ワタシが藤井先生の向こうを張るのはおこがましいのですが、しかしこの機会だから、ワタシはワタシで考えた「理想主義は諸悪の根源」を述べてみたいと思います。
そもそも理想って実現しない事を前提にしているのです。
ワタシはそもそも理想とは実現しないから理想、実現しない事を前提に語るのが理想だと思うのです。
その典型が理想気体です。
高校の物理で理想気体というのを習います。 これはボイル・シャルルの法則に完全に従う気体なのですが、しかしそのような気体は存在しないのです。
なぜならボイル・シャルルの法則では気体は圧力に反比例して体積が減るのですが、しかし気体というのは分子でできています。 そして分子には体積もあります。 だからその体積が問題になる程度まで圧力がかかると、それ以上圧力をかけるといろいろな問題が起きて、法則から外れてきます。
理想気体は実は、気体を構成する分子に、体積も質量も分子間力もない事を前提しているのです。
しかし質量も体積もない物質などは、物質として存在しませんから、理想気体とはそもそも存在不可能な気体なのです。
ボイル・シャルルの法則だけでなく、物理の法則というのは、極限値では成り立たないのです。
ニュートンの運動方程式は極小世界では成り立たず、原子の構造と性質を理解するには、量子力学が必要になりました。
物理の法則は、非常に完璧で美しく、理想の具現化のように思えるのですが、しかし物理の世界ではその理想は、限定的にしか実現しないのです。 なぜならそれは物が存在故の理であるからです。
人間の社会でも同じでしょう。
例えば親鸞は「善人なおをもって往生す。 まして悪人をや。」と言いました。
親鸞の理想では、どんな人でも往生できる、念仏を唱えれば救われるという事だったのでしょう。
しかし現実の社会でこれを適応すると、要するに真面目に社会の規則を守る必要が何もなくなります。
そして実際に親鸞の教えが広がると、犯罪をやっては念仏を唱えて、念仏を唱えながら犯罪を行う人達が現れました。
イヤこれ間違っていないのです。
念仏を唱えれば全て許されるなら、何をやっても構わないのです。
それどころか「善人なをもって往生す。 まして悪人をや。」なのですから、悪人でいる方が確実に往生できるのです。
だったら何で善人になろうと努力する必要があるのでしょうか?
「悪人だからこそ救われる」という言うのは、理想としては非常に美しく、書物で読めば感動しますが、しかしホントにそれを実践したらエライ事になってしまうのです。
そこで浄土真宗としてはこの教えを書いた親鸞の著書は、一般信徒には読ませないないようにしていまいました。
理想が理想どころではなくなる典型ではありませんか?
でも美しい理想というのは、人を引き付けます。
それはそもそも人間は、現実の物より現実であり得ないほど誇張した物に惹かれるからかもしれません。
例えばアニメの美少女など、小皿ほどもある巨大な目玉をしているのですが、あれは現実に存在すれば化け物です。
そしてああいう容姿だと生存するにはいろいろ障害がでるでしょう。
でも今の人は大きな美しい目を理想とするのでああいう表現になるのです。
親鸞が「善人なをもって往生す。 まして悪人をや。」と言ったのも同様で、「悪人でも努力して善人になれば救われる」では余りに当たり前の話だから、誰も感動しません。
そもそもこれでは全ての人が救われるという話にもならず、全ての人が念仏を唱えたら往生できるという教えのインパクトが全くなくなってしまいます。
だから敢えて現実にやれば社会的混乱を起こす事を前提に、この表現にしたのでしょう。
そしてこのような表現を使った故にこそ、親鸞の教えは人々に広がったのです。
人間は現実では満たされない思いを理想と信じるのです。
だからそれを表現すると、現実にはあり得ない話になります。
それどころか現実になっては大変困る話になってしまう場合も多いのです。
しかしだからこそ理想なのです。
そして理想は実現しない、現実には存在しない故に、その理想が実現したときに起きる問題は、実感することはできません。
一方現実は、それがどんなに良い物でも、問題を実感することができるのです。
これこそが人が理想主義に惹かれる大きな原因でしょう。
現在、世界中の民主主義国家には、共産主義に憧れる人が多数います。 彼等はソ連や中国や北朝鮮を礼賛し続けました。
そして彼等は共産主義に反対する人々、共産主義の侵略から自国を守ろうとする人々を、激しく非難攻撃してきました。
民主主義国家に暮らしながら、このようなことをするのは、つまりは上記のような理想主義の本質が生む行動でしょう。
例えば日本は現実に存在する民主主義国家としては結構良い状況だとは思います。 しかし現実の国家ですから、様々な問題はあります。 そして日本に生きていれば、それに対する不平や不満は幾らでも湧いてきます。
一方共産主義はマルクスやレーニンが脳内で作った理想世界ですから、一切の問題はありません。 そして共産主義国家は皆、共産主義を実現した事によって起きた問題は、徹底的に隠蔽してきました。
だから現実の民主主義社会に辟易している人達にすれば、見ぬもの清です。 だから彼等はひたすら民主主義社会を憎悪し、共産主義国家の理想に執着するのです。
そして自分達の理想を実現する為に、多くの犯罪を犯しました。
理想は理想であるが故に実現しない。
にも拘らず理想は理想であるが故に、多くの人々を惹きつけるというのは、非常に厄介な話です。
だって実現しない事を追う以上、行き着く先は破綻ですから。
そして理想を追う人々は、実現不可能な理想の為に実現可能な問題解決策を、妨害し破綻させることも多いのです。
しかしそれ以上に厄介なのは、こうした理想を追う理想主義が、倫理的に正しい事、良い事になっていることです。
つまり人が失敗をした場合や、それどころか犯罪を犯し場合でさへ、それが理想主義からであるとあまり非難されないのです。 イヤ礼賛される場合だってあるのです。
二二六事件など、第二次大戦前の白色テロ犯に対する朝日新聞等、当時のマスコミの報道が典型でしょう?
白色テロで多数の人を殺し、クーデターも失敗しても「国の為」に理想を追ったという事で、非難されるどころか礼賛されたのです。
しかし戦前だけでなく現在でも世論には常に、こうした理想主義礼賛バイアスがかかるのです。
だから政治家始め世論や人気を気にする人たちは、どうしても理想主義を気取る事になります。
マスコミや芸能人など人気その物で生きる人達ならなおさらです。
それで彼等はひたすら綺麗ごとを言う。
そしてそれが人々の目を現実からそらし、社会を破滅に追い込む結果になります。
ワタシも理想主義は諸悪の根源だと思います。
個人が理想に自分の人生を賭ける構いません。 その対価は自分で払えば済むのですから。
しかし理想に国家や社会を賭けてはいけません。
けれども理想主義者を自認する人々の多くは、なぜか理想を自分ではなく、国家や社会で実現させようとするのです。
つまり彼等は実は大変リアリストで、理想の対価を知っているのかもしれません。
だから自分ではなく、社会や国家にその対価を払わせる事を前提で、自分は心美しい人間であることをアピールしたいのでしょう。
理想主義ってホントに諸悪の根源ではありませんか?