、古代ローマの共和制時代に騎士階級と言われる階級がありました。
 これは高校世界史では、これはローマの富裕層だと教わったのですが、なぜ富裕層=騎士階級か意味がわかりませんでした。

 しかしこの「風と共に去りぬ」の南部の騎兵隊の話で、やっと意味がわかりました。
 古代ローマの兵役は兵士自身が自分の使う武器や食料が自弁なので、騎士つまり騎兵になるのは馬を調達できる富裕層と言う事になるのです。

 もう一つ脱線するけれど、南部の奴隷農園主達は奴隷解放を唱える北部との戦争に、従卒として黒人奴隷を連れて行くことに何の不安も抱いていない事です。
 前線で反乱を起こされたり逃亡されたりしたら大変だと思うのですが、それを全く心配していないのです。

 つまり当時の黒人奴隷と主人には強い信頼関係があったという事でしょう。 
 実際南北戦争の混乱期にも、黒人奴隷の反乱のような事は起きていないのです。

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 ジェラルドの農園のあるクレイトン群でも、農園主達が騎兵隊の結成を決めました。
 そして郡内の農園主の子弟達は皆これに志願しました。

 しかしクレイトン群は開拓の歴史が浅く農園主は少ないので、農園主の子弟だけでは隊員が足りません。

 その為、小規模自作農始や猟師までもの参加を認めたのですが、彼等の馬やその他装備は、全て農園主達が負担する事にしたのです。
 
 ジェラルドも南部の奴隷農園主として、近隣の農園主同様、全面的に民主党を支持し、南部の独立を賛同していました。

 そこで彼はウィルックス家の当主等、近隣の農園主等数名と共にこの騎兵隊の編成の中心になり、馬その他の装備品の調達に奔走しました。
 こういう仕事を引き受けると、他の農園主以上に経済的な負担は大きいでしょうが、しかし彼には息子がいません。
 他の農園主達の息子は皆志願しているのですから、このぐらいは人並み以上にやらねばと言う感覚なのでしょうか?

 それにして凄いですね。
 現在の日本人の感覚では軍隊に志願するだけでも凄いのに、国の為に戦う為に、自費で軍隊を作るというのですから。
 
 因みに南部同盟って完全な民主主義国家なのですが、こういうのを見ると本来の民主主義ってこういう覚悟があって初めて守られる物だと思います。

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 そしてスカーレットが16歳になり、ウィルックス家の園遊会で、アッシュレー・ウィルックスの自分の想いを打ち明けたその日、遂に南北戦争が勃発したのです。

 南北戦争は最初は南軍優位でしたが、しかし南部は人口で半分以下、海軍はなく、工業力もゼロですから、開戦後数か月で苦境に陥ります。
 それでも4年余り頑張りますが、最後には南部同盟全土が北軍に制圧されて敗戦しました。
 
 ジェラルド・オハラはしかし最後まで南部同盟に尽くしました。
 所有する金融資産をすべて南部同盟の国債につぎ込み、南部同盟軍に送る兵站の為に農場の産物を提供し続けました。

 しかし遂に彼の農園「タラ」にも北軍が侵入します。 黒人奴隷達は逃亡し、屋敷は荒らされ、この混乱の中で最愛の妻エレンは病死してしまいました。
 彼はこのショックで、痴呆症になってしまいました。

 そして南部同盟も間もなく敗北し、国家主権を喪い北部の支配下に入りました。

 それでもジェラルドは南部同盟への忠誠を捨てませんでした。
 
 南部を支配下に置いたアメリカ合衆国政府は、南部人達に合衆国への忠誠を誓えば戦争で被った損害を賠償するとしました。
 その為、ジェラルド次女スエレンはジェラルドにこれを薦めましたが、ジェラルドは断固拒否しました。

 そして窮乏の中で死んだのです。

 南北戦争が始まった時、ジェラルドは既に60代で、しかも片足が不自由でした。
 だから出征できませんでした。
 しかし彼もまた南部同盟の為に戦い抜いき、南部同盟に殉じたのです。

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 こうしてみると彼の「愛国心」は本物です。
 しかし前記のように彼は移民一世であり、元来アイルランドの名誉を傷つけた人間を殺害するほど熱烈で過激なアイルランドの愛国者だったのです。

 彼の中で、アイルランド人である事の誇りと南部同盟への愛国心は完全に共存していました。
 
 元来アイルランド人ってアメリカでも差別されていたのです。
 アメリカ人の人種や民族による序列って、出身国の国際的な地位をそのまま反映しているような面があるのですが、アイルランドはインドやケニアと同様イギリスの植民地なのですから、白人の中では最低なのです。

 実際、イギリスでは第二次大戦後もなを「白いニグロ」と呼ばれる程の差別を受けていました。
 南北戦争後一世紀経ってジョン・F・ケネディがアイルランド系として初めてアメリカ大統領になった時は、オバマが黒人として初めて大統領になった時のような扱いで報道されていました。

 しかし彼はそれでもアイルランド系である事を誇り続けたのです。
 そして南部を愛し続けたのです。

 このようなジェラルド・オハラの生き方は、アメリカ人の理想の姿ではないでしょうか?
 アメリカ人は元来皆移民なのです。

 アメリカに移民する人達は皆、アメリカに救いを求め、成功を求めてくるのですが、しかし出身国への愛国心を捨てたわけではないし、民族や人種に至ってはどんな努力しても変更は不可能なのです。

 しかしアメリカに移民した以上は、アメリカを愛しアメリカに忠誠を尽くすべきである。
 そうでなければ移民国は国家として存続できません。
 
 「風と共に去りぬ」の主人公はあくまでジェラルドの長女スカーレットです。
 だから父ジェラルドの人生は、小説の中ではあくまでスカーレットの生きざまを描く為の背景としてしか扱われていません。

 しかしジェラルド・オハラ始め、背景として描かれる南部人達もまた、アメリカ人の多くが心から共感できるからこそ、この小説はアメリカ最大のベストセラーになったのではないでしょうか?

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 因みにワタシは一昨年、アメリカでリー将軍像の破壊事件が頻発し、「風と共に去りぬ」の映画の上映が中止される騒動が起きたのを機会に、数十年ぶりにこの本を読み返しました。

 するとそれまで単なる背景でしかなかったスカーレットの父親ジェラルドの生き方に興味をそそられました。
 それはワタシがネトウヨになって、移民や移民の在り方に興味を持つようになっていたからです。

 移民の受け入れが国益になるか否かは、結局移民がいかに移民先の国に適応するかによって変わります。
 アメリカが国家として成功したのは、これまでアメリカに移民した多くの人々が、ジェラルド・オハラのような生き方を選んだからでしょう。

 しかし在日コリアンやアメリカのコリアンコミュニティーを見ていると、ジェラルドのように民族の誇りと新しい祖国への愛国心を共存させることができる民族ばかりではないのもわかります。

 アメリカが現在移民の受け入れに対して懐疑的になり始めたのも、民族や出身国に執着して、アメリカを利用するだけの移民が増えたからでしょう。
 
 今後、日本にも移民が入り込みます。
 日本人もこうした問題を考えざるを得なくなりました。 

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2019-08-21 10:16

ムーミンパパは凄腕スパイ? 「バルト海のほとりにて」

  少し前ですが「バルト海のほとりにて」と言う本を読みました。
 著者は小野寺百合子は、ムーミンシリーズや「長靴下のピッピ」など北欧の児童文学の翻訳で有名な人です。

 彼女はこの他にも、夫と共にスウェーデンの女性運動家エレン・ケイの「恋愛と結婚」始め、スウェーデンの思想や哲学に関する本や論文を多数翻訳しています。

 「バルト海のほとりにて」には彼女がスウェーデンと更にバルト海を挟んで対岸にあるラトビアに暮らした頃の話が描かれています。

 こう書くと完全なお花畑パヨク本のようなイメージですよね?
 でもここで描かれているのは、第二次大戦前から戦中に至る日本軍の北欧での情報収集活動です。

 このころ世界中で活躍したスパイの中でも最も優秀と言われたのが、1935~1936年までラトビアの
、そして1940年から終戦までスウェーデンの駐在武官を務めていた小野寺信でした。

 その妻がムーミンの翻訳をした小野寺百合子なのです。
 彼女は妻の立場から、小野寺信の情報活動を描いたのです。

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 駐在武官が集めた情報をまとめて日本に送る報告書も、また日本から武官達に送られる指令の多くは秘密情報として暗号化されます、
 
 ドイツやアメリカなど複数の武官が駐在する国では、報告書の暗号化や指令書の暗号解読を専門に行う暗号要員も駐在します。

 しかし駐在武官が一人しかいない国では、妻がこの仕事を行うのです。
 
 その為、百合子は夫の報告書や日本から指令書を精読する事になり、夫の情報収集活動の全容を知る事になりました。
 それだけでなく百合子はまた信が情報源とした人々の多くとも、夫と共に交際していました。 その為彼等の人となりもまたよく知る事になりました。

 前記のように小野寺信は当時のスパイの中でも最優秀と言われる程優れた情報収集活動をしていたので、戦後彼に当時の事を書き残してほしいという依頼は多数ありました。
 しかしなぜか彼はなぜか自身がそれを書く事は好まず、結局妻の百合子がこれを書き残す事になったのです。
 それが「バルト海のほとりにて」なのです。

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 暗号処理と共に駐在武官の妻としての重要な仕事は、在留国の上流階級や他国の駐在武官や外交官との交際です。
 だから駐在武官や外交官は、ヨーロッパの上流階級の生活様式で暮らす事になります。
 そしてヨーロッパの上流階級の社交生活では、妻の役割が非常に重要なのです。

 その為、ラトビアでもスウェーデンでも百合子は、秘書、女中、料理人、子供の家庭教師など多数の家事使用人を使い、家事や育児からは完全に開放されていました。

 こうして百合子は、昼間は各国外交官や駐在武官の夫人達が集まるティーパーティーに、夜は夫同伴晩餐会や舞踏会に出席し、自身もまた再々晩餐会やティーパーティーを主催するという華やかな日々を送る事になりました。

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 実は小野寺信の情報の多くは、在留国の軍部や情報機関や各国駐在武官を通じて得た物でした。
 これには相手との強い信頼関係が必要ですが、しかしこうした信頼関係を築くには、まず多くの人々と幅広い交際をする事が不可欠なのです。

 例えば小野寺はラトビア勤務中にエストニア武官の信頼を得て彼を通じて、エストニアの情報機関からソ連情報を得られる体制を作りました。

 エストニアはソ連と国境を接している事から、多数の情報員を越境させてソ連に送り込んでいました。 
 彼等はソ連軍内部にまで入り込み、ソ連軍内部情報まで得ていたのです。
 
 そしてソ連がバルト三国に侵攻して、日本の外交官や駐在武官が撤退したのちも、エストニア人達は小野寺に重要情報を与え続けてくれました。

 このような体制を作るには、相手との強い信頼関係が必要ですが、しかしその信頼関係を築くには、まず多くの人々と幅広い交際をする事が不可欠なのです。

 スウェーデンでは勤務期間が長かった事もあって、スウェーデン王族や民間人までさらに広い人々と交際しました。
 
 彼はこれを通じてスウェーデン側から多くの便宜を図ってもらう事が出来ました。

 また最新式の暗号解読機の入手に成功し、これがアメリカ軍の暗号解読を可能にしました。

 そして最後にはスウェーデン王族から終戦工作を提案されます。
 スウェーデン国王が昭和天皇と連合国の間に入り、終戦に持ち込むという案でした。

 これが実現していれば原爆が落とされる事も、北方領土を喪う事もなかったでしょう。

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 このような小野寺信の交際を支えるのが百合子の仕事でした。

 因みに駐在武官や外交官の家事使用人には、必ずスパイが入り込むのと言うのが常識です。
 そこで舞踏会などで夫婦が長時間家を空けなければならない場合は、暗号解読書など重要書類は、半分は信が腹巻に入れて、残りの半分は百合子が帯芯に入れて持って行きました。

 その為、百合子は舞踏会もすべて和服で通しました。
 
 しかし夫婦揃って腹に暗号解読書を仕込んで出席する舞踏会とは・・・・・。 

 これは神経を使うでしょう? 
 サラリーマンの妻でも夫の上司夫人との交際なんか真っ平と言うのが普通なのに、国家機密に関わる情報収集に関わる交際に巻き込まれるなんて・・・・・。

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 そもそも小野寺信子は質実剛健な軍人家庭に育ち、夫と子供為に尽くすのが女性の役目と信じる古典的な良妻賢母でした。

 小野寺夫妻には4人の子供がいました。 
 信がスウェーデンに赴任した時は、信だけが先に出発し、百合子は家の始末をしてから出発する事になっていました。

 この時夫婦は学齢期の上の子3人を信の妹に預けて、末っ子だけを連れて行く事に決めていたのですが、百合子は子供達と別れるのが辛く、出発を一日伸ばしに伸ばし続けて、遂に信の友人から「奥さん、いつまでグズグズしているんですか!!」と叱咤されてしまいました。

 彼女はヨーロッパの上流階級夫人として社交界で華やかに暮らすより、糠味噌臭い女房として子供達と一緒に暮らす方が遥かに幸せな人だったのです。

 ともかくそれでも出発する事になった百合子は子供達に「お父さんだけでなく、私もお国為に奉公しなければならなくなったのだから仕方がない。」と言い残しました。
 そしてこの言葉は戦時下に両親と離れて暮らす子供達の心を支えたのです。

 もう、馬鹿フェミが見たら、怒り狂うような古典的な日本女性その者ですよね。

 しかしそれでも「お国の為に奉公する」と覚悟を決めた百合子は、スウェーデンでも暗号処理と社交生活に励みます。

 そして百合子はこれを通じて、多くのスウェーデン人と知り合い、彼等との親交を深めて行きました。 またこうしたスウェーデン人との親交を通じて、スウェーデンの文化の理解するようになりました。
 これにより百合子は後に、北欧児童文学や思想哲学の翻訳家となる事ができたのです。

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 小野寺夫妻がこうしてスウェーデン人達と築いた友情は、終生続きました。
 またスウェーデンへの愛着も終生続きました。

 夫妻は日本スウェーデン協会を設立し、スウェーデン文化の日本への紹介や、日本文化のスウェーデンへの紹介、日本スウェーデンの友好に尽くしたのです。

 小野寺夫妻はまた武官在任中に情報を提供してくれた人達とも、終生交際し続けました。

 その中の一人がポーランド人リビコフスキーです。
 彼は元々ポーランド軍参謀本部付情報将校でしたが、ドイツ軍のポーランド侵攻でポーランドが崩壊するとラトビアに逃れました。
 
 そこで小野寺の前任者だった日本の駐在武官に拾われて、武官事務員として勤務していました。
 しかし彼は元のポーランド情報部の持つネットワークから、ドイツ、ソ連について膨大な情報を得る事ができる男でした。

 このリビコフスキーを通じて、小野寺はドイツ軍のソ連侵攻の意図を知る事ができました。
 しかし当時の日本側はこれを信用しませんでした。
 
 当時日本の軍部は、ドイツがいつイギリスの上陸するかだけを知りたがっており、ソ連に侵攻する事など全く考えていなかったのです。
 
 なぜなら当時のドイツ駐在大使は、ヒトラーやリッペンドロップといつでも直接ヒトラーと話しができる程親密だったのです。
 そしてヒトラーが彼に「イギリスの上陸する」と明言していたので、日本側はそれを信じきっていたのです。

 なんのことはない駐独大使は、ヒトラーとリッペンドロップにまんまと騙されていたのです。

 一度騙されたら騙した相手を二度と信用してはいけないのに、日本はドイツのソ連侵攻後間もなくドイツの日独伊三国同盟を締結してしまいました。 

 リビコフスキー自身は亡命ポーランド軍人達がポーランド国外に作った自由ポーランド軍に所属していたのですが、日本が三国同盟に加盟し、ドイツと同盟関係になってからも続きました。

 しかしドイツの武官がリビコフスキーの存在に気づき、小野寺に彼の引き渡しを要求し始めました。 小野寺はしかし彼をイギリスに逃がしてやりました。

 リビコフスキーはイギリスに渡ってからも、別のポーランド人を通じて、小野寺に情報を送り続けてくれました。

 第二次大戦が終わりポーランドが共産圏に組み込まれると、多くのポーランド人が祖国を追われました。
 リビコフスキーも祖国に戻る事ができなくなり、カナダに移住しました。

 彼はカナダで貧しいポーランド移民を支援し、更にはカナダ政府を動かしてポーランド人のみならず貧し老人達の為のスウェーデン式の老人ホームを設立させることに成功したのでしたのです。

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 無残なのは、ラトビアの運命です。
 ソ連の侵攻で、ラトビアの指導層の殆どが殺害されました。
 またラトビアの総人口の20~30%が、ソ連に抑留されて過酷な生活を強いられた挙句、その殆どが衰弱死しました。
 そしてソ連崩壊までラトビアは完全に閉ざされてしまったのです。

 ラトビアだけでなくバルト三国は全て同様の運命をたどりました。
 こうしてみると共産主義国家に侵略されるとはどういう事かがわかり慄然とします。

 だから小野寺夫妻がラトビアで交際した人々の殆どは、ソ連に殺されたでしょう。 
 しかしそれでもソ連の手を逃れて亡命した人々は、祖国の解放を求めて活動を続けました。

 小野寺夫妻は彼等の活動も支援し続けました。

 このような小野寺夫妻の戦後を見ると、小野寺信の情報収集活動とは、当に彼の誠意その物であったと思えます。
 そして妻百合子も誠意に置いて、また知性に置いても夫に勝るとも劣らない人だったと言わざるをえないのです。

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 因みに小野寺百合子の翻訳の中で最も有名なのは、やはりムーミンシリーズですが、しかしムーミンの作者トウベ・ヤンソンはレズビアンでした。

 彼女はムーミン一家の居住地そっくりの孤島の、ムーミン屋敷とそっくりの家で、パートナーの女性と二人で暮らしながらこの作品を書いたのです。

 でもムーミン一家ってパヨクとLGBT活動家が、目の敵にする古典的な家族その物でしょう?
 小野寺百合子はムーミンを単なる児童書ではなく、深い哲学を含む本だと言います。 
 
 ムーミンママは夫を愛し、息子を愛し、そしてスナフキン始め、一家を取り巻く人々を愛し、彼等の喜びを自分の幸福とする専業主婦です。
 ムーミンシリーズの挿絵は全てヤンソン自身が描いているのですが、ムーミンママはいつもエプロン姿です。

 妻として母として生きた環境は全く違うけれど、百合子はムーミンママの生き方に深く共感したのかもしれません。

 それではムーミンパパは?
 ムーミンパパは若いころには大冒険をしたこともあるのですが、しかしママと結婚してからは職業不詳です。

 でもムーミンママが小野寺百合子の分身なら、ムーミンパパは百合子の夫のような凄腕スパイかも?

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 追記

 ワタシが「バルト海のほとりにて」を読んだのは、チャンネルクララでこの動画を見たからです。
 大変面白い動画だし、そう長くもないので、見ていない方はぜひご覧ください。


https://www.youtube.com/watch?v=1Y8kgTNijVI

 
https://www.youtube.com/watch?v=n2WjtHkli80

 
https://www.youtube.com/watch?v=hYC2OB4tGts

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