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2010-10-23 11:25

日の丸恐怖症

尖閣諸島で中国に抗議 大阪・御堂筋で約1000人がデモ

 

 尖閣諸島の問題で中国への抗議デモが初めてマトモにニュースになりました。

 しかし不思議ですね。

 

 最初のデモがあったのは、10月2日です。 そして次は16日です。 しかしどちらでも日本の報道機関は報道しない自由を駆使して、殆ど報道しませんでした。

 しかもこの二度のデモは、参加者が2日が「2700人、16日が2800人と、この御堂筋のデモの3倍の規模だったのです。

 

 強いて言えば御堂筋のデモはウィークデーでした。 ウィークデーに1000人集めるのは確かに凄いです。

 

 でも他の理由もあるのかもしれません。 写真を見比べてください。

 

  

 

 これが↑産経新聞が報道した22日のデモです。

 

  

 

 これが↑CNNはじめ海外の報道機関は報道したけど、日本のマスゴミが報道しない自由で黙殺した2日のデモです。

 

 http://yomogineko.iza.ne.jp/blog/entry/1827500/

 

  

 

 そしてこれが↑16日のデモです。

 

  http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1847604/

 

 大きな違いがあります。

 

 そうです。 

 日の丸です。

 

 22日のデモ隊と2日と16日のデモ隊のは、スローガンや目的は殆ど同じなのです。

 しかし22日のデモ隊は殆ど誰も日の丸を持っていません。  オマケになぜか星条旗なんか持ってる人が居ます。

 一方2日と16日のデモ隊は日の丸を林立させています

 

 20日のアンカーで青山繁治氏が仰っています。 青山氏もこの2日と16日のデモが日本では殆ど報道されなかった事に付いて、疑問を持って古巣の共同通信はじめ知人の新聞記者に理由を聞いたそうです。

 

 すると記者達は「日の丸を持っているので右翼のデモだと思って報道しなかった」と言ったそうです。

 

 http://blogs.yahoo.co.jp/tankou_2008/33442892.html

 

 しかし何とも奇妙な話です。

 

 第一この2日と16日のデモを主催したのは「頑張れ日本」です。 田母神氏はじめ多くの有名人や議員が参加しました。 写真を見ても普通の中年女性や子連れの若い母親などが、多数参加していました。 ただの街宣右翼のデモでない事など誰にでもわかります。

 

 或いは街宣右翼がこのような人々を3000人も集める事が出来るようになったら、それこそ大ニュースではありませんか?

 

 しかし日本のマスゴミは日の丸がキライなのです。

 日の丸を見ると産経新聞でさへ、ひきつけを起こしてショック状態に陥り報道できなくなるようです。

 

 これが戦後教育の成果なのです。

 

 

 

 

  1. 島国根性
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2010-10-17 11:18

日本が排他的である理由

by  nyakopong さん

 よもぎねこ様 おひさです。
 しばらくご無沙汰している間に、よもちゃんが世界史を講義するほど博識なっている!
 
 分割して支配せよ!は鉄則ですね。しかし、それを考えると、幕末時の日本やタイはよく統一性を維持できたと思います。
 薩摩長州と幕府のいがみ合いが長引いたていたら、西日本はイギリスの、そして東日本はフランスの影響下に入っていた可能性が高いと思います。
 植民地にされていたかどうかは、わかりませんが、東日本と西日本が、アメリカとカナダのような関係になっていたかも、と想像してしまいます。

 

  

 

 これは先日のエントリー「対話編 まだ続く」にnyakopongさんが下さったコメントです。

 

 実際、日本は幕末から明治へと、何とか分断の危機を切り抜けて、統一を保ったまま近代国家を作る事に成功しました。

 

 しかしこれこそが日本が「排他的」で「国際化できない」理由なのです。

 

 つまり国の国際化の目安に、国際結婚や国内に居住する外国人の割合を使います。 また大学のレベルや国際化でも、外国人教員の割合を使うそうです。 

 そして当然ですが、日本はどれも非常に低いのです。

 

 それでポッポのような人は「日本は排他的だ」「日本をもっと国際化しなければならない」と言います。

 

  

 

 しかし明治維新の時に分裂していたら、簡単に国際化できました。

 

 例えば日本が東西に分かれて、江戸国と京都国に分かれていたらどうでしょう?

 だって関西の人と関東の人が結婚すれば国際結婚です。

 大阪の人が、東京に転勤すれば、海外勤務で、東京では在留外国人になります。

 

 政治的理由から、日本が東西に分かれていても、経済や文化は、江戸時代から一体化していましたから、人間同士交流は盛んに続く事になります。

 

 我が家も父が元は大阪本社で入社し、その後札幌へ転勤になっていますから、今頃外国人として札幌に居住している事になったわけです。

 

   

 

 元々文化や経済が一体だった地域が、分割して国家を作れば、国際化するのは当然なのです。

 

 この実例がドイツです。

 ドイツでは国際結婚の割合が、日本などより遥かに高いし、外国人が国内に居住する割合も高いのです。

 

 しかし実はドイツ人の国際結婚の大半は、オーストリア人との結婚です。 そしてスイスなど他のドイツ民族の国がそれに続きます。

 我が尊敬するアムゼル夫妻のように、ドイツ人と日本人の結婚など、極少数派です。 そして日本人と結婚したドイツ人なんか、ドイツ人と結婚した日本人と同数ジャマイカ?

 

 そして南ドイツの人にとっては、北ドイツの人よりも、オーストリアの人ほうが、方言も似ていて宗教も同じカソリックで、ずうっと親しみがもてるというのです。

 一方、北ドイツの人すれば、南ドイツの人より、デンマークやノルウェーなど、北欧諸国に親しみを感じると言います。

 

  

 

 それが今のような国境が引かれ、いくつもの国に分かれたのは、その時代ごとの政治的いきさつによるものです。

 

 例えばドイツ統一戦争の時代、プロシャはオーストリアに勝ったけれど、オーストリアをその領土に併合しませんでした。

 

 だって当時のオーストリアは、ハンガリー、チェコ、スロベニア、クロアチア、など東欧諸国の半分ぐらいを含む巨大国家で、その支配下には大量の異民族が居ました。

 

 ドイツ統一戦争は、国民国家としてのドイツを作るのが目的なのに、こんなモノ抱え込んだら、それどころじゃないでしょう?

 

 実際オーストリア(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)はこの民族問題で苦悩を続け、第一次世界大戦後崩壊します。 

 そしてドイツ民族地域だけ、ただのオーストリアだけになったら、今度は問題なくドイツに併合されました。

 

  

 

 そしてこれはドイツだけでなく、ヨーロッパのような大陸国家は皆似たようなものです。

 例えば、ソ連崩壊後のウクライナの独立や、ユーゴスラビア崩壊なんか良い例です。

 

 ユーゴスラビアの例なんか、悲惨です。

 言葉も風俗も殆ど違わない連中が、些細な経済的利害の対立から、独立を叫び出して近所隣、親戚友人同士で殺しあって、挙句に札幌程度の人口の国を幾つか作りました。

 

 国家と国境がこのように決まった国々での「国際化」と日本の「国際化」とを、単純比較する事など、ナンセンスなのです。

 

 逆に言えば、連中は日本人の感覚から言えば、到底理由にならないような事でも深刻な対立になって、国家を作るほど排他的なのです。

 

 そしてまたヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の間の敷居はヤッパリ高いのです。

 それはトルコが待てど暮らせど、EUに加盟できず、一方クロアチアやスロベニアが簡単に加盟できる事なんかを見てもわかります。

 またフランスがロマを追い出す事も同じです。

 

  

 

 日本が国際化できない理由は、だから簡単です。

 

 それは日本民族の国家が、日本以外にないからです。

 日本民族と似た民族の国家も無いからです。

 

 ヨーロッパ諸国のように、些細な経済利害や政治的対立で、独立したりせず、全日本民族が統一国家を作ってしまったからです。

 

 

 

  

 

  1. 島国根性
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2010-09-19 19:04

どっちもどっち

 アメリカの牧師さんによるコーラン焼却騒動は、ワタシのブログでも大論争になりました。

 それで改めてこの問題に書いてみたいと思います。

 

 ワタシはこの騒動実はどっちもどっちだと思っています。

 

 そもそもこの騒動の発端は、アメリカのイスラム教徒達が、911事件の跡地から120mのところにモスクを作ろうとした事から始まりました。

 

 これに911事件の被害者遺族が反対しました。

 

 勿論これはナンセンスな感情論による反対です。 

 

 別に今回モスクを建設しようと言うイスラム教徒達が、アルカイーダの仲間ではないし、イスラム=テロではありません。

 

 またアメリカの価値、つまり宗教の自由や私有財産権から言っても、イスラム教徒達がどこにモスクを建てても、それを止めさせる権利は誰にもないのです。

 

  

 

 しかしそれを言えば、牧師のコーラン焼却への反対だって全くナンセンスな感情論なのです。

 

 なるほどイスラム教徒にとっては聖典ですが、イスラム教徒でなければ唯の紙くずなのです。 古新聞やポルノ雑誌と同じなのです。

 

 異教徒に自分達の聖典を尊重する事を期待するなんてオカシイでしょう?

 ましてそれを焼かれて狂乱するなんて、ナンセンスにも程があります。

 しかもそれは異国での話しです。

 

 イスラム世界でキリスト教や仏教の聖典や聖像を破壊しても、キリスト教徒も仏教徒も別に文句も言ってはいないのです。

 例えばバーミヤンの大仏破壊で、欧米や日本に居るイスラム教徒が何かされたでしょうか?

 

  

 

 尤も感情論から言えば、911事件の跡地の近くにモスクを作るなと言う、遺族達の気持ちは解ります。

 

 なるほどあれがイスラム教そのものの責任ではないにせよ、あの事件の時多くのイスラム教徒が大喜びし、熱狂的にアルカイーダを支持したのは事実です。

 

 そしてイスラム教指導者などイスラム教徒の立場からあの事件に反省を示した例は殆どありません。

 

 遺族がこの宗教に不快と不審を持つのは当然でしょう。

 

 ニューヨークは広いのです。 この土地は売って、他に便利の良さそうな土地を探しても良いではありませんか?

 その予定を示せばアメリカ政府もニューヨーク市も喜んで協力を惜しまないでしょう。

 

 しかし彼らは何としても、ここにモスクを建てると言って聞かないのです。

 この無神経さには、被害者やその関係者ならずとも不審を感じます。

 

 そして同じ感情論から言えば、コーラン焼却にイスラム教徒が怒るのは当然なのでしょう。

 

  

 

 だからもし感情論に配慮せよと言うなら、コーラン焼却も911跡地近くのモスク建設もダメです。

 

 しかしそんなナンセンスな感情論は無視して、法と民主主義の原則によって対応せよと言うなら、モスク建設もコーラン焼却もOKなのです。

 

 ワタシが日本でのこれに関する議論を見ていて異常に思えたのは、多くの人がこのバランスを欠いて、一方的に牧師側の狂信だけを批難している事です。

 

 しかし狂信は牧師に殺害の脅迫をしたイスラム側の方が余程深刻なのです。

 このような暴力に屈することは、そもそも民主主義国家としてあってはならない事です。

 

  

 

 イスラム社会と欧米との確執には、恐ろしく長い歴史があります。 簡単に言えばイスラム教成立以来、ずう~~っと揉めっぱなしです。

 

 その間にキリスト教側は十字軍や植民地支配を行いましたが、実はイスラム側も地中海での海賊行為や、オスマン帝国の侵略での東欧諸国での大虐殺何度もしています。

 

 地理的に隣同士で、双方絶対他者を認めない一神教だから、仕方がありません。

 

 けれども実はこれは双方が相手に対応するノウハウを溜め込み続けた歴史でもあります。

 戦争と言うのは究極の文化交流なのです。

 

 その意味では日本はこの血みどろの文化交流に無縁だった分、綺麗な身ではありますが、この確執の根源には無知なのです。

 

 けれどこれからそんな事は言ってはいられないでしょう。 日本人が無知でも何でも、否応なしにこの問題に日本も巻き込まれると思います。

 

 そのようなときに、自分の位置をきちんと取れず、また対応を誤ると厄介な事になると思います。

 冷静に現実を見る目を持たなければ大変だと思います。

 

  

 

 

 

 

 

  1. 島国根性
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2010-09-10 10:54

節度と分別

コーラン焼却 止められぬ米国 「計画強行」言論の自由が壁に

 

 アメリカ政府がこのコーラン焼却計画を止められないのは当然でしょう。 アメリカは民主主義国家です。

 だからコーランではなく聖書や星条旗を燃やしても、全然罪にはなりません。

 

 コーランを燃やすのだけを止めるなんて事が出来るわけはないのです。

 そして記者によればこれで「焼却計画が強行されれば、米国の自由主義には「節度のない」の新たな形容詞が冠される。」のだそうです。

 

 この記者はアメリカ国内でイスラム教徒達が、聖書を燃やす集会をアメリカ政府が禁じなければ、これも「節度のない」米国の自由主義と言うのでしょうか?

 

  

 

 「コーラン焼却は、宗教対立を煽る無分別な行為である」と言うのは、アメリカだけでなく日本や欧米でも普通の見方だと思います。

 

 しかしそれを止めれば「イスラム社会がその節度を評価してくれるか?」と言えば、それは違うでしょう。

 

 もしそうなら、アメリカのイスラム教徒達は、911の犠牲者や遺族の感情に配慮して、グランドゼロモスクをなどと言う計画は撤廃するはずです。

 でも到底そんな事にはなりそうもありません。

 

 イスラム原理主義者に限らず、自分の事を100%正しいと思っている人間は、それについて相手が譲歩すれば、それを当然の勝利と思うだけです。

 

 自分が100%正義である以上、相手の譲歩を寛容や公正と評価する事など、論理的にもあり得ないのです。

 

 現在欧米が対峙しているイスラム社会とはそのようなものです。

 

  

 

 これは過去に例があります。

 以前のエントリー「「海の都の物語」より その2」で紹介しました。 ヴェネツィア共和国の話です。

 

 中世アドリア海の女王と言われた都市国家ヴェネツィア共和国は、中世の初頭から思想、宗教、言論の自由が守られてきました。

 

 オスマントルコが台頭し、ヨーロッパは宗教戦争や異端審問が荒れ狂う中でも、ヴェネツィア共和国内ではイスラム教徒のトルコ商人も、プロテスタントドイツ人学生も、ギリシャ正教徒の船乗り達も、それぞれの宗教を守って安心して生活できました。 

 そしてレコンキスタの煽りでスペインを追い出されたユダヤ人難民を多数受け入れました。 

 

 これは現在のワタシ達から見れば申し分なく公正で寛容で民主的で、素晴らしいものです。

 

 けれどこれは他のヨーロッパ諸国からも、トルコからも全然評価されませんでした。

 

 ヴェネツィアは双方から異端者の手先として憎まれただけです。

 聖ヨハネ騎士団はトルコ船だけではなく、ヴェネツィア船も異教徒として海賊行為の対象にしました。 ローマ法王もそれを黙認しました。

 

  

 

 勿論、現在は21世紀です。 だから宗教戦争の燃えた16~17世紀とは違います。

 しかし21世紀の現在でも、地球上には石器時代同様狩猟採集の生活をする人達も居ます。

 

 同様に16~17世紀の宗教意識で生きる人々も多数居るのです。

 実際現在イスラム社会は丁度16世紀以降のヨーロッパ、つまり宗教的情熱が宗教戦争や異端審問へと繋がった頃と同様の宗教意識で生きているのです。

 

 そのような人達は、オスマン帝国や聖ヨハネ騎士団がヴェネツィアを異教徒、異端として憎悪したのと同様、アメリカを憎悪するだけです。

 

 人口15万のヴェネツィアは経済力なら、人口でその数十倍のフランスやドイツやオスマントルコをも凌ぎました。

 

 しかし膨大な人口を相手の戦いでジワジワと消耗していきます。

 

 この状況は欧米が経済力では優位に立ちながらも、人口で遥かに勝るイスラム諸国と対峙しているのと、そっくりではありませんか?

 

 そしてこれはまた日本が巨大人口を持つ中国と対峙しているのとも同じ状況です。

 

  

 

 残念ですが、民主主義も男女平等も、それを尊重しているのは、現在欧米や日本始め一部の国々だけです。

 我々の節度や分別など、節度とも分別とも理解できない国々が圧倒的に多いのです。

 

 だからこれからワタシ達も、嘗てのヴェネツィア共和国のように、そのような事を尊重する意思などカケラもない国々を相手に生き抜く覚悟を決めるしかありません。

  1. 島国根性
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2010-09-05 21:26

現実を見ない努力

65年目の夏 非戦の国であるために

 

 連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」のモデル水木しげるさんの作品の一つに、漫画「総員玉砕せよ!」(講談社文庫)がある。

 何ともやり切れない物語だ。先の戦争で、南方のある島の守備隊が米軍の攻撃を持ちこたえられなくなり玉砕を命じられる。ところが戦場が混乱する中、80人余りが生き残ってしまう。

 玉砕は全員戦死が大前提だ。免れるのは許されない。司令部は守備隊の指揮官に自決を、一般の兵士には再度の玉砕を命令する。泣く泣く従う兵士たち…。

 水木さん自身の体験を元にしている。「90%は事実」だという。

   <戦争への仕掛け>

 生きて虜囚の辱めを受けず。先の戦争では多くの兵士が理不尽な戦陣訓に縛られ、なくさなくてすむ命をなくした。

 家族も苦しめられた。ある日、召集令状が届く。嫌な顔をするのは許されない。隣近所からの「おめでとうございます」の声に、家族は気丈に応える。映画などによくでてくる光景である。

 あんなことはもうこりごり-。戦争体験の風化がいわれる中でも、忌避する空気は国民の間に今なお根強い。

 憲法9条は戦争放棄をうたっている。憲法は為政者の行為を縛るためのものだ。政府が国民を戦争に駆り立てることは、憲法によって禁じられている。

 日本は今のところ「戦争ができない国」にどうにかとどまっている。そう判断していいだろう。

 過ちを繰り返さないために、問題を反対の方向から考えてみたい。「戦争ができる国」とはどんな国なのか、政府が戦争を始めるにはどんな条件が必要か。

 国防の義務を定める法律、軍事機密を特別に保護する規定、軍事法廷(軍法会議)…。制度的な仕掛けが幾つも挙がってくる。徴兵制はその最たるものだ。

 10年ほど前、沖縄の米海兵隊を訪ねたときのことである。司令官が力説していた。

 「この基地にいる兵士は全員、日本を守るために命を捨てる覚悟ができている」

 本当なのか、と米国に詳しい友人に尋ねたら、「それは立て前」と一笑に付された。若者の多くは退役後の奨学金目当てで軍に志願している、日本のために死ぬなんてとてもとても、と。

 貧しさゆえに、大勢の若者が軍の扉をたたく。米国の人々が「経済徴兵制」と呼ぶ仕組みである。

   <従順と付和雷同と>

 「戦争ができる国」になるために、制度的仕掛けに加えて欠かせないものがある。軍事に重きを置く価値観、言い換えれば「戦争の文化」とでも呼ぶべきものだ。生きて虜囚の、の戦陣訓や、戦死を名誉と受け止めさせる空気は、その一部である。

 この戦争に何の意味がある、自分の死は犬死にではないのか-。

 そんな疑問を抱きながら戦地に赴いた兵士は多かった。米国の若者も同じ問いをベトナムイラクで繰り返した。

 人間なら自然に抱くそうした疑問を無理やり抑えつけるところに、戦争の文化は成立する。

 あの時代を振り返ると、日本が破局へ至った一因に大勢順応があったことが分かる。例えば映画評論家の佐藤忠男さんは「草の根の軍国主義」(平凡社)で、自分が「軍国少年」だったころを振り返る。「われわれはじつに従順であり、我慢づよく、さらには大いに付和雷同的でした」

 戦争の文化はそうした精神構造にも支えられる。

 「ぼくは戦記ものをかくと、わけのわからない怒りが込み上げてきて仕方がない」。水木さんは「総員玉砕せよ!」のあとがきで書いている。それは、戦争体制になすすべなく押しされたことへの悔しさでもあるのだろう。

   <芽は小さなうちに>

 戦争の文化は過去のものと言えるだろうか。

 2年前の出来事を思い出す。航空自衛隊トップの田母神俊雄航空幕僚長が、中国侵略や朝鮮半島の植民地支配を正当化する考えを論文で発表して更迭された。

 大勢いる自衛隊員の中に特異な歴史観を持つ人が交じってくるのは避けられない。問題はそうした考えの人が隊内で評価され、トップに登り詰めたことにある。背中にひやりとしたものを感じた人は多いはずだ。

 1999年、国旗国歌法が制定された。日の丸を国旗、君が代を国歌と定める法律である。

 この法律は下手をすると、日本を「戦争ができる国」にする露払いになりかねない。私たちが法制定に反対した理由である。

 有事における国、自治体の役割や国民の協力などを定める国民保護法は2004年に成立した。私たちは慎重に審議するよう国会に求めた。国民が持つ権利の制限に踏み込んでいたからだ。

 65年目の夏に、あらためて考えたい。「戦争ができる国」へつながる動きに敏感であること、芽は小さなうちに摘むことを。

 

 http://www.shinmai.co.jp/news/20100815/KT100814ETI090008000022.htm

 

  

 

 これは8月15日に信濃毎日新聞に掲載された記事です。

 ワタシは自分で新聞を読めるようになった頃から、毎年この手の記事を読んできました。

 

 記事の内容はどのマスゴミでも同じです。 最初に戦争の悲劇を書き、戦争の悲劇を繰り返すなと書きます。 そして何か戦争に関連しそうなものがあれば、「芽は小さなうちに」と言う論法で絶対反対するのです。

 

 戦争をするからと言って軍備に反対するのは勿論ですが、その軍備をするのは国家ですから国家その物にも反対します。

 

 だから国家を象徴する国旗や国歌にも反対します。

 

 考えてみれば戦後教育の目的と言うのは、唯戦争に反対する事だけを目的にしているのです。

 

  

 

 勿論戦争は悲惨です。 だからそれを防ぐ事を目的の教育や報道は、それ自体オカシイわけではありません。

 しかしオカシイのはここで言う戦争とは、太平洋戦争での日本の政権と日本軍の対応だけを問題にし、それ以外の戦争の可能性には、一切言及しない事です。

 

 つまり日本のマスゴミの心配している戦争とは、日本に軍事政権ができて、それが宣戦布告して戦争を始める事以外の戦争を全く想定していないのです。

 

 そしてそのパターンでの戦争だけを防げば、日本は一切戦争に関わらないで済むと信じて疑わないのです。

 

 こんな馬鹿な事ってあるでしょうか?

 

 いかに歴史は繰り返すと言っても、歴史の中で同じ事が、全く同じパターンで起きる事はありません。

 

 戦争は日本が宣戦布告しなくても、相手から仕掛けられると言う可能性もあるのです。

 

  

 

 いや歴史を学べば自分が宣戦布告しなければ戦争は起きない、軍備を減らして相手に脅威を与えなければ戦争は起きないなどと言う珍説はあり得ません。

 

 そもそも過剰な軍備をしなければ戦争が起きないなら、自国側から宣戦布告しなければ戦争が起きないなら、日本軍がシナに侵攻したのは、シナが過剰な軍備をしてシナが宣戦布告をしたからと言う話になってしまいます。

 

 これなら全然日本が反省するどころではありません。

 

 日本に謝罪と反省をと喚き続けているマスゴミやその仲間の妄想平和主義者達の言い分だけで、お笑いの自己矛盾になります。

 

 だからこんな珍説は世界の何処にも通用しません。

 

 ドイツイタリアなど日本と同様の枢軸国はこんな馬鹿話に付き合う気はありません。

 

 そして第二次世界大戦後必死の独立戦争を戦って、独立を勝ち取ったアジアやアフリカの国々は、その独立を守るために、強い国家を作り強い軍隊を持とうと努力しているのです。

 

  

 

 日本だけがこの珍説に嵌り、今もまだその珍説に沿った教育をし、そして恐ろしい事にその珍説を外交方針にしています。

 そしてそれに多くの国民が疑念を抱いていません。

 

 それには理由があります。 

 それは日本が絶海の孤島で、近代まで異民族や外国からの侵略を受けた事がなかったと言う事実です。

 

 確かに近代以前なら日本のような孤島へ、軍隊を送り征服戦争を仕掛ける事は、どのような強国でも殆ど不可能でした。

 

 しかしそのような時代は、ペリー来航と共に終わったことを、当時の人々は理解したのです。

 だから富国強兵の政策を取ったのです。

 

 ところが、今はこの歴史的な現実さへも無視して、明治維新自体を侵略戦争の始まりと位置づけるトンデモ史観を大真面目に唱える人が居ます。

 それも立派な大学の教授だったりします。

 

  

 

 戦争は悲惨です。 それは誰にもわかります。

 だから戦争が終わった直後なら、感情的な厭戦気分、厭戦と反戦だけに嵌る気持ちはわかります。

 

 しかし本来なら人間は、どんなに辛い目にあっても、時間が経てば冷静になって、その辛い体験を冷静に評価しなおして、現実を生き抜くために学ぶべきことを学ぶはずではありませんか?

 

 けれどもこの記事に見られるような、現在日本で言われる「戦争への反省」はそのようなものではありません。

 

 それは戦争の悲劇をひたすら感情的に訴え、それからの非現実的な過剰反応を求めているだけです。

 

 言ってみれば車を右へ寄せすぎて、対向車線に飛び出して事故を起こした人が、今度はひたすらそれを恐れて左へ寄せる運転をせよと言っているような愚かさです。

 

 車を運転してれば常に事故の可能性はあります。 だから車を運転するときは右側へも左側へも寄せすぎてはいけないのです。

 

 これと同じで、国家が存続すれば戦争の危機は常にあるのです。

 だからそれを防ぐためには、過剰な軍備もいけないけれど、過小な軍備はまた危険なのです。

 

  

 

 世界の国々の圧倒的多数は、日本と違い何百年もの間、繰り返し戦争をしてきました。 自国が仕掛ける時もありましたが、相手から仕掛けられることもありました。

 

 ドイツフランスのような歴史的に強国だった国々も、敗戦や或いは他国の侵略による苦悩も体験しています。

 まして小国、弱国と言われる国々の苦悩は言うまでもありません。

 

 そしてそれらの国々は、その苦悩の歴史を通して、国家を守るための軍備を持ち、それを前提にした外交をしているのです。

 

 ところが現在の日本はそれらの国々の優れた知恵を学ぶ事ができるにも関わらず、それを拒否して挙句に「9条を世界に」などと無知蒙昧をさらけ出している始末です。

 

 ワタシは日本の戦後教育と、それによって育てられたインテリやそれを喧伝するマスゴミを見て思うのです。

 

 彼らは現実を見ない努力をしている、そして日本はそれに釣られて、現実を見ない努力をしてきたと。

 

 そしてその集大成が現在の民主党政権だと思うのです。

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