前回「ツキディテスの罠」でも書いたのですが、ペロポネソス戦争の原因はアテネの台頭です。
二度のペルシャ戦役で勝利したアテネが東地中海の覇者となったのですが、しかしその後アテネは益々国力を強め、そして更なる覇権を求めるようになったことが原因なのです。
二度のペルシャ戦役に勝利したことで、ペルシャの侵略の脅威は一旦収まりましたが、ペルシャは以前大国です。
それで東地中海諸国はアテネを中心に対ペルシャ軍事同盟を作りました。 これが「デロス同盟」です。
しかし軍事力だけでペルシャ帝国の侵略を防ぐ事は無理と思ったデロス同盟諸国は、ペルシャ帝国と外交交渉を行い「カリアスの平和」と呼ばれる、デロス同盟・ペルシャ不可侵条約を結びます。
この条約はその後きっちりと機能して、以降ペルシャ側からギリシャ諸国への侵攻は起きませんでした。 つまりこれでペルシャ帝国とギリシャ諸国の国境の現状変更は不可能になったのです。
これは良い事ずくめと思うのですが、しかしこうなると更なる覇権を求めるアテネは、その矛先を西地中海に向けざるを得なくなりました。
しかし西地中海はデーバイやコリントなどペロポネソス同盟諸国のテリトリーでした。
アテネはそこに手を突っ込むのです。
しかもそのやり方がえげつなくてね。
このアテネの権益拡大の手法が塩野七生さんの「ギリシャ人の物語」に詳しく描かれているんですが、ホントに大阪弁で「えげつない」としか言いようのないやり方です。
そしてこの「えげつない」権益拡大を推進したのは、ペリクレスなのです。
しかしペリクレスは民主主義の英雄と言える人ですから、現代の中国や帝国主義華やかなりし頃の大英帝国に比べても遥かに洗練されたやり方を使います。
アテネはまずコリント湾の出口のナウパクソスに海軍基地を作ります。 コリント湾と言うのは口のつぼまった徳利みたいな形をしており、ペロポネソス同盟最大の最大の海軍国コリントはこの徳利の底にあるのです。
それなのに徳利の口元にアテネの海軍基地を作られたのです。
当然、コリント側はアテネに猛抗議します。
またペロポネソス同盟の盟主であるスパルタにも、この問題を訴えて、アテネ基地撤去の支援を要求します。
そこでスパルタはペロポネソス同盟の盟主として、この問題についての全ギリシャ会議を呼びかけました。
ところが結果は、アテネのナウパクソス領有と海軍基地の存在を追認する事になってしまいました。
何でこんなことになったのか?
実はペリクレスは実はスパルタ王アルキモダスとは親友ともいえる間柄でした。 そして当時のスパルタは国内の隷属民ヘイロットの反乱に手を焼いていました。
アテネがナウパクソスを領有すると、そこにスパルタで反乱を起こしていたヘイロット1万人余りを受け入れたのです。
これでスパルタでのヘイロットの反乱は収まり、アテネはスパルタの暗黙の了解のもとにナウパクソスを領有したと言うわけです。
アテネとスパルタにとってはウィン・ウィンですが、こんなのコリントにとって許せるわけないでしょう?
しかしコリントの怒りをよそに、ペリクレスはさらなるアテネの権益拡大に向かいます
次にペリクレスが狙ったのは東地中海の北端、黒海に近いアンフィポリスでした。
ペリクレスとしてはここを抑える事で、黒海貿易の基地にする他、後背地にある豊かな森林資源を確保できることが魅力でした。
そしてそのアンフィポリス確保にも、前回のナウパクソスの時と同様、魔法のように見事な外交を駆使しました。
ペリクレスと言う人は、元来軍事的な才能は今一で、自分もそれを知っていたのか、直接的な軍事行動はあまり使いませんでした。
しかし歴史的な雄弁家で「戦死者追悼演説」などは今も民主主義の精神を表す物として、ヨーロッパの諸国で教科書に掲載されているほどです。
アテネの最高行政職であるストラテゴスに30期連続当選し続けた人です。
ストラテゴスは一期一年、アテネを10個の選挙区にわけて、各選挙区から一人選ばれる役職です。 そして10人のストラテゴスの権限は完全に同等でした。
ところがペリクレスは抜群の雄弁と能力で、30期連続当選を続けたので、経験でも実務能力でもペリクレスに対抗できる人がいませんでした。
更に超長期政権の間に、スパルタ王アルキモダス始め、周辺諸国の政治指導者とも強い人脈を築きました。 お陰で彼は前記のような魔法のような外交ができたのです。
だからツゥキディテスはこのペリクレスの30年を「民主主義と言いながら、実際は1人の男が支配した時代」と評しています。
そしてソクラテスは「民主制は僭主制に至る」と言っていますが、政体や制度がどうであれ当時のペリクレスの実力は「僭主」つまり独裁者その物だったのです。
そしてこのペリクレスは自身の能力と権力をフルに生かして、アテネの権益拡大に務めたのです。
つまり彼の雄弁と人脈をフルに生かして、周辺諸国を上手く丸め込んで、これと言った軍事行動もなしに、要衝をアテネの物にしてしまうのです。
しかしこんなことを再々やられては、やられた方は怒りをため込み続けるのが当然ではありませんか?
一方、アテネ側としては「侵略戦争したわけじゃないし」と言うので、全然この感情に配慮する事もなく、成功を重ねれば重ねる程、更なる権益獲得を求める事になるのです。
これじゃいずれ爆発して当然でしょう?
これがつまり「ツキディテスの罠」新興国の台頭が戦争の原因になると言う話です。
それにしても思うのですが、アテネの際限もない覇権主義は、正に民主主義の英雄ペリクレスの時代に最も顕著だったわけです。
ワタシ達、戦後教育を受けた世代は学校教育その他では「民主主義=平和」「侵略戦争=独裁者」と教わっているのですが、このアテネの例を見ると、ワタシはこれ全然信用できません。
イヤ、アテネだけではなく古代ローマでも領土拡張に励んだのは、共和制時代で帝政になってからは守勢にまわっています。
ヨーロッパ列強が植民地獲得に励んだのも市民革命以降です。
そしてペリクレス時代のアテネも共和制ローマでも、また帝国主義全開だった当時のヨーロッパ諸国でも、国民世論が侵略戦争を支持しているのです。
領土拡張を求める国民が、兵士となって戦うから民主主義国家の軍隊は非常に士気が高く強いのです。 だから侵略戦争に勝てるのです。
こうした歴史を考えると、ワタシは「民主主義=平和」論は全然支持できません。