この記事は有料記事なので、無料部分しか読めないのですが、しかし無料部分だけを読んでもヤッパリ、朝日新聞の報道姿勢がよくわかります。
しかしこれが大人の意見、しかも新聞社の意志なのです。
記事は一応、朝日新聞社外の人間、大学教授の意見と言う体裁を取っているのですが、しかし朝日新聞に限らず新聞社は、自社の意見として言いにくい意見は、社外の「言論人」に語らせますからね。
しかし余りと言えば余りに突っ込みどころの多い記事なので、無料部分を全部コピペして、その都度突っ込みます。
元記事は青字、ワタシの突っ込みは黒字にします。

10月31日 朝日新聞
何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代。そのうち、仕事でもAI(人工知能)が導く最適解に従うことになるのかもしれない。なんだか自分の感覚や経験則には、なんの価値も無いような気がしてしまう。「客観性の落とし穴」(ちくまプリマー新書)の著者で、大阪大学教授の村上靖彦さん(53)に、エビデンス重視の世の中にどう向きあえばいいか聞いた。
他人に自分の意見を述べる時には、合理性や客観性を求められるのは普通じゃないですか?
人間は1人1人違った価値観、違った利害、違った感情を持っています。 だから自分の意見を他人に納得してもらう為には、なぜその意見が正しいかと言う事について相応の「エビデンス」を示す必要があります。
少なくともそれが成人した人間同士の意思疎通の原則です。
自分の意見を「エビデンス」なしに他人にぶつけて、他人がそれを受け入れてくれると大変快適ですが、しかしそんな事が許されるのはちゃんと言葉の話せない幼児だけでしょう?
これは人間が言語を使えるようになってからの始まった事でしょう?
ところが朝日新聞の記者にとっては、現代だけが「何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代。」だそうです。
それで「エビデンスを示せ」と言われると「なんだか自分の感覚や経験則には、なんの価値も無いような気がしてしまう。」と言うのですが、自分の価値観や経験則が正しいと思うなら、なぜそのような価値観や経験則が正しいと思うのかを、きちんとした「エビデンス」を出して、論証すればよいのです。
数値データがないと耐えられない
――著書が売れています。社会の動きだけでなく、人の気持ちも数値化していった結果、失われたものがあるのではないかというテーマの本です。
会社員の方からの反響が大きかったです。みんな数字に追われてつらいのでしょう。SNSでも、データを持ち出してきて、自分の気に入らない投稿を批判するような書き込みが目につきます。エビデンスという道具を使って、他者をたたきたいという暗い欲望が蔓延(まんえん)しているように感じます。
会社員からの反響が大きかったと言いますが、ビジネスの問題で社内で議論になった場合こそ、意見の違う上司や同僚、得意先などを説得する場合、相手を説得するにはより客観的な「エビデンス」を出すべきじゃないですか?
逆に聞くけど明確な「エビデンス」なしに自分の意見が否定されたり、他人の意見を否定してもよいのでしょうか?
数字と言うのは一つの指標にしか過ぎないので、数字だけで全てを決める事はできないし、するべきではありませんが、しかし数字に意味がないならなぜその数字に意味がないかをきちんと話せば済む事です。
結局朝日新聞が言いたいのはこれでしょう?
>SNSでも、データを持ち出してきて、自分の気に入らない投稿を批判するような書き込みが目につきます。エビデンスという道具を使って、他者をたたきたいという暗い欲望が蔓延(まんえん)しているように感じます。
そうですね。 朝日新聞としては困りますね。
ツィッターでもその他のSNSでも、朝日新聞の記事の出鱈目さをデータを持ち出して証明する人が多数います。
しかしそれは「エビデンスという道具を使って、他者をたたきたい」わけではなく、朝日新聞のように多数の購読者を持つ新聞が、何の「エビデンス」もなく出鱈目なニュースを発信してはイケナイからです。
――教え子の大学生たちから、「先生の考えに客観的な妥当性はありますか」と聞かれることもあるそうですね。
僕の研究は、ヤングケアラーや看護師、困難を抱えている当事者たちの語りを分析する内容で、数値的な証拠は積み上げない。まだ統計の意味をしっかり学んでいない若い学生は、数値データを使わないことに耐えられないのかもしれません。現代社会では、客観性や数字的なエビデンスこそが真理だとされているので、無理もありません。
しかし、個人のそれぞれの経験のなかにも、普遍的な事実はあるはずです。語りの中に小さく折りたたまれた細部を読み解き、語り手の内側にある視点から社会構造を描くと、どうして差別が生まれるのか、困難な状況に追い込まれる人がいるのかが見えてくる。数値的なエビデンスや客観性がとる視点とは逆向きの視点の置き方ですね。
――たった1度の個人の経験も学問になるのですか。
挑戦的な研究だとは思います。「客観性」という言葉が普及したのは19世紀半ば以降といわれていますが、自然科学を中心とした近代的な学問では、再現性や統計的な蓋然(がいぜん)性が重視されてきました。でも、個人的な体験の中で感じたことはその人にとっても一つの真実です。同時に誰にとっても意味のあるものになり得る。小説や映画はそうした経験をとらえ、多くの人に伝わる表現に落とし込んでいますが、僕らはそれを現象学で試みている。エビデンスが重視される世界のなかで、個別的な経験から普遍的な意味を取り出すことの意味を問い直したいと思っています。
エビデンスって英語で「証拠」を意味する単語ですよね?
だから個人の体験も「エビデンス」です。
現代では経済その他について多数の統計データがありますが、しかし近代以前にはそういう数理的なデータは殆どありません。
だから歴史学やさらに言えば経済学でも近代以前を研究する場合は、個人の体験談や小説などを資料として研究しています。
例えばペロポネソス戦争についての資料としては、ツゥキディテスの「戦史」だけでなく、アリストパネスの喜劇やエウリピデスの悲劇も重要な資料、つまり当時の人々の心情や投票行動の理由を知る重要なエビデンスとして扱われています。
平安時代の研究には「源氏物語」始め、当時の小説や和歌が重要なエビデンスとしてされています。
また近代以降でも公的な統計の対象にならない人々、例えば慰安婦の労働条件などを研究したラムザイヤー教授や朴裕河教授は元慰安婦の証言、慰安婦の労働契約書、更に慰安所管理人の日記などの資料をエビデンスとして「従軍慰安婦20万人強制連行」が、完全に朝日新聞の嘘である事を暴きました。
そもそも学問には「エビデンス」が必要なのです。 エビデンスがあって初めて学術論文になるのです。
それがなければ唯のファンタジーか妄想です。
「エビデンスに殴られている」 分断の道具に使われる客観性
――去年、小学生の間で「それってあなたの感想ですよね」というフレーズが流行しました。論破ブームも続いています。いつでも数値的な根拠が必要で、自分の経験や考えには価値がない気がしてしまいます。
記事の無料部分はここまでです。
この後の優良部分に何が書いてあるのかはわかりません。
しかしここまで読んでマジに朝日新聞とその御用学者の現実認識に呆れます。
最初の突っ込みで書いた通り、この世には多数の人がいて、その人達は皆それぞれ全く違う価値観、違う感情、違う利害をもって生きているのです。
だから他人に自分の経験に共感してもらおうとしたら、自分の考えに賛同してもらおうとしたら、相手が納得できるような客観的な「エビデンス」を出して説得するしかないのです。
だって自分にとって凄く大変だと思った事でも、他人にとって大変とは限りません。 自分から見て凄く大変な事を他人は既に体験して、難なくこなしている場合だってあるのです。
また相手は自分の知らない事情を知っているかも知れません。
或いはもっと大変な目に遭っている最中かもしれないのです。
だから意見が違う場合は、お互いに自分の意見の「エビデンス」を示しあって、話をするしかないのです。
ぞれなのに現実の状況を客観的に説明する事もできず、反論されたら「エビデンスに殴られている」って何ですか?
赤ちゃんですか?
「分断の道具に使われる客観性」って何ですか?
ワタシはそもそも「分断」と言うのがわかりません。
だって世界は多様性に満ちているのです。
つまり人間は1人1人、違った価値観、違った感情、違った利害をもって生きているのです。
だからそもそも人間は最初から一人一人分断されているのです。
そういう分断された個人がお互いに理解し合う為には、自分の価値観、自分の感情、自分の利害が相手とは違う事を前提にして、自分の意見の正しさを相手にわかるように説得するしかないでしょう?
その為に必要なのが客観性でありエビデンスです。
しかしこの記事を読む限り、朝日新聞はそもそも人間は1人1人、違った価値観、違った感情、違った利害をもって生きていると言う事を認めないのです。 つまり人間本来が持つ多様性を認めないのです。
朝日新聞は無暗に「多様性の尊重」と言う言葉を持ち出すのですが、しかしやたらに「分断」と言う言葉を持ち出す所を見ると、彼等はそもそも人類本来が持つ多様性を認める事ができず、全て人類は自分達と同じ価値観、同じ感情、同じ利害を持っている物と規定しているのです。
だから他人と意見が違う場合に、相手に客観的な「エビデンス」を示すべきであると言う事が理解できないのです。
そして相手から「なんで貴方はそれが正しいと言えるんですか?」と言われて、客観的なエビデンスの提示を求められた時、また相手が自分の意見に賛同せずに、自分の意見を覆すようなエビデンスを突きつけられると「エビデンスに殴られている」と感じるのでしょう。
これではもう小学生とだってマトモな話はできません。
しかし朝日新聞は何でこんな意見を掲載するのでしょうか?
それはこの幼児レベルの現実認識が朝日新聞記者の標準だからでしょう。
そもそもエビデンスと言う言葉で思い出すのは、朝日新聞編集員の高橋純子氏です。
彼女は自著「仕方がない帝国」で以下のように書いています。
嫌われたり読み捨てられたりしながら、読者の思考をちょっとでも揺さぶりたい。はい。きれいごとですよ、きれいごと。だけど、そこを曲げたら私のなかで何かが終わる。何かは何か。何かとしかいいようがない、何か。エビデンス? ねーよそんなもん。
欺瞞を正面から論破するのは難しい。だから「なんか嫌だ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです。
つまり朝日新聞編集員が自著で堂々と自分が書いてきた記事には「エビデンス? ねーよそんなもん。」と書いているのです。
なるほどこういう社風だから「従軍慰安婦20万人強制連行」なんて捏造もできちゃうわけです。
しかし朝日新聞が「従軍慰安婦20万人強制連行」を捏造した時代には、新聞やテレビに匹敵するような情報発信機関はなかったので、こんな嘘八百も発信し放題でした。
当時は出征経験があり実際に慰安所に通った人達の殆んどがまだ60代半ばで、存命だったし、記憶や言動もしっかりしていたのです。
それでも当時は新聞とテレビが結託したら、こうした人々の意見を抹殺する事ができたのです。
しかし現在はそうもいきません。 ツィッターにもコミュニティノート機能が付き、嘘を書くと、大新聞でも国会議員でも、その嘘をエビデンス付きで暴かれます。
これって高橋純子編集員など朝日新聞の記者にとっては大変厳しい状況です。
だからこんな記事を掲載したんでしょうね。
しかしこの記事を読む限り、朝日新聞はこの状況でなお、何とか今後も「エビデンス」のない記事を書き続けたのでしょう。
これじゃ購読者が減るわけです。