この男は「神はアッラーしかいない。 ここには神はいないから、ここで祈るな。」と言ったそうです。
また警察に対して「不当逮捕だ。」と言っていました。
彼が神社で賽銭箱や手水舎を壊す所は、防犯カメラにはっきりと写っています。 だから彼は犯行を否定する事はできません。
それで彼が自分の逮捕を「不当逮捕」と言ったのは、日本の法律ではなく、イスラム教の教理やイスラム教から見れば「不当逮捕だ」と言う事でしょう。
イスラム教の教理やイスラム法によれば、神はアッラーしかなく、神のいない神社で祈る事は許されないのです。 だからそういう邪教の神殿は破壊するべきなのです。
今回は小さな神社の賽銭箱や手水舎だけなので、被害は小さいのですが、しかしイスラム教の教理からすれば、湊川神社や伊勢神宮を全壊させても、それは罪ではなく非常に称賛するべき行為です。
また世界各地で起きているイスラム原理主義者のテロも、イスラム教の教理からすれば罪ではなく、やはり非常に称賛するべき行為です。
例えばフランスで高校の教師サミュエル・パティさんが、殺害されて斬首されました。
パティさんは授業で表現の自由を教える時に、フランスの風刺誌シャルル・エブド襲撃事件件を取り合あげた事で「神を冒涜したとした」としてイスラム原理主義者に殺害されたのです。
シャルル・エブドは日ごろ悪趣味な風刺画を掲載する雑誌で、福島第一原発事故についても見るに堪えない悪趣味な風刺画を掲載していました。
イスラム教も同様に風刺したのですが、しかしそれでイスラム原理主義のテロリストに襲われてこの雑誌社の社員や警官など12人が殺害されました。
サミュエル・パティさんはこの事件を授業で取り上げた事で、シャルル・エブドの社員達と同様に殺されたのです。
日本人の感覚からすれば滅茶苦茶です。
勿論フランス人の感覚からも絶対許せない話ですから、フランス政府はパティさんを国葬にしました。
イスラム原理主義テロの犠牲者を国葬にすることで、フランス政府はこのような犯罪は絶対に許さないと言う姿勢を鮮明にしたのです。
でもこのような殺人も、神社破壊もイスラム教の教理からすれば、これら犯罪者達は神から与えられた義務を果たしただけなのです。
アッラーが唯一絶対の神であり、イスラム教の教理がその神の真理なのだから、イスラム教徒にはその真理に逆らう者達を糺し、神の真理に従わせる義務があるのです。
世界征服はイスラム教徒の義務なのです。
神社の賽銭箱を壊したのは、神から与えられた義務を果たす行為なので、それを行った人を逮捕するのは不当逮捕なのです。
だ、だって神戸の神社もフランスの高校の先生も、あの悪趣味な雑誌社も、全然イスラム教には関係ないでしょう?
それなのに何でイスラム教徒が、怒るの?
「触らぬ神は祟りなし」じゃないの?
でもイスラム教の教理では「触らぬ神は祟りなし」なんて発想自体が、神を冒涜しているのです。
イスラム教ではこの賽銭箱を壊した犯人の言う通り「神はアッラーしかいない。」のです。 だからアッラー以外の「モノ」を神として祀っていはイケナイのです。
そういう宗教は邪教なので破壊しなければならないのです。
またアッラーが唯一絶対の神なので、アッラーの教えだけが真実です。
だからアッラーの教えには全ての人類が従わなくてはならないのです。
つまりイスラム教徒でなくてもイスラム教の戒律は守らなければならないのです。
そしてイスラム教徒には異教徒にそれを守らせる義務があるのです。
世界征服はイスラム教徒の義務なのです。
更にイスラム教にはイスラム法と言うのがあります。 イスラム教はムハンマド自身が国家を作ってイスラム教による統治をし、さらにそれがその後継者として拡大しサラセン帝国として中東からスペインまで支配した歴史があります。
その為、その時代にこの統治の為の法が作られました。
国家を法で統治するのは、現代の民主主義国家と同じですが、しかしイスラム法は預言者ムハンマドが作った法なので、人間が変える事はできません。
その為奴隷制度など、サラセン帝国時代の制度がそのまま法的に肯定されています。
ユダヤ教徒やキリスト教徒など非イスラム教徒にだけ課税する人頭税や、その他の宗教差別規定もそのままです。
それでもユダヤ教徒とキリスト教徒は「聖典の民」として、一定の人格権を認められていますが、多神教徒は完全な邪教とされており、人格権を一切認められていません。
しかしイスラム教ではこのイスラム法こそがイスラム教徒が守るべき法であり、それ以外の法など法として認めてもいません。
これだともう多様性どころじゃないです。
だからイスラム教徒の移民を多数抱え込んだ、欧米ではテロが頻発しているし、文化摩擦も凄く起きています。
そもそも法さへ守る意思がないのです。
「多様性が~~!!」と言っている人達は、こういう人達の存在をどう考えているのでしょうか?
数学的に言えば、多様性を認めない集合も、多様性と言う集合の中の一部です。 しかし他の集合に属する人達の価値観を一切認めない、自分の価値観に合わない人達は暴力を使って攻撃する。しかもそれが彼等の中では神から与えられた義務の履行である。
現実の社会でこういう集団を取り込んで、彼等の言うところの「多様性を認める社会」「寛容な社会」を作れるのでしょうか?
実際、イスラム移民を大量に受け入れた欧米では、イスラム原理主義者によるテロが頻発しているし、文化摩擦や犯罪が問題になっています。
イスラム移民側には移民先の価値観や法を守る意思が一切ない、それどころか彼等の価値観ではそんなモノを尊重してはイケナイのだから、揉めて当然なのです。
「多様性が~~!!」と喚いているのは、こういう連中を受け入れてしまった欧米諸国の側で、受け入れてしまった以上「寛容」とか「多様性」とかを持ち出して、必死に融和を図るしかないのです。
しかし融和って相手に融和する意思があって初めてできるモノです。
相手には融和する意思が一切なく、こちらが敗北して、相手に服従するまで満足しない場合に融和などできるのでしょうか?